詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「プーチンのせい」(情報の読み方)

2022-04-13 22:31:19 | 考える日記

 2022年04月13日の読売新聞夕刊(4版・西部版)3面に、アメリカの物価高と、バイデンのセットで載っている。(番号は、私がつけた。)
↓↓↓↓
 【ワシントン=山内竜介】米国のバイデン大統領は12日、同日発表の①3月の消費者物価指数上昇率が前年同月比8・5%と約40年ぶりの伸びとなったことについて、②「70%はプーチン(露大統領)が引き起こしたガソリン価格上昇によるものだ」と述べた。ロシアのウクライナ侵攻に伴う燃料価格の高騰にいらだちをあらわにした。
↑↑↑↑
 記事の書き方からわかるように、これは①3月のアメリカの物価が8・5%上がった②その原因をバイデンが「プーチンのせいだ」ということだが、①の方は既にニュースとして報道されているので、見出しは「物価高、70%プーチンのせい、バイデン氏主張」ととっている。
 戦争も、物価高も、みんなプーチンが悪い、と言いたいのである。戦争はたしかにプーチンが悪い。しかし、物価高は、一概にプーチンだけが悪いとは言えない。貿易が機能せず、いろいろなものが不足しているのはたしかだが、輸入に頼らない国家を作り上げれていれば、ロシアからいろいろなものが輸入できなくなったからといって物価が上がることはないだろう。
 で、ここから思うのだが。
 アメリカは石油も農業産品も輸出している。(輸入もあるだろうけれど。)国土も広ければ、資源も多い。人口だって、多い(労働力が不足するということはないはずだ)。そういうアメリカで物価が高くなるということは、どういうことなのだ。
 というよりも。
 資源大国と言えるアメリカで物価が高くなるなら、資源をもたない国の物価はもっと高くなるだろう。日本の場合、8・5%でとどまるかどうかわからない。
 フランス大統領選は、物価高の影響でマクロンが苦戦している。新聞では報道されていないが、スペインでも物価はどんどん上がっている。(数人の友人に聞いただけだから、厳密な情報ではないが、私と同世代の男性が実感しているくらいだから、あらゆる商品が値上がりしているのだろう。)
 だから。
 今回のパイデンの「物価高はプーチンのせい」というのは、単にアメリカ国内向けの発言ではなく、外国向けのメッセージでもある。もっと極端に言えば、バイデンが率先して「物価高はプーチンのせい」とアピールするから、各国とも物価をどんどん上げてしまえ、そうすることで反プーチン感情をあおれ、と言っているのである。物価高に対して(価格転嫁に対して)、バイデンが「お墨付き」を与えたのだ。
 日本では、きっと、これからもっともっと値上がりがつづく。企業は悪くない。プーチンが悪いのだ。

 それにしても、と思うのだ。
 アメリカはNATOにアメリカの軍備を売りつけることで金を儲けるだけでは満足せず、その他の原料も高値で売りつけ、金を稼ごうとしている。アメリカ国内でもものが不足している。それを輸出にまわしているのだから、アメリカからの輸出品が高くなるのはあたり前、ということだ。「高くても、輸出してもらえるだけありがたいと思え」というわけだ。
 ニュース(ジャーナリズム)は、プーチンの引き起こすかもしれない核戦争に人々の注意を引きつけるのに躍起だが、核戦争が起きなくても、多くの国で多くの市民が物価高/生活苦にあえぎ、死んでいくことになるかもしれない。この物価高による貧困死は、戦争のように目立たない。じわじわと侵攻していく。
 そのとき、その一方で、金儲けができたと喜ぶひとがいる。
 そのことに、目を向けなければならない。

 私は何度も「経済戦争」ということばをつかってきたが、ロシアに「侵攻をやめろ」と叫び続けると同時に、アメリカに「経済戦争をやめろ」ということも必要だと思う。それぞれの政府に対して「経済戦争をやめろ」と叫ばないと、私たちは、ほんとうに貧困(物価高)のために死んでいくことになる。
 悠長に聞こえるかもしれないが、戦争をするなら「言論戦争/外交」をしろ、と言いたい。プーチンを言論で説得するための努力を、アメリカをはじめ多くの国はすべきなのだ。アメリカは米ロ対談がうまくいかなかったらアメリカの責任が問われると思っているのだろう。こんな事態になっても、まだプーチンに対話しようと呼びかけてはいない。(報道されないところで交渉があるのかもしれないが、表には出てきていない。)マクロンが何度もプーチンと対話しているのと比べてみるといい。武器を売りつけ、アメリカの商品を売りつけ、「おいしいところ(金儲け)」だけをしている。
 そのあげくに、国民から物価高の批判を受けると「プーチンのせい」と言って逃げてしまう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石毛拓郎『ガリバーの牛に』

2022-04-13 12:03:27 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(紫陽社、2022年06月01日発行)

 石毛拓郎が詩集を出した。「2022年06月01日発行」だから、ほんとうはまだ出したことになっていないのかもしれないが、けさ、朝刊と一緒に郵便受けに入っていた。石毛拓郎とは2回会った気がする。3回だったかもしれないし、1回だったかもしれない。記憶とはいいかげんなものだ。で、その記憶なのだが。石毛の詩を私は「詩集」という形で読んだことがあっただろうか。思い出せない。家に詩集があるだろうか。わからない。だいたい、私は石毛の詩が好きなんだろうか。わからない。たぶん、わからないから、とぎれとぎれになりながらも交流というものがあるのだろう。別に、わからなくてもかまわない。わからないひとがいる、わからないことばがある、ということが、たぶん、私にとっては大事なことなのだろう。
 前置きが長くなったが、きょうから一日一篇ずつ、石毛拓郎『ガリバーの牛に』の詩を読んでいくことにする。「わからない」に向き合い続けてみる。途中でいやになるかもしれないし、書けない日もあるかもしれないが、「わからない」について書くのだから、成り行き任せである。
 巻頭の詩は「渚の塹壕にて」。

すっかり 忘れていまいか
原民喜の「ガリバーの馬」というやつだ
原爆に遭遇した すぐ後に
ひょっと 見たら
むこうの原っぱに 馬が繋がれている
馬は ゆうぜんと草を食べている
哲人のような馬の 敗戦のすがた
ははぁ すっかり忘れていた
淫猥で 野蛮な人間がうろたえている
うう----ん やきりれないなぁ

 「ガリバーの牛」ではなく「ガリバーの馬」が出てくる。それもガリバーから直接あらわれるのではなく、原民喜を通ってやってくる。この「間接的」に、私は、ちょっと驚く。
 それはほんとうに間接的なのか。それとも「間接」というものは、何かを鮮明にするために存在するものなのか。どんな記憶、時間も、「過去」ではなく、「いま」として存在しようとあらわれてくるが、その瞬間、破られた何かが「間接」の印象を引き起こすだけで、問題は、この存在していないもの(遠い記憶、遠い時間のなかにあるもの)が突然あらわれてくるということと、その突然に、人間が気づいてしまうということにあるのかもしれない。
 人間は時間を生きているが、同時に、時間に流されているだけではない。時間を呼び戻している。そういうことができるのである。いや、時間を無視して、「存在」を呼び戻し、それを「いま」という時間にしてしまうことができる。このとき、石毛は原民喜なのか、それとも馬なのか。よくわからない。原民喜だって、原民喜なのか「ガリバーの馬」なのか、あるいはスウィフトなのかわからない。そんなことは区別しなくていのだろう。区別するよりも、わからないまま「つながり」があるといことが大切なのだと思う。
 私たちは、突然、何かとつながってしまう。つながった瞬間、私が私なのか、馬なのか、原民喜なのか、スウィフトなのか、あるいは石毛なのか、どうでもよくなる。一頭の馬が「ガリバーの(旅行記に出て来る)馬」に見えた。その瞬間に見るのは、そして、馬かスウィフトか「わからない」ように、原民喜が見るのは、ほんとうは「ガリバーの馬」ではないのだ。「人間がうろたえている」という別のものなのだ。何かが別の何かと(そこに存在しない何かと)結びつくとき、そこには存在を超えた「別のもの」がはっきりと認識されている。そういうことが、ここには書かれているのだろう。
 原爆、敗戦を気にせず、馬は悠然と草を食べている。一方、人間がうろたえている。そのときの人間は「淫猥」で「野蛮」である。「ゆうぜん」からは、ほど遠い。馬のなかに「ゆうぜん」を見るとき、原民喜は、その「ゆうぜん」にこころがひかれるだけではなく、人間の姿に「やりきれないなぁ」と感じる。というのは、原民喜のほんとうの感想か、石毛が原民喜はそう感じているだろうと思ったのか、原民喜の詩を読んで石毛がそう感じたのか。これも、まあ、区別しなくていい。一方に「ゆうぜん」があり、他方に「淫猥/野蛮」があり、「やりきれないなぁ」と感じる。それが「敗戦」ということか。でも、なぜ「淫猥」「野蛮」が突然出てきたのか、わからない。スウィフト、原民喜が人間を、そう定義していたのか。
 ということを考えていたら。

体験の記憶とか回想なんて なんとも無力で----
忘却とは忘れ去ることなり か
暗に 騒がれているだけじゃないの?
そうそう 記憶を予言へと転換していく だってさ
それは {頭の切り替えが 必要だ!}ということじゃないか

 石毛は、何かを、強引に整理している。「記憶を予言へと転換していく」とは「過去を未来に変えていく」であり、「寓話(ガリバー旅行記)を現実に変えていく」かもしれないが、それは、それでは実際にはどういうことなのか。
 この二連目は、1945年ではなく、「いま」の状況への感想なのか。「いま」この詩を書く理由なのか。
 そういうことを考えていると、三連目から、突然違う「主人公」が登場する。

九十九里刑部岬を眺望する 飯岡の浜で
来る日も来る日も 塹壕掘り
墓穴に身を挺していた 若き勇者・林家三平は
陶器製の地雷を 抱え
尻に「肥後守」を刺して 眠気を払っていた
戦車揚陸艦が 上陸の気配をうかがって
つぎは この浜から{本土決戦だ!}と
東京大空襲の噂を耳にいれてから 三平は覚悟した
今にも 敵兵上陸作戦の決行があるだろうと----

 戦争(敗戦/敗戦間近)は、原民喜と林家三平をつなぐが、ガリバー(スウィフト)は消えてしまった。「馬」の「ゆうぜん」も消えてしまった。あえていえば林家三平のなかに「ゆうぜん」とは無縁のような(?)、こっけいな人間が引き継がれている。主人公が、かなり、ふつうの人間に近くなった感じ。
 これは、きっと、とても大事なことだ。石毛は何かを考えるとき、原民喜、スウィフトという「知識」のなかで考えるのではなく、もっと身近な人間をとおして考え直すのだ。「知識を日常経験に置き換える」のである。石毛については、私は、いろいろわからないことがあるのだけれど、この「日常経験の重視」というのはとてもいい。そこには「わかりやすさ」だけではなく、なんといえばいいのか、「日常への信頼」(暮らしへの信頼)のようなものがある。
 林家三平を原民喜のような知識人ではない、スウィフトのような知識人ではないというつもりはないが、まあ、くだらない(いい意味でいうのだが)落語家である。「反知識人」(知識人を笑う人間)であり、いわゆる日常に生活している隣人に近い。その林家三平は、どうしたのか。どうなったのか。
 対決するはずの敵は沖へ移動して行き、掘ったはずの塹壕は満潮で崩れている。「ああぁ また 墓穴の掘り直しか」と愚痴をこぼしている。(詩の途中を省略。)

{重大放送がある}とは 強ばった上官から聞いてはいたが
その時刻 三平は{終戦勅語だ}と 知る由もなく
ずるけて「玉音放送」を 聞かなかった
上官の命令! で 墓穴に 地雷を埋めにかかったとき
あっけなく 負け戦さを悟った

 「ずるけて」がいいなあ。「知識人」のように自分を律したりはしない。「意識/精神」を優先しない。「本土決戦だ」と覚悟はしても、「こわばり」はしない。「上官(知識人)」とは、「いま」への向き合い方が違う。それを石毛は、肯定している。肯定しなければならないのは、「ずるけ」のなかにつづいている「暮らし」である。
 「あっけなく 負け戦さを悟った」の「あっけなく」と「悟った」もとても気持ちがいい。「悟る」ことはむずかしいことではないのだ。「あっけない」ものなのだ。
 このあと、詩の最後の部分がとてもいい。

飯岡浜の塹壕から 手ぶらで這い出して
海上椿海がつづく 干潟の草むらで
すっかり その乳房にお世話になっている
「ガリバーの牛」を見つけた
だれかが息抜きに 洒落て 名づけたのだ
うなかみの干潟 その椿の海のかたすみで
いつものように 草を食んでいるのを
三平は 敗戦の涙もなく 黙って見ていた
野蛮で 淫猥なおれたちなどに
お構いもなく
哲人のような牛の そのすがたを----。

 「知識人」は「ガリバーの馬」を思う。林家三平は、馬ではなく、牛を見ている。「ガリバーの牛」は「ガリバーの馬」とは関係がないかもしれない。あるとすれば、実際の寓話とは関係なく、たぶん有名なガリバーと小人との関係があるだろうと思う。牛は、とても大きいのだ。からだが大きいというよりも「乳房」が大きいのだ。林家三平たちは、その乳房を女の乳房に見立てて、オナニーをしたのだろう。(乳房にむしゃぶりついて、牛乳を飲んでいた、とは思えない。)「野蛮」「淫猥」が、とても健康的に響いてくる。それは「哲人のような牛の そのすがた」の健康につながる。
 「野蛮」、とりわけ「淫猥」は、精神にとっては「不健康」で抑圧しなければならないものかもしれない。放置すると、「精神の目的」に到達できないかもしれない。しかし、「野蛮」「淫猥」は肉体、感性にとっては「健康」そのものである。そして、すべての「健康」は「哲人」につながる。

 石毛のことばには、何か「反逆精神」というものがある。「知」というものを描くときも、「野蛮」「淫猥」をそぎ落として、鋭敏になっていくのではなく、むしろ「知の鋭敏」を「野蛮」「淫猥」(=暮らし/肉体/欲望)で叩くことで、「重い」ものにしていく。鋭い刃、殺傷力のある武器ではなく、ただでかいだけの石のような「抵抗(物)」に変えていく。でかすぎて、殺しの道具(武器)にもつかえないが、身を隠すことができる石のようなものに。どこへも連れ去られない、つかむことのできない重い「抵抗」をもって生きていく肉体に変えていくという印象がある。
 石毛の「わかりにくさ」は、この「抵抗」(肉体の、どうしようもない重さ、重さの強さ)にある。「わかりにくい」と書いている限りは、私は、まだまだ石毛のことばを「頭」でつかみながら読んでいるということだな。

 引用の誤記をチェックするために詩を読み返していたら、副題に「1945・8・15 下総椿海の「ガリバーの牛」と共にむかえた一兵卒・初代林家三平、敗戦の姿。」とある。林家三平の話をどこかで聞き、そのあとで「ガリバーの牛」を補足するために原民喜の詩(エピソード?)を最初に書いたのかもしれない。林家三平が原民喜の「ガリバーの馬」を知っていて、「ガリバーの牛」と言ったのではないかもしれない。原民喜を引用することで、林家三平を、原民喜の「位置」にまで引き上げようという意図が石毛にあるのかもしれない。必要なのは、林家三平の「感覚(実感)」なのだ、と。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする