詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

壱岐梢「くるりと」

2022-04-06 14:20:23 | 詩(雑誌・同人誌)

壱岐梢「くるりと」(「天国飲屋」創刊号、2022年04月01日発行)

 壱岐梢「くるりと」を読む。

融けたアイスクリームって舐めたことある?

「ごめん、今いい?」と
あなたからの電話
メールやラインではちょっとね、と
リアルな声どうしの時間は流れ
アイスクリームもうっかり融かした

クリームイエローの小さなとろみの沼
ひと匙舐めてみると
酷くなまぬるく 激しくあまったるく
あたしを攻撃してきた
同じ成分なのに
あまりに別のなにかになって

 「同じ成分」とは凍ったアイスクリームも溶けたアイスクリームも「同じ成分」という意味だろう。牛乳、砂糖、いろいろ。「あまりに別のなにかになって」はアイスクリームのこと。
 しかし、私は、どうしても違うことを考えてしまう。
 「あたし」は「あなた」と電話で話した。話がもつれて、「あなた」が「あたし」を攻撃してきたのか。「あなた」が電話が終わった後も「あたし」を攻撃しているのかもしれない。「相談しているのに、そんな答えをするなんて、あなたはもう友人じゃない」とかなんとか。いや逆に、「あたし」を攻撃しているのは「あたし自身」かもしれない。なぜ、あんなふうに「あまったるい」ことを言ってしまったのか、と「あたし」自身が「あたし」を攻撃しているのかもしれない。「あなた」のためにも「あたし」のためにも、そしてだれの役にも立たない。みんなをだめにしてしまう。アイスクリームが溶けるみたいに。「酷くなまぬるく 激しくあまったるく」は、そうした事態をまねいてしまう「あたし自身」の態度だ。
 もちろん、そんなふうには書いていない。
 でも、私はそんなふうに読んでみたい。
 詩は、こうつづいていく。

そういえばあたしたち
目には見えないパンデミックで
世界があまりに別な世界になるまで
なにかあれば会って
顔を寄せ合いひそひそやったっけ

 これはもちろん「あなた」と「あたし」の関係を語っているのだが、「世界があまりに別な世界になるまで」を私は、話し合っている「あなた」と「あたし」が別の人間になるまで、と読んでしまうのだ。
 話し合っているうちに世界の見え方が違ってくる(違ってきた)と壱岐は書いているのだが、世界が別のものになったのではなく、「あなた」と「あたし」がいままでとは違った視点を持つようになれば、世界は必然的に違って見えてくる。あるいは、世界が別のものに見えてくるのには、それまでの視点が変わってしまわなければならない。世界の変化は視点の変化、自分自身の変化なのである。
 電話で話し合っているうちに、アイスクリームは溶けてしまった。それはアイスクリームの変化だけではなく、「あたし」の変化でもある。アイスクリームの「成分」が溶けた後も「同じ」ように、「あたし」の成分もいままでと「同じ」であるはずだ。物理的には。しかし、心理的、精神的、感情的にはどうか。まったく別人になっているかもしれない。
 「あなた」と「あたし」はなんでも話せる親友だよね、のはずが、「もう電話してこないで、親友なんかじゃない」ということだってあるし、それは口にしないが「なんだかめんどうくさい友」ということだってある。

ひとつの世界がくるりと変わるなんて
あたりまえのことだったね

 なんだって、「あたりまえのこと」なのだ。「あなた」と親密な話をするのも、「あなた」と「あたし」が突然絶交するのも、次の日に仲直りするのも「あたりまえ」。「同じ成分」でできているから、ね。「あたりまえ」は「同じ(成分)」ということ。

融けたアイスクリームを舐めてみてよ
ぞくりとするから
やりきれないあまぬるさ あまったるさ
口にできたはずの〈時〉を失った味がする

 これは「あたし」が「あなた」に言いたいことばかもしれない。「あたし」は、いま、こう感じているよ。まあ、言わなくたって、つたわるだろうけれど。あるいは、これは「あなた」が「あたし」に言ったことばと読むこともできる。「あなた」と「あたし」もまた「同じ成分」でできている人間である。
 そして。
 世界が変わるのではなく、「自分自身が変わる」。この自分自身とは、そのひと固有の「時」でもある。でも気にしなくていい。「自分自身」とはどれだけ失ってみても、いつでもそこにある。まるで「時」と同じよう。たしかに貴重な「時」を失ったと思うときはある。ある時間があれば、もっと何かができたのに。でも、そう思うときも、「時」はいつでも私たちの前にある。私たちは「時」のなかにいる。その「時」もまた「同じ成分」でできている。

 そんなことを壱岐は書いているのではない、のかもしれない。しかし、私は、そんなふうに読みながら、この「時」と「あたし」の関係は、「おじさん」には体得しにくい「哲学」だなあ、「おばさん哲学」だなあ、と思うのである。

 

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「ウクライナでの虐殺」について考える

2022-04-06 10:44:14 | 考える日記

「ウクライナでの虐殺」について考える

 きのう、2022年04月06日、私は、何も書かなかった。書けなかった。ことばが動かなかった。
 何があったか。新聞がウクライナの状況を報道していた。ロシア軍による住民虐殺があった。それを読んで、私は、私のことばが突然、動かなくなった。
 いま、やっと動かしているが。
 なぜ、動かなくなったのか。そこに書かれている「死」が、私の知っているものではなかったからだ。どう理解していいか、わからなかった。そこから一日かけて、私自身の「死」に関する体験を思い起こしてみると。私は、死を自分の目で見たのは、兄の生命維持装置を停止させたときだけである。父も母も、私が見たときは、もう死んでしまっていて、「死ぬ」とはどういうことかを見ていない。もうひとりの兄についても、「死ぬ」瞬間を見ていない。「死」は過去形として存在したが、現在形としては存在したことがないのだ。(兄の生命維持装置を停止したときは「現在形」といえるかどうか、よくわからない。すでに何の反応も示すことができない状態だった。いわゆる「脳死」状態だった。)
 私は、「死ぬ」ということを語るためのことばを持っていないのだ。私は「死」については、葬儀とか焼骨についてなら語ることができるが、「死ぬ」ことについて語ることばを持っていないのだ。
 
 ここから、考え続けた。
 私はウクライナで起きていることを知らない。ロシア軍による虐殺があったのは事実だろう。軍隊が動けば、どけでも虐殺は起きる。そういう「歴史」を私は知っている。もちろん、「読んで」知っているということであって、目撃して知っているわけではない。「ことば」を知っている、ということである。そういう「知っていることば」と、「新聞に書かれていることば」は一致するものを多く含んでいる。だから、私は、それを「事実」として認識する。
 しかし、そこからことばが動かなかった。多くの政治家がロシアを批判している。当然のことである。彼らの「ことば」は、ごく自然なものだろう。そうは理解しても、私が彼らと同じことばを言えるかというと、どうもつまずいてしまう。私は政治家ではないから、そういうことばを言う必要はないのだが、何かつまずいてしまう。
 「知っている(わかっている)」ことについて語るというよりも、知らないことを、知らないまま、他人のことばで語ってしまうことになる、という感じがするのだ。
 これが、ことばが動かなくなった原因だ。

 きょうは、少し、ことばが動く。動かさなければ、と思ったのだ。「事実」似ついては、私は何もわからないが、「情報」についてなら、わかるというか、疑問に思うこと、名得できないことに対して、ことばが動く。「ことば(情報)」というものがどういうものか、私はある程度、経験として知っているからである。ウクライナで起きていることはわからないが、情報の現場で起きていることなら、ある程度、わかる。その「わかる」ことに対して、私のことばは動く。
 長い前置きになったが。

 ウクライナで起きた虐殺に関する「続報」が読売新聞に載っている。2022年04月06日(14版・西部版)の2面に、「ブチャ/露撤退前 衛星写真に遺体/米報道 露主張の根拠 崩れる」という見出し。見出しからわかるように、読売新聞が直接取材したニュースではなく、アメリカの新聞(ニューヨーク・タイムズ、電子版)の記事を紹介したものである。7人の遺体が放置された衛星写真も掲載されている。AFP時事が配信したものである。これがワシントン・ポストが掲載した写真かどうかは、説明を読んでもわからない。
 ウクライナで起きた虐殺を、ジャーナリズムはどうつたえているか。
↓↓↓↓
米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は4日、露軍が制圧していた3月中旬にブチャを撮影した衛星写真に、住民とみられる複数の遺体が写っていることが確認されたと報じた。ロシアはこれまで、民間人の遺体について、「(3月末の)露軍撤退後にウクライナ側が創作のために遺体を置いた」などと主張しているが、その根拠が大きく崩れた。
↑↑↑↑
 ロシアは、虐殺はウクライナの「創作」と批判しているが、そうではない、とまず結論が書かれている。正確には「(ロシアの主張の)根拠が大きく崩れた」と書いている。見出しも、「根拠 崩れる」というトーンである。
 このあとに、ニューヨーク・タイムズがそう結論を下した「理由(根拠)」が書かれている。番号は私がつけた。
↓↓↓↓
 ①同紙が民間の衛星写真を解析した結果、ブチャの通りでは3月11日時点で少なくとも11人の遺体が横たわっているのが確認された。②3月20~21日以降の衛星写真には、さらに遺体が増えていた。③同紙は、露軍撤退後のブチャの写真を入手し、衛星写真と比較したところ、同じ場所に遺体が写っており、同紙は「ロシアが主張する時点の数週間前から遺体はそこにあった」などと報じた。
↑↑↑↑
 いわゆる「三段論法」だろうか。ロシアは「3月末に、ウクライナ軍創作した」と主張している。しかし、3月末ではなく、①3月11日、11人の遺体があった、②3月20日以降、遺体が増えている(この間に、さらに虐殺がおこなわれた、という意味だろう)③なぜなら、2枚の写真では同じ場所に遺体が映っている。同じ場所で虐殺がおこなわれたのである。
 これは「説得力」があるね。「反論」のしようがないようにみえるね。でも、私は、そこに非常に疑問を感じたのだ。
 今度の虐殺で問題になっていることは、ふたつある。
 ①軍人ではなく、住民が殺された。
 ②その遺体が放置された。
 この場合、①は「誤射」ということがありうる。しかし②は誤って放置した、ということない。だからこそ、その遺体の放置を根拠に「虐殺」という批判が成立する。誤射による殺人も犯罪だが、遺体の放置は「倫理」に完全に反する。
 そして、この「遺体の放置」を理由に、虐殺を「証明」し、ロシアを批判しようとするのならば、なぜ、その「証拠写真」を掲載しないのか。ことばで説明するよりも、2枚の写真を比較させる方が、説得力があるだろう。
 (ニューヨーク・タイムズは、2枚掲載しているのかもしれないが、読売新聞は「AFP時事」配信の写真を1枚つかっているだけで、それがニューヨーク・タイムズが掲載したものかどうかは明記していない。しかも、読売新聞が掲載している写真の説明には「3月19日に撮影」と書かれていて、繰り返しになるがそこには7人の遺体が写っている。ニューヨーク・タイムズの「論理の根拠」である3月11日11人の遺体、3月20日以降の11人を上回る遺体の写真ではない。)
 さらに、私は、こんなことも思う。
 もし、3月11日時点での遺体が、3月20日(あるいは3月19日でもいいけれど)以降も放置されていたとしたら、そして放置が「虐殺」の証拠というのなら、「虐殺」したのはロシア軍だけなのか。ロシア軍だけが遺体を放置したのか。これは、ウクライナの市民にとっては心外な疑問かもしれないが、「遺体」を見たら、それを放置するのではなく、埋葬できないにしてもなんとか遺体が傷つかない場所に移してやりたいと思うのが人情ではないだろうか。一日、二日ではない。十日間以上も放置しているのである。もちろん、そこには住民はもういないから、そういうことはできない、ということかもしれないが……。彼らの遺族、友人たちは、いま、どこでどんなふうにしているのだろうか。その写真を見たら、どう思うだろうか……。
 私は、こういうことを体験したことがないから、映画などで知っていることを積み重ねて考えるだけだが、人は、知っている人が傷ついたり、死んだりしたら、なんとかその人を(その遺体を)安全な場所に移したいと思って行動する。そのときできなくても、あとで、そうしようとして、その場所へ行ったりする。そういう「痕跡」が、ニューヨーク・タイムズからはうかがえない。それを転写している読売新聞の記事からは、さらにうかがえない。
 何か変だなあ。
 遺体の身になっていない。遺体が「私たちは虐殺された」と叫んでいる。その声がニューヨーク・タイムズの記者、読売新聞の記者に聞こえたのなら、その「叫び声」がもっと明確につたわるように表現すべきだろう。「証拠」もつかんでいるというのに、その「証拠」を隠すように、記事には出てこない3月19日の写真を「証拠」として掲載するのはなぜなんだろう。

 きのう、私には、犠牲者の声が聞こえなかった。あるいは、声が大きすぎて、何を言っているのか聞き取れなかった。
 しかし、きょう新聞を読んで、ウクライナで虐殺された人の声が聞こえた。事実をはっきりとつたえてほしい、証拠をはっきりと、誰にでもわかる形でつたえてほしいと、彼らは叫んでいる。
 私には、それをつたえる方法がない。
 かわりに、新聞記事を読みながら、こんなつたえ方はない、と怒りをこめて批判する。もっと犠牲者によりそったつたえ方をしてほしい。

 

 

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