詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』

2022-04-23 10:51:49 | 詩集

 

最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(小学館、2022年04月18日発行)

 最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』。どこから書こうか。「惑星」から書き始めよう。だが、「惑星」から書く始めるのは、あまりにも私の「都合」という気がしないでもない。書きやすいと感じるから書くのであって、この詩がこの詩集でいちばんいい作品、あるいはこの詩集の特徴をあらわしているかどうかはわからない。私は、まだ全編を読んだわけではない。しかし、「惑星」を読んで、感想を書いておきたいと思ったのだ。感想というのは、日々かわるから、そのときに書かないと違ったものになる。

ぼくの体に住んでいるきみはぼくよりもあの子のことが大切で、
ぼくの体を借りてあの子に接近したいと考えている。
ぼくは突然自分が惑星になってしまったような、
きみたちが愛を育むための大地になってしまったような悲しみで、
涙が頬を裂いて、細い川が生まれていく、
その川べりで焚火をしている誰かが、ぼくのことを好きだと言ったら、
ぼくはそいつをこの水で押し流して黙らせるだろう。
ぼくの心をきみにあげて、50億年が経過している、
きみは知らない、ぼくの中に暮らしていること、ぼくの考えていること、
きみは知らない、きみの恋だけのためにぼくの肉体はあり、
この星はあり、
きみのためなら何もかもが孤独になっていくのだと。

 「ぼく」のなかの「きみ」を、「もうひとりのぼく」と言い換えてしまえば、いわゆる自己対象化ということになるかもしれない。しかし、この詩は、そういう感じがしない。なぜだろう。「ぼく」が一方的に「きみ」のことを語るのに対して、「きみ」は反論も何もしない。つまり、「ぼく」と「きみ」の対話がない。対話がないから「矛盾」がないかというと、そんな簡単にも言い切れない。

その川べりで焚火をしている誰かが、ぼくのことを好きだと言ったら、
ぼくはそいつをこの水で押し流して黙らせるだろう。

 もし第三者が「ぼく」に接近してきたら、そしてその接近が「ぼく」をかえてしまうかもしれないとわかったら、「ぼく」は第三者を殺す。「ぼく」は「きみ」と対立したくない。分裂したくない。あくまでも「あの子が好きなきみ」を守ろうとしている。「きみ」が、もうひとりの第三者である「あの子」を好きだと知って、それを守ろうとしている。
 このとき何が起きるか。
 「ぼく」と「きみ」の「対話」は「矛盾」をひきおこすと私は先に書いた。「矛盾」とは何かが凝縮して、凝り固まって、動かなくなることに似ている。
 でも、そういうことは起きずに、逆に「拡散」のようなことがおきる。「ぼく」は突然「惑星」になる。これは「宇宙」といいかえてもいいのかなあ。「宇宙」と思わず書いてしまうのは、「惑星」ということばだけではなく、その「拡散」が「50億年」という「時間」の拡散(拡大)を含んでいるからである。突然、「ぼくの体」が「ぼくの体」の大きさを超えたものになる。ふつうにいう「矛盾」が、いわば、「ぼくの体のなか」(あるいは、こころのなか)に起きるのと比べると、その違いがわかる。
 「矛盾」が不透明で、何か面倒くさいものなのに対して、この「拡散」は不透明ではない。むしろ、透明すぎる。「ぼく」と「きみ」の自己分裂、あるいは二重化が、とても透明になっていく。そのなかで、ことば(思想/こころ)が自由になっていく。
 何を書いてもいい。何を書いても、それが「真実」になる。
 その「真実」を生み出す透明感(透明の中にある、二重性、重なり、ゆらぎ)が、とても美しい。重くなく、軽くて、輝かしい。

きみたちが愛を育むための大地になってしまったような悲しみで、
涙が頬を裂いて、細い川が生まれていく、

 この「涙の川」の比喩は、歌謡曲なら重たく暗くつらいが、最果の場合は、重たくも暗くもない。つらくないかどうかは、わからない。いや、暗くない、重くないというのも、実は、単に私の感覚であって最果にとっては違うかもしれない。なんといっても、そこから「殺意」も育っていくのだから。
 でも、何か、透明なのである。
 そして、この透明を最果は「孤独」とも呼ぶのだが、この定義は、何か谷川俊太郎の「孤独」に似たものがある。最果は最果であり、谷川俊太郎ではないし、谷川俊太郎を超えていく存在なのだと思うが、そういう「先人」を越えていくときの感じが谷川俊太郎にも似ているなあとも思う。こういう呼び方は正しくないことは知っているが、ちょっと「新しい谷川俊太郎」と呼んでみたい気になるのである。「新しい谷川俊太郎」という仮説を立ててことばを動かしていけば、最果について、もっと簡単にというか、手抜きをして「批評」が書けそうな気がするのである。
 だから、そういうことは封印して……。

 さて。
 自己二重化、自己対象化ということに戻って、ちょっと考え直してみる。テキトウに、ずれて考えてみる、ということである。
 人間の「二重化」というと、「体とこころ」、さらには「こころ(精神)とことば」のように、いろいろなパターンを想定できる。
 最果は、まず「ぼくの体」と「きみの考え(好き、というのは感情かもしれないし、衝動、欲望かもしれないが、最果は、「ぼくの体を借りてあの子に接近したいと考えている。」)と「考え」ということばで「体」と「考え」を向き合わせている。
 これは、いわゆる「我思う、ゆえに我あり」を思い起こさせる。「体と精神(考え)」の二元論。そのなかで「考え(精神)」を重視する思想。重視するしないは関係なく、単に「二元論」ですませていいのだけれど。
 で、このとき、最果は、なぜか「肉体」ということばをつかっている。一行目と二行目では「ぼくの体」だったのに、「ぼくの肉体」にかわっている。「ぼくの体」と書いても、たぶん、多くの人は何とも思わないと思う。
 なぜ、最果は「肉体」と書いたのか。
 これは、この詩一篇からだけでは、たぶんわからない。最果は「体」と「肉体」をどうつかいわけているか。簡単に言うことはできない。
 わかるのは、ただひとつ。書いているうちに「体」が「肉体」になった。「体」ではうけとめられないものに最果が向き合ったと言うことだろう。この突然の「肉体」ということばは、この詩のなかで、かなり異質である。「透明」というよりも不透明である。(なぜ、「肉体」ということばをつかったかわからない、というのがその証拠である、というとちょっと強引になってしまうが……。)そして、不思議なことに、この「不透明な肉体」の存在によって、「好き/考え/心」が「孤独」に結晶していく感じがする。それは「孤独」を生み出す「核」なのだとわかる。

 ふーん、そうなのか、と思いながら、私はふたたび、この詩を読み返す。自分で書いたことを「ふーん、そうなのか」というのも変だが、もう一度読み返したくなるという意味である。

 

コメント
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