ロシアの戦争犯罪について考える
きょう、2022年04月08日の読売新聞(14版・西部版)を読みながら、私は、またいやあな気持ちになった。一面に「国連人権理/露の理事国資格停止/緊急会合採択 賛成93、反対24」という見出し。記事の内容は、見出しでほぼ言い尽くされている。見出しからは、「国連人権理事会」が「ロシアの理事国資格を停止を決議した」とも読むことができるが、決議したのは国連総会。見出しにある「国連人権理」とは、主語ではなく、この記事のテーマ。そのことが、見出しからだけではわからないのだが、さらに見出しだけではわからないのは、次の部分。
↓↓↓↓
投票の結果は賛成93、反対24、棄権58。中国は、ウクライナ情勢を巡り露軍の即時撤退や人道状況の改善を求める過去2回の総会決議でいずれも棄権したが、今回は反対に回った。米国との対立が目立つ北朝鮮、イラン、シリアも反対した。(略)
決議案は米国が主導して作成した。ロシアによるウクライナでの人権侵害や国際人道法違反に重大な懸念を表明し、理事国の資格を停止する内容だ。
↑↑↑↑
決議案はアメリカが主導し、24か国が反対したのだが、その「反対」した国を「米国との対立が目立つ」という修飾語で定義している。まるで、アメリカと対立しているからアメリカの案に反対した、という書き方。アメリカの案に反対するものは許さない、という感じがつたわってくる。アメリカの案(考え)に反対するものは、間違っている、という印象を与えたいかのようだ。北朝鮮、イラン、シリア以外の20か国は、なぜ「反対」したのか。その20か国もアメリカと対立しているのか。
また「反対」した中国についても「ウクライナ情勢を巡り露軍の即時撤退や人道状況の改善を求める過去2回の総会決議でいずれも棄権したが、今回は反対に回った」と書いてあるが、「理由」は書いていない。なぜ今回は「棄権」ではなく「反対」なのか、理由があるはずなのに、それについては触れていない。
この記事からわかることは……。
奇妙なことだが、「反対」した国が、なぜ反対したのか、その根拠がわからないということである。中国、北朝鮮、イラン、シリアはなぜ「反対」したのか。「反対」した国から、その「理由」を取材したのか。そんなことは取材しなくてもわかるというかもしれない。でも、それは「思い込み」だろう。もし「米国との対立が目立つ」国が、その対立を引き継いで「反対」したのだとしたら、アメリカとの対立がどうような問題で、どう対立しているか、それを書かないと、アメリカと対立する国は悪い、ということになってしまう。アメリカと対立してはなぜいけないのか。
もしかすると、「反対」する理由を書いてはいけないのかもしれない。アメリカの案に反対した理由を書いてしまうと、別の問題が明らかになる。だから理由を書いていないのかもしれない。
さて。
資格が停止されるとどうなるのか。
↓↓↓↓
ロシアは人権理事会への参加や投票、決議案の提出などができなくなる。
↑↑↑↑
つまり、人権理事会から排除される。人権理事会はロシアを排除したまま、ロシアのやっている人権侵害を批判できる、ということである。
いま、日本の裁判では、どんな裁判でも被告に弁護士がつき、被告は自分の行為について弁護することができようになっている。
国連の人権理事会がどういうことをしているのか私は知っているわけではないのだが、この自己弁護というか、反論を封じたままの状態で、何かを決定していいのだろうか。こういう動きは、私には、民主主義とは相いれないものにしか見えない。
ロシアの言い分を聞く。聞いた上で、その問題点を指摘し、ロシアから反省のことばを引き出すという「過程」がなければ、何があったとしても、それはロシアが「納得」したものではないだろう。民主主義というのは、議論をつづけることで、議論しているひとが変わっていくということを前提としている。対立するひとの意見を聞きながら、対立を解消する方法を探していくのが民主主義であるはずだ。この意見に反対するものは排除してしまえばいい。そうすれば「全会一致」の決議ができる、というのでは民主主義ではなく全体主義(独裁)というものだろう。
排除と批判は違う。批判するためには、排除してはならない。受け入れることが前提にあるからこそ、批判が成り立つ。
議論しながら(対話しながら)、双方がどうかわることができるかを探り出すのが民主主義の外交というものだろう。ロシアのウクライナ侵攻は、その基本を踏みにじったのだから、ロシアが間違っているということはたしかである。しかし、その間違っていることを明確にし、ロシアに納得させるためには、常にロシアを議論の場に引っ張りだす、議論の場に引き留め続けるということが必要なのだ。
そして、その議論をするときには、読売新聞が書いているような「米国との対立が目立つ」というような安直なことばをつかってはいけないのだ。その対立の構造、原因、対立の過程(歴史)まで視野に入れてことばを動かす必要があるのだ。
「どうせロシアは嘘をつく。最後は武力に訴える。だからロシアの話を聞く必要はない。ロシアを排除して、世界がアメリカを中心にまとまれば、世界は安定する」というのでは、そうした考え方こそ問題だ(今日の多くの問題の出発点だ)ということにならないか。
必要なのは、誰か(何か)を排除することで団結することではなく、相手を巻き込み議論することである。決着がつかないから戦争で解決する、経済制裁で解決するというのでは、問題はいつまでも残り続ける。どんなに「排除」しても、「排除されたもの」が存在しなくなるわけではない。「排除」しつづけても、問題は残り続ける。
議論は終わらなくてもいいのである。なせなら、議論している限り、戦争には突入できないからである。議論をやめたときに戦争がはじまるのである。
あらゆるところで、ことばが死んで行く。人間よりも先にことばが死んで行く、というのが戦争かもしれない。コロナが発生し、大騒ぎになったときも感じたが、ことばが、ほんとうにつぎつぎに死んで行く、と感じる。