詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)

2022-04-24 10:52:01 | 映画

アスガー・ファルハディ監督「英雄の証明」(★★★★★)(2022年04月23日、KBCシネマ・スクリーン2)

監督 アスガー・ファルハディ 出演 アミール・ジャディディ

 この映画がいちばんおもしろいのは、「事実」を知っているのが主人公と観客だけであるということだ。登場人物は大勢いる。主役は借金で刑務所にいる男。愛人がたまたま金貨の入ったバッグを拾う。それを換金して借金を返そうと思う。しかし、良心がとがめて、バッグを落とした人を探し、返すことになる。そして、実際に返すのだが、このことが「報道」されると、だんだん話がこんがらがってくる。金貨を返したというのは、ほんとうか。だれが、その金貨を見たか。噂(ねたみ?)が噂を呼んで、SNSを通じて、どんどん「疑い」が広がっていく。金貨を見た人が主役と愛人と、主役の周辺のわずかな人しかいない。噂を否定する「根拠」がないのだ。
 で、この映画で考えさせられるのが、この「事実」に対する向き合い方なのだ。なぜ、こんな不思議な映画が成り立つかといえば、「コーラン」を信じる人の「人間観」が影響している。コーランは神と人との「一対一」の契約である。その「一対一」の「直接性」が人間関係に影響している。簡単に言うと、大金を拾ったら、日本人なら警察に届ける。この映画の主人公は、そういうことをしない。直接、落とし主を探し出し、直接、拾った金を返す。「一対一」なのだ。「一対一」だから「証拠」はいらない。しかし、「証拠」を残さないから、第三者はどこまでも疑うこともできる。人間は「疑う生きもの」なのである。映画の中で、「神に誓って」ということばが出てきたかどうか、ぼんやりして聞き逃したが「息子に誓って」ということばを主人公は言ったと記憶している。これは「息子との一対一の信頼関係」の延長線上のことばとして「事実」を言うということ。私のことばが間違っているなら、その影響が自分の息子に及んでもいい、ということである。日本の「経済関係」で言えば「連帯保証人とし息子を差し出す(古いことばで言えば、人質として息子を差し出す)」くらいの意味がある。この「一対一」の信頼関係は神との契約の引写しである。だから、それを壊すことは、コーランを信じている人には神との関係を裏切ることであり、「罪」であり「恥」である。この映画には何度も「恥」とか「名誉」ということばが出てくるが、それは「神との一対一の関係」を裏切ることは人間にとって「罪」であり、同時に「恥」でからである。この「恥」は人間に対してというよりも神に対する感覚の反映なのである。そういうことが、ぐさりと刺さってくる映画である。
 で。
 ここからが、さらにおもしろい。この「一対一」の関係は、マスメディアによって(テレビによって)、「一対多」の関係に変わる。正確に言うなら「一(主人公)対一(テレビ)対一(視聴者=多数)」。「テレビ」は媒介だから、それは「主人公(一)対視聴者(多)」お変わってしまう。「一対一」なら「説得」できるが、「一対多」の状況では説得は非常にむずかしい。ひとりが多くの人に対応していられない。さらにややこしいのは、テレビ取材に応じているときは、まだ「主人公対テレビ」という「一対一」だったののが、現代の「メディア」は最初から「多」であり「多」のそれぞれが「一」であるということだ。SNSがわかりやすいが、「発信」はだれでもできる。だれが「取材」し、だれが「発信」しているかもわからない。そしてその「発信回数」には制限がない。(テレビの場合は、同じことを何度もくりかえし放送できない。)多く発信すれば、それが大多数になる。金を返した男は正直者だという発信が一回。それに対して男は嘘をついているかもしれない、という疑いが百回。そのとき、それを見た人は回数の多い方を信じてしまうことになってしまう。疑いを信じる根拠を、そのSNSを見た人は持たないからである。
 さらに、その「情報」が「ことば」だけである場合(金貨を返した)と、「映像」がある場合(男が、金を貸した男を殴っている)を比較したとき、「映像」の方が強く印象に残る。どんな行動にも「脈絡」があるのだが、「映像」は脈絡を無視して、男が金貸し男を殴っているという「瞬間的事実」だけをつたえる。殴ったのには「事情」があると「ことば」で言っても、それは通じないし、それを「聞かせる」ということができない。
 コーラン社会を支えていた「一対一」という基本的な「事実の場」がSNSの発達で壊されてしまっている。「事実」の特定ができないようなところにまで人間を追い込んでいる。

 ここから映画を離れて、私はこんなことも考えた。いま、世界の話題(ニュース)はロシアのウクライナ侵攻である。連日、いろいろなニュースが「報道」されている。それぞれの「報道」が「事実」を主張している。
 だが、「報道」されていることは、ほんとうに「事実」なのか。これを語れるのは、戦争で死んだ人だけである。だれによって殺されたのか。知っているのは死んでいる人だけであり、問題は、死んだ人は「証言」できないことである。
 こんなことがあった。
 私はフェイスブックを通じて、ウクライナに何人かの友人がいる。会ったことはなく、フェイスブックで「動向」を知っているだけの友人だが。その一人が、戦争がはじまってすぐ、ウクライナ兵士(たぶん)と一緒にいる写真を掲載していた。そのうちの一枚は友人の住んでいる家のなかである。家の仲間で兵士が入ってきている。その写真には「これで安全が確保できた。歓迎」というようなことばが書かれていた。あっと思った。どうしようか悩んだ。次の日、ふたたび友人のページを訪れると、その写真は削除されていた。ウクライナ兵が削除するよう要求したのか、友人が自主判断し削除したのか、あるいはフェイスブックが削除したのか、わからない。私は推測しか書くことができないのだが、もしその写真をロシア側が入手すれば、ウクライナ兵の居場所が特定できる。これは、戦争をしているときはまずいだろう。その居場所が、いわゆる「前線」ではなく、「前線」から遠く離れた都市の真ん中であるとなれば、なおさらである。
 友人は「歓迎」と書いていたが、友人が兵士を呼んだのか、それとも兵士が押しかけたのか。それも「事実」がわからない。友人が「歓迎」と書いたのか、書かされたのか、それも本人しかわからない。いま注目を集めているマリウポリの製鉄所。そこに避難している「民間人」(という表現を、読売新聞はつかっていた)は、そこに避難してきたのか、それともそこに集められたのか。その「事実」も本人にしかわからない。もし、全員が死んでしまえば、「事実」を証言できるひとはいない。「状況」から「事実」を推定することしかできない。
 「情報網」を持たない私でさえ、ウクライナの友人の家にウクライナ兵がいた(ロシアよりと推測され、調べられたのかもしれない)ということを「知っている」。証拠の「写真」を見た。しかし、「事実」については、わからない。友人に聞きたいが、もしかすると、メールなどはすべて検閲されているかもしれないと思うと、聞けない。友人がどうなるか、という保証がない。私でさえ、そういう「情報」をももっているのだから、世界には、どれだけ「情報」があふれているかわからない。私は、その膨大な情報のなかから選択された新聞のニュースを読んでいるだけである。それが「事実」であるかは、よほど慎重に見極めないとたいへんなことになる。

 この映画では「美談の男」は、結局、社会に受け入れられない。「美談」を信じてもらえない。人は、他人を称賛することよりも、他人を批判することで自分を正当化することの方を好むのかもしれない。「美談」を実行することはむずかしいからである。
 ラストシーン。
 とても美しい。男が刑務所に帰っていく。入れ違いに、一人の男が刑務所から出て行く。妻が迎えに来ている。その「一対一」。信頼はいつでも「一対一」なのである。それを見る男の表情はおだやかである。彼は、神との「一対一」の契約を守ったのである。知っている人は少ない。しかし、神は絶対に知っている。そういう安らかさである。そして、彼には、息子と愛人がいる。彼らとも「一対一」の信頼がある。
 私は神の存在を信じているわけではないが(神はいないと考えているが)、このコーランにもとづく世界観は、これからの世界(SNSが変えていく世界)との向き合い方の、ひとつの「指針」を示しているようにも思える。
 主人公の苦悩がどんどん深まるというよりも、主人公の「一対一」の関係がどんどん多数のひとのなかで希薄化されていく感じをとらえた映像、つねに周囲に男の存在が分散されていく感じの映像が、現実世界のあり方を丸ごととらえていて、とてもよかった。この分散、拡散された世界から「一対一」へどう引き返すか。これはコーランを信じている人だけではなく、すべての人間の共通の課題である。

 

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