詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇162)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-04-16 16:45:28 | estoy loco por espana

Obra Jesus Coyto Pablo "lettres d'amour et de mal"

El WASHI, el papel japones, se utiliza en la obra de Jesus.
Y el trabajo de Jesús me recuerdo un poco a la "fabricación de washi" .
Las fibras de la madera siguen fundiéndose y agitándose. Las cosas se mueven antes de convertirse en papel. Se tarda largo tiempo.
Jesús está representando la memoria, pero la memoria también necesita tiempo para convertirse en memoria.
No sólo se eliminan las impurezas, sino que también hay impurezas que inevitablemente permanecen.
Las impurezas, sin embargo, colorean la memoria.
Las impurezas, por el contrario, crean sombras en los recuerdos puros.

Jesusの作品には和紙がつかわれている。
そして、Jesusの作品は、どこか和紙の「紙漉き」を思わせる。
まだ木の繊維が溶けて揺れ動いている。紙になる前のものが動いている。
Jesusは記憶を描いているのだが、記憶もまた記憶になるためには時間がかかる。
不純物が取り除かれるだけてはなく、どうしても残ってしまう不純物もある。
しかし、その不純物は、記憶を彩る。
不純物によって、逆に、純粋な記憶に陰影が生まれる。

 

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Estoy loco por espana(番外篇162)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-16 16:04:00 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns Técnica. Hierro. 36x26x16 S. C

Los escultores utilizan materiales y crean nuevas formas.
Lo que vemos es esa nueva forma.
Sin embargo, cuando veo la nueva serie de Joaquín, pienso de forma diferente.
Ah, hay espacios que no sabía que existían hasta ahora.

Con su nueva serie de obras, Joaquín ha comenzado a crear nuevos espacios.
En una espacio que ha criado, hay muchos espacios invisibles. 
Y esos espacios se mueven de diferentes maneras como mucsica libre.
ES interesantisimo.


彫刻家は素材を活用し、新しい形を生み出す。
私たちが見るのは、その新しい形だ。
ホアキンの新シリーズを見るとき、私は、しかし違うことを考える。
あ、いままで知らなかった空間がある。

ホアキンは、新シリーズの作品で、新しい空間をつくり始めた。
空間の中にはいくつもの見えない空間があり、それは様々に動いている。

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(3)

2022-04-16 10:40:05 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(3)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 3篇目「ラドリオの恋」。石毛は1969年に吉岡実に出会ったらしい。

昼でも薄暗い 路地裏の喫茶店「ラドリオ」で
いつもの片隅を 陣取っている
一目でわかる ギョロ眼の紳士に
ひとつ肩で 息をのんでから 声をかけてみた
その店の近くに
「ちくま」や「ユリイカ」の版元があったことなど
知る由もなく

---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
   えっ、知らないね、初耳だね!
   国を憂いた、何かの呪文かね。
   少し、いやらしくもあるね。

かれは そう答え 眼をほそめて
読みかけの本から 眼をそらし
笑いかけながら灰を落とし 煙草をくわえた

 そうか、石毛はすでに吉岡実を知っていたのか。知っていて、声をかけてみたのか。私は、まだ、「現代詩」を知らない時代である。
 この吉岡実を思い出すのに、石毛は「苦力」を重ねている。

あの薄暗い「ラドリオ」の煉瓦壁を 背に
鎮座していた恋の精は
それっきり 消え去った
頬を ぽっと明るく染めた
苦力の肉体に
せわしく 煙草の火をもみ消しながら
そのとき おれもまた
詩人の前から 消えたのだ
エロチックで 官能の塊のような詩を
にぎり潰しながら---。

 この最後の部分に、私は、とても驚いた。吉岡実を思い出すのに「苦力」を思い浮かべる人は少ないだろう。「静物」とか「僧侶」とか。あるいは『サフラン摘み』とか。
 どうして「苦力」なのか。
 注釈に、石毛は、こう書いている。

「苦力」吉岡実の詩作品。支那の男は--で始まる官能的な、魯迅に繋がる身体を見た。
 
 私にとって、吉岡実と魯迅はかけ離れた存在だが、石毛にとっては繋がっている。しかも「身体(石毛の詩のなかでは、肉体、ということばがつかわれている)」で繋がっている。それがとても印象的だ。
 「身体(肉体)」とは何なのだろうか。
 詩を読み返してみると、吉岡実の「身体(肉体)」は「ギョロ眼」として登場している。これに対して、石毛は「ひとつ肩で 息をのんで」という対応をしている。「身体(肉体)」の具体的な動き。「ことば」以前の、存在の動き。それから「声をかける」。他人の「身体(肉体)」に出会い、一呼吸おく。それから「ことば」で近づく。吉岡実は「知らない」と答えた後「眼をほそめて」「眼をそらし」ている。吉岡実はどこまでも「眼」のひとである。「眼」が「身体(肉体)」と言えるかもしれない。「身体(肉体)」に隠れてしまう。
 しかし、それでは魯迅とつながらない。
 「身体(肉体)」とは、しかし、石毛にとって、そういう目で見えるものではなく、別なものなのかもしれない。つまり、「ことば」が「身体(肉体)」なのかもしれない。

---ヨ・シ・オ・シ・カ? えっと、ヨシ・オカミ・ノル?
   えっ、知らないね、初耳だね!
   国を憂いた、何かの呪文かね。
   少し、いやらしくもあるね。

 この「ことば」、この「呼吸」が「身体(肉体)」であり、「身体(肉体)」としての「ことば/呼吸」が魯迅につながる。知っている(わかっている)のに「知らない」と言う。「ことば」から「憂い」や「呪文」に通じるものを聞き取る。そして、「いやらしい」とくくってしまう。
 この「いやらしい」は「どうしようもない」、あるいは「必然」と言いなおした方がいいかもしれない。「必然」は「必要」でもある。
 「苦力」の書き出しは、こうである。

支那の男は走る馬の下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高梁の地形を
排泄しながらのり越える

 なぜ、そんな馬の乗り方をするのか。私は想像するしかないのだが、その姿勢なら、馬に人が乗っているとは気づかない。野性の馬が走っているように見えるかもしれない。とくに、くらい夜は。男には、ひとに見られなくないという「必要」があり、その「必要」が馬の腹の下に自分をくくりつけるという「必然」を要求する。
 この「必然」「必要」は、ある意味では「不自然」であるから、「身体(肉体)」には苦痛である。苦痛には、不思議な「エロチシズム」がある。(「サフラン摘み」を読めばわかる!)「エロチシズム」は「苦悩」に通じる。
 魯迅は、とくにエロチシズムを書こうとしているわけではないと思うが、彼の描く人間の肉体は、自分で抱え込むしかない苦悩によって歪んでいる。その歪みは「必然」であり、「必然」であるかぎりは「必要」なのだ。そして、その「必然/必要」は、どこかで「国」そのものへの「憂い」にもつながっている。「国」は「国家」というよりも、「生きているときの社会のシステム」のようなもの、権力ではなく、非権力から見た「いやなもの」に対する気持ちのようなものが「憂い」ということになる。
 というようなことを、石毛が書いているわけではないが。
 私は、そんなことを思った。吉岡実か、「苦力」か、魯迅か……。「いやらしい」「エロチック」「官能」か。吉岡実への「評価(定義)」というよりも、この詩は、石毛拓郎の詩を定義する(?)ときの「ことば」を提供してくれているかもしれない。「いやらしい」「エロチック」「官能」「身体/肉体」。そして、それが全部、魯迅につながるということ。

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