石毛拓郎『ガリバーの牛に』(3)(紫陽社、2022年06月01日発行)
3篇目「ラドリオの恋」。石毛は1969年に吉岡実に出会ったらしい。
昼でも薄暗い 路地裏の喫茶店「ラドリオ」で
いつもの片隅を 陣取っている
一目でわかる ギョロ眼の紳士に
ひとつ肩で 息をのんでから 声をかけてみた
その店の近くに
「ちくま」や「ユリイカ」の版元があったことなど
知る由もなく
---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
えっ、知らないね、初耳だね!
国を憂いた、何かの呪文かね。
少し、いやらしくもあるね。
かれは そう答え 眼をほそめて
読みかけの本から 眼をそらし
笑いかけながら灰を落とし 煙草をくわえた
そうか、石毛はすでに吉岡実を知っていたのか。知っていて、声をかけてみたのか。私は、まだ、「現代詩」を知らない時代である。
この吉岡実を思い出すのに、石毛は「苦力」を重ねている。
あの薄暗い「ラドリオ」の煉瓦壁を 背に
鎮座していた恋の精は
それっきり 消え去った
頬を ぽっと明るく染めた
苦力の肉体に
せわしく 煙草の火をもみ消しながら
そのとき おれもまた
詩人の前から 消えたのだ
エロチックで 官能の塊のような詩を
にぎり潰しながら---。
この最後の部分に、私は、とても驚いた。吉岡実を思い出すのに「苦力」を思い浮かべる人は少ないだろう。「静物」とか「僧侶」とか。あるいは『サフラン摘み』とか。
どうして「苦力」なのか。
注釈に、石毛は、こう書いている。
「苦力」吉岡実の詩作品。支那の男は--で始まる官能的な、魯迅に繋がる身体を見た。
私にとって、吉岡実と魯迅はかけ離れた存在だが、石毛にとっては繋がっている。しかも「身体(石毛の詩のなかでは、肉体、ということばがつかわれている)」で繋がっている。それがとても印象的だ。
「身体(肉体)」とは何なのだろうか。
詩を読み返してみると、吉岡実の「身体(肉体)」は「ギョロ眼」として登場している。これに対して、石毛は「ひとつ肩で 息をのんで」という対応をしている。「身体(肉体)」の具体的な動き。「ことば」以前の、存在の動き。それから「声をかける」。他人の「身体(肉体)」に出会い、一呼吸おく。それから「ことば」で近づく。吉岡実は「知らない」と答えた後「眼をほそめて」「眼をそらし」ている。吉岡実はどこまでも「眼」のひとである。「眼」が「身体(肉体)」と言えるかもしれない。「身体(肉体)」に隠れてしまう。
しかし、それでは魯迅とつながらない。
「身体(肉体)」とは、しかし、石毛にとって、そういう目で見えるものではなく、別なものなのかもしれない。つまり、「ことば」が「身体(肉体)」なのかもしれない。
---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
えっ、知らないね、初耳だね!
国を憂いた、何かの呪文かね。
少し、いやらしくもあるね。
この「ことば」、この「呼吸」が「身体(肉体)」であり、「身体(肉体)」としての「ことば/呼吸」が魯迅につながる。知っている(わかっている)のに「知らない」と言う。「ことば」から「憂い」や「呪文」に通じるものを聞き取る。そして、「いやらしい」とくくってしまう。
この「いやらしい」は「どうしようもない」、あるいは「必然」と言いなおした方がいいかもしれない。「必然」は「必要」でもある。
「苦力」の書き出しは、こうである。
支那の男は走る馬の下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高梁の地形を
排泄しながらのり越える
なぜ、そんな馬の乗り方をするのか。私は想像するしかないのだが、その姿勢なら、馬に人が乗っているとは気づかない。野性の馬が走っているように見えるかもしれない。とくに、くらい夜は。男には、ひとに見られなくないという「必要」があり、その「必要」が馬の腹の下に自分をくくりつけるという「必然」を要求する。
この「必然」「必要」は、ある意味では「不自然」であるから、「身体(肉体)」には苦痛である。苦痛には、不思議な「エロチシズム」がある。(「サフラン摘み」を読めばわかる!)「エロチシズム」は「苦悩」に通じる。
魯迅は、とくにエロチシズムを書こうとしているわけではないと思うが、彼の描く人間の肉体は、自分で抱え込むしかない苦悩によって歪んでいる。その歪みは「必然」であり、「必然」であるかぎりは「必要」なのだ。そして、その「必然/必要」は、どこかで「国」そのものへの「憂い」にもつながっている。「国」は「国家」というよりも、「生きているときの社会のシステム」のようなもの、権力ではなく、非権力から見た「いやなもの」に対する気持ちのようなものが「憂い」ということになる。
というようなことを、石毛が書いているわけではないが。
私は、そんなことを思った。吉岡実か、「苦力」か、魯迅か……。「いやらしい」「エロチック」「官能」か。吉岡実への「評価(定義)」というよりも、この詩は、石毛拓郎の詩を定義する(?)ときの「ことば」を提供してくれているかもしれない。「いやらしい」「エロチック」「官能」「身体/肉体」。そして、それが全部、魯迅につながるということ。