壱岐梢「くるりと」(「天国飲屋」創刊号、2022年04月01日発行)
壱岐梢「くるりと」を読む。
融けたアイスクリームって舐めたことある?
「ごめん、今いい?」と
あなたからの電話
メールやラインではちょっとね、と
リアルな声どうしの時間は流れ
アイスクリームもうっかり融かした
クリームイエローの小さなとろみの沼
ひと匙舐めてみると
酷くなまぬるく 激しくあまったるく
あたしを攻撃してきた
同じ成分なのに
あまりに別のなにかになって
「同じ成分」とは凍ったアイスクリームも溶けたアイスクリームも「同じ成分」という意味だろう。牛乳、砂糖、いろいろ。「あまりに別のなにかになって」はアイスクリームのこと。
しかし、私は、どうしても違うことを考えてしまう。
「あたし」は「あなた」と電話で話した。話がもつれて、「あなた」が「あたし」を攻撃してきたのか。「あなた」が電話が終わった後も「あたし」を攻撃しているのかもしれない。「相談しているのに、そんな答えをするなんて、あなたはもう友人じゃない」とかなんとか。いや逆に、「あたし」を攻撃しているのは「あたし自身」かもしれない。なぜ、あんなふうに「あまったるい」ことを言ってしまったのか、と「あたし」自身が「あたし」を攻撃しているのかもしれない。「あなた」のためにも「あたし」のためにも、そしてだれの役にも立たない。みんなをだめにしてしまう。アイスクリームが溶けるみたいに。「酷くなまぬるく 激しくあまったるく」は、そうした事態をまねいてしまう「あたし自身」の態度だ。
もちろん、そんなふうには書いていない。
でも、私はそんなふうに読んでみたい。
詩は、こうつづいていく。
そういえばあたしたち
目には見えないパンデミックで
世界があまりに別な世界になるまで
なにかあれば会って
顔を寄せ合いひそひそやったっけ
これはもちろん「あなた」と「あたし」の関係を語っているのだが、「世界があまりに別な世界になるまで」を私は、話し合っている「あなた」と「あたし」が別の人間になるまで、と読んでしまうのだ。
話し合っているうちに世界の見え方が違ってくる(違ってきた)と壱岐は書いているのだが、世界が別のものになったのではなく、「あなた」と「あたし」がいままでとは違った視点を持つようになれば、世界は必然的に違って見えてくる。あるいは、世界が別のものに見えてくるのには、それまでの視点が変わってしまわなければならない。世界の変化は視点の変化、自分自身の変化なのである。
電話で話し合っているうちに、アイスクリームは溶けてしまった。それはアイスクリームの変化だけではなく、「あたし」の変化でもある。アイスクリームの「成分」が溶けた後も「同じ」ように、「あたし」の成分もいままでと「同じ」であるはずだ。物理的には。しかし、心理的、精神的、感情的にはどうか。まったく別人になっているかもしれない。
「あなた」と「あたし」はなんでも話せる親友だよね、のはずが、「もう電話してこないで、親友なんかじゃない」ということだってあるし、それは口にしないが「なんだかめんどうくさい友」ということだってある。
ひとつの世界がくるりと変わるなんて
あたりまえのことだったね
なんだって、「あたりまえのこと」なのだ。「あなた」と親密な話をするのも、「あなた」と「あたし」が突然絶交するのも、次の日に仲直りするのも「あたりまえ」。「同じ成分」でできているから、ね。「あたりまえ」は「同じ(成分)」ということ。
融けたアイスクリームを舐めてみてよ
ぞくりとするから
やりきれないあまぬるさ あまったるさ
口にできたはずの〈時〉を失った味がする
これは「あたし」が「あなた」に言いたいことばかもしれない。「あたし」は、いま、こう感じているよ。まあ、言わなくたって、つたわるだろうけれど。あるいは、これは「あなた」が「あたし」に言ったことばと読むこともできる。「あなた」と「あたし」もまた「同じ成分」でできている人間である。
そして。
世界が変わるのではなく、「自分自身が変わる」。この自分自身とは、そのひと固有の「時」でもある。でも気にしなくていい。「自分自身」とはどれだけ失ってみても、いつでもそこにある。まるで「時」と同じよう。たしかに貴重な「時」を失ったと思うときはある。ある時間があれば、もっと何かができたのに。でも、そう思うときも、「時」はいつでも私たちの前にある。私たちは「時」のなかにいる。その「時」もまた「同じ成分」でできている。
そんなことを壱岐は書いているのではない、のかもしれない。しかし、私は、そんなふうに読みながら、この「時」と「あたし」の関係は、「おじさん」には体得しにくい「哲学」だなあ、「おばさん哲学」だなあ、と思うのである。