石毛拓郎『ガリバーの牛に』(紫陽社、2022年06月01日発行)
石毛拓郎が詩集を出した。「2022年06月01日発行」だから、ほんとうはまだ出したことになっていないのかもしれないが、けさ、朝刊と一緒に郵便受けに入っていた。石毛拓郎とは2回会った気がする。3回だったかもしれないし、1回だったかもしれない。記憶とはいいかげんなものだ。で、その記憶なのだが。石毛の詩を私は「詩集」という形で読んだことがあっただろうか。思い出せない。家に詩集があるだろうか。わからない。だいたい、私は石毛の詩が好きなんだろうか。わからない。たぶん、わからないから、とぎれとぎれになりながらも交流というものがあるのだろう。別に、わからなくてもかまわない。わからないひとがいる、わからないことばがある、ということが、たぶん、私にとっては大事なことなのだろう。
前置きが長くなったが、きょうから一日一篇ずつ、石毛拓郎『ガリバーの牛に』の詩を読んでいくことにする。「わからない」に向き合い続けてみる。途中でいやになるかもしれないし、書けない日もあるかもしれないが、「わからない」について書くのだから、成り行き任せである。
巻頭の詩は「渚の塹壕にて」。
すっかり 忘れていまいか
原民喜の「ガリバーの馬」というやつだ
原爆に遭遇した すぐ後に
ひょっと 見たら
むこうの原っぱに 馬が繋がれている
馬は ゆうぜんと草を食べている
哲人のような馬の 敗戦のすがた
ははぁ すっかり忘れていた
淫猥で 野蛮な人間がうろたえている
うう----ん やきりれないなぁ
「ガリバーの牛」ではなく「ガリバーの馬」が出てくる。それもガリバーから直接あらわれるのではなく、原民喜を通ってやってくる。この「間接的」に、私は、ちょっと驚く。
それはほんとうに間接的なのか。それとも「間接」というものは、何かを鮮明にするために存在するものなのか。どんな記憶、時間も、「過去」ではなく、「いま」として存在しようとあらわれてくるが、その瞬間、破られた何かが「間接」の印象を引き起こすだけで、問題は、この存在していないもの(遠い記憶、遠い時間のなかにあるもの)が突然あらわれてくるということと、その突然に、人間が気づいてしまうということにあるのかもしれない。
人間は時間を生きているが、同時に、時間に流されているだけではない。時間を呼び戻している。そういうことができるのである。いや、時間を無視して、「存在」を呼び戻し、それを「いま」という時間にしてしまうことができる。このとき、石毛は原民喜なのか、それとも馬なのか。よくわからない。原民喜だって、原民喜なのか「ガリバーの馬」なのか、あるいはスウィフトなのかわからない。そんなことは区別しなくていのだろう。区別するよりも、わからないまま「つながり」があるといことが大切なのだと思う。
私たちは、突然、何かとつながってしまう。つながった瞬間、私が私なのか、馬なのか、原民喜なのか、スウィフトなのか、あるいは石毛なのか、どうでもよくなる。一頭の馬が「ガリバーの(旅行記に出て来る)馬」に見えた。その瞬間に見るのは、そして、馬かスウィフトか「わからない」ように、原民喜が見るのは、ほんとうは「ガリバーの馬」ではないのだ。「人間がうろたえている」という別のものなのだ。何かが別の何かと(そこに存在しない何かと)結びつくとき、そこには存在を超えた「別のもの」がはっきりと認識されている。そういうことが、ここには書かれているのだろう。
原爆、敗戦を気にせず、馬は悠然と草を食べている。一方、人間がうろたえている。そのときの人間は「淫猥」で「野蛮」である。「ゆうぜん」からは、ほど遠い。馬のなかに「ゆうぜん」を見るとき、原民喜は、その「ゆうぜん」にこころがひかれるだけではなく、人間の姿に「やりきれないなぁ」と感じる。というのは、原民喜のほんとうの感想か、石毛が原民喜はそう感じているだろうと思ったのか、原民喜の詩を読んで石毛がそう感じたのか。これも、まあ、区別しなくていい。一方に「ゆうぜん」があり、他方に「淫猥/野蛮」があり、「やりきれないなぁ」と感じる。それが「敗戦」ということか。でも、なぜ「淫猥」「野蛮」が突然出てきたのか、わからない。スウィフト、原民喜が人間を、そう定義していたのか。
ということを考えていたら。
体験の記憶とか回想なんて なんとも無力で----
忘却とは忘れ去ることなり か
暗に 騒がれているだけじゃないの?
そうそう 記憶を予言へと転換していく だってさ
それは {頭の切り替えが 必要だ!}ということじゃないか
石毛は、何かを、強引に整理している。「記憶を予言へと転換していく」とは「過去を未来に変えていく」であり、「寓話(ガリバー旅行記)を現実に変えていく」かもしれないが、それは、それでは実際にはどういうことなのか。
この二連目は、1945年ではなく、「いま」の状況への感想なのか。「いま」この詩を書く理由なのか。
そういうことを考えていると、三連目から、突然違う「主人公」が登場する。
九十九里刑部岬を眺望する 飯岡の浜で
来る日も来る日も 塹壕掘り
墓穴に身を挺していた 若き勇者・林家三平は
陶器製の地雷を 抱え
尻に「肥後守」を刺して 眠気を払っていた
戦車揚陸艦が 上陸の気配をうかがって
つぎは この浜から{本土決戦だ!}と
東京大空襲の噂を耳にいれてから 三平は覚悟した
今にも 敵兵上陸作戦の決行があるだろうと----
戦争(敗戦/敗戦間近)は、原民喜と林家三平をつなぐが、ガリバー(スウィフト)は消えてしまった。「馬」の「ゆうぜん」も消えてしまった。あえていえば林家三平のなかに「ゆうぜん」とは無縁のような(?)、こっけいな人間が引き継がれている。主人公が、かなり、ふつうの人間に近くなった感じ。
これは、きっと、とても大事なことだ。石毛は何かを考えるとき、原民喜、スウィフトという「知識」のなかで考えるのではなく、もっと身近な人間をとおして考え直すのだ。「知識を日常経験に置き換える」のである。石毛については、私は、いろいろわからないことがあるのだけれど、この「日常経験の重視」というのはとてもいい。そこには「わかりやすさ」だけではなく、なんといえばいいのか、「日常への信頼」(暮らしへの信頼)のようなものがある。
林家三平を原民喜のような知識人ではない、スウィフトのような知識人ではないというつもりはないが、まあ、くだらない(いい意味でいうのだが)落語家である。「反知識人」(知識人を笑う人間)であり、いわゆる日常に生活している隣人に近い。その林家三平は、どうしたのか。どうなったのか。
対決するはずの敵は沖へ移動して行き、掘ったはずの塹壕は満潮で崩れている。「ああぁ また 墓穴の掘り直しか」と愚痴をこぼしている。(詩の途中を省略。)
{重大放送がある}とは 強ばった上官から聞いてはいたが
その時刻 三平は{終戦勅語だ}と 知る由もなく
ずるけて「玉音放送」を 聞かなかった
上官の命令! で 墓穴に 地雷を埋めにかかったとき
あっけなく 負け戦さを悟った
「ずるけて」がいいなあ。「知識人」のように自分を律したりはしない。「意識/精神」を優先しない。「本土決戦だ」と覚悟はしても、「こわばり」はしない。「上官(知識人)」とは、「いま」への向き合い方が違う。それを石毛は、肯定している。肯定しなければならないのは、「ずるけ」のなかにつづいている「暮らし」である。
「あっけなく 負け戦さを悟った」の「あっけなく」と「悟った」もとても気持ちがいい。「悟る」ことはむずかしいことではないのだ。「あっけない」ものなのだ。
このあと、詩の最後の部分がとてもいい。
飯岡浜の塹壕から 手ぶらで這い出して
海上椿海がつづく 干潟の草むらで
すっかり その乳房にお世話になっている
「ガリバーの牛」を見つけた
だれかが息抜きに 洒落て 名づけたのだ
うなかみの干潟 その椿の海のかたすみで
いつものように 草を食んでいるのを
三平は 敗戦の涙もなく 黙って見ていた
野蛮で 淫猥なおれたちなどに
お構いもなく
哲人のような牛の そのすがたを----。
「知識人」は「ガリバーの馬」を思う。林家三平は、馬ではなく、牛を見ている。「ガリバーの牛」は「ガリバーの馬」とは関係がないかもしれない。あるとすれば、実際の寓話とは関係なく、たぶん有名なガリバーと小人との関係があるだろうと思う。牛は、とても大きいのだ。からだが大きいというよりも「乳房」が大きいのだ。林家三平たちは、その乳房を女の乳房に見立てて、オナニーをしたのだろう。(乳房にむしゃぶりついて、牛乳を飲んでいた、とは思えない。)「野蛮」「淫猥」が、とても健康的に響いてくる。それは「哲人のような牛の そのすがた」の健康につながる。
「野蛮」、とりわけ「淫猥」は、精神にとっては「不健康」で抑圧しなければならないものかもしれない。放置すると、「精神の目的」に到達できないかもしれない。しかし、「野蛮」「淫猥」は肉体、感性にとっては「健康」そのものである。そして、すべての「健康」は「哲人」につながる。
石毛のことばには、何か「反逆精神」というものがある。「知」というものを描くときも、「野蛮」「淫猥」をそぎ落として、鋭敏になっていくのではなく、むしろ「知の鋭敏」を「野蛮」「淫猥」(=暮らし/肉体/欲望)で叩くことで、「重い」ものにしていく。鋭い刃、殺傷力のある武器ではなく、ただでかいだけの石のような「抵抗(物)」に変えていく。でかすぎて、殺しの道具(武器)にもつかえないが、身を隠すことができる石のようなものに。どこへも連れ去られない、つかむことのできない重い「抵抗」をもって生きていく肉体に変えていくという印象がある。
石毛の「わかりにくさ」は、この「抵抗」(肉体の、どうしようもない重さ、重さの強さ)にある。「わかりにくい」と書いている限りは、私は、まだまだ石毛のことばを「頭」でつかみながら読んでいるということだな。
*
引用の誤記をチェックするために詩を読み返していたら、副題に「1945・8・15 下総椿海の「ガリバーの牛」と共にむかえた一兵卒・初代林家三平、敗戦の姿。」とある。林家三平の話をどこかで聞き、そのあとで「ガリバーの牛」を補足するために原民喜の詩(エピソード?)を最初に書いたのかもしれない。林家三平が原民喜の「ガリバーの馬」を知っていて、「ガリバーの牛」と言ったのではないかもしれない。原民喜を引用することで、林家三平を、原民喜の「位置」にまで引き上げようという意図が石毛にあるのかもしれない。必要なのは、林家三平の「感覚(実感)」なのだ、と。