詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

学者は何を明らかにし、何を隠すか

2022-04-01 17:26:12 |  自民党改憲草案再読

学者は何を明らかにし、何を隠すか

  慶応大学教授・細谷雄一の、「ロシアもウクライナも両方悪い」は不適切という連続ツイートが評判になっている、という。細谷は「国際法」を引用しながら、論を展開している。とても明瞭な論理であった。
 しかし。
 私は、問題の立て方に疑問を感じた。
 ロシアとウクライナとどちらが悪いか。「両方悪い」はもちろん完全に間違っている。侵攻したロシアが悪いに決まっている。だから「ロシアもウクライナも両方悪いは不適切」というようなことは、国際法を持ち出さなくたって、だれにだってわかる。
  ということは、逆に考えると、なぜ細谷が国際法を持ち出して「ロシアもウクライナも両方悪いは不適切」と言ったのか、その理由を考えないといけない。
 何を隠そうとしている? 何か隠そうとしていないか。

 ウクライナへのロシアの侵攻。それはその局面だけを見れば、ウクライナで起きているロシアとウクライナの軍事衝突である。これは、もちろんロシアが悪い。
 しかし、この問題をロシアとNATOのどちらが悪いか、と考え直すとどうなるか。もちろん、ここでもロシアが悪い。NATO軍はウクライナには存在しないのだから、NATOに悪い点はなにひとつない。
 しかし、それをさらに、地理上の軍事支配、ロシアの世界戦略とアメリカの世界戦略のどちらが悪いか、というふうに拡大するとどうなるか。日本はアメリカの戦略にべったりくっついているから、アメリカの戦略から世界を見てしまうが、それが正しいかどうか吟味しないといけない。なぜアメリカはNATOの東方拡大を押し進めているのか、ということを考えないといけない。断定はしないが、NATOの東方拡大戦略がなければ、今回の問題は起きなかったかもしれない。もちろん、先にウクライナに侵略したロシアが悪いのだけれど、問題を解決しようと考えるならば、起きている事象だけではなく、背後の問題を見ないといけない。
 さらに、ここからがポイントなのだが。
 ロシアの世界戦略とアメリカの世界戦略は、単に「地理/領土/軍事力」の問題にとどまらないことに目を向けないといけない。
 いまの世界は、軍事力のバランスだけで成り立っているわけではない。軍事力ではなく、経済力で動いている部分がある。世界戦略は、経済システムまで含めてみつめないといけない。別のことばで言えば、「金儲け」の問題を考えないといけない。経済が世界を動かしている。資本主義国ではないロシアや中国を巻き込んで、経済が世界を支配している。その力関係は、たとえば「円の価格」「ドルの価格」に反映されている。
 武力衝突(戦争)は、ひとの命に直結する。銃で脳を撃たれれば人間は即座に死んでしまう。しかし、経済が困窮し、食べるものがない、という状態に追い込まれて人間が死ぬには時間がかかる。だから経済システムの衝突による戦争は、なかなか把握しにくい。実感として、戦争という感じがしない。円安が進んだからといって、急に、人間が死ぬわけではない。
 でも、現実には経済戦争が起きている。そして、この経済戦争の被害は、実際に軍事戦争が起きているウクライナだけにとどまらない。
 4月1日になるのを待っていたかのように、日本ではいろいろなものの値上げがはじまる。まるでロシア・ウクライナの戦争が拡大するのを待っていたかのように、である。
 これにはアメリカ型の資本主義とロシア経済の戦争が大きく影響している。石油、天然ガスが値上がりし、小麦が値上がりする。つられていろんなものが値上がりする。「原料が高騰しているから」という理由で。そこには便乗値上げもあるかもしれない。消費者は、価格決定の過程を詳細に把握しているわけではないから、「適正な値上げ」かどうかなど判断できない。
 これを消費者ではなく、経営者(資本家)から見れば、どういうことになるか。ロシアの経営者は別にして、アメリカの経営者(アメリカ資本主義の経営者)は金儲けの絶好の機会なのだ。値上げさえすれば赤字にならずにすむし、少し余分に値上げしてもそれに気づく消費者は少ない。何よりも軍需産業は、武力戦争が続いてくれれば続いてくれるだけ、金がもうかる。もしかすると、アメリカの軍需産業は、世界の心配とは無関係に、金儲けができると喜んでいるかもしれない。
 細谷の発言は、この問題を、すっぽりと隠している。経済戦争には「国際法」がないからだ。どこの国に何を売ってはいけない、どこの国から何を買ってはいけないという「国際法」がないからだ。原油の値段の上限は〇〇ドルである、というような「国際法」はないからである。
 細谷は、いま、世界を支配しているのは「武力」だけではない、「経済」が世界を支配しているという問題を隠している。そして「経済戦争」の犠牲になるのは、武力衝突が起きている現場の人間だけではなく、世界中の人間(資本家ではない人間、市民)であるという問題を隠している。
 それは逆に言えば、そういう一般の消費者、一般の市民の経済的困窮は無視して、アメリカの軍需産業を中心とする資本主義が金もうけできればいいという思想を隠しているということでもある。

 

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濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

2022-04-01 10:44:25 | 映画

濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」(2)

 映画監督・山崎哲がフェイスブックで「ドライブ・マイ・カー」を批判していた。ポイントは「日本の俳優は例によって声( 言葉) が肚に落ちてない。言葉が自分の言葉になってないんだよね。」このことばで、ふと思いついたことがあるので書いておく。
 昨年のカンヌ映画祭で「脚本賞」を受賞し、多くの人が見るようになった。先日発表されたアカデミー賞でも「国際長編映画賞」を受賞した。アカデミー賞は、まあ、追認のようなものだから、ほんとうの評価かどうか、私は怪しんでいる。でも、カンヌ映画祭の「脚本賞」は、納得はできる。「脚本」はたしかによく書かれていると思う。でも「脚本」と映画は別物なのだ。
 「脚本」も、作品によっては一こまずつ時間を指定しているものもあるだろうけれど、基本的には時間を指定しないだろう。さらに、誰が演じ、どんな声を出すかという指定はないだろう。つまり、ひとは(読者は)、脚本を自分のスピードで読むことができる。登場人物の「声」は、自分の好き勝手に想像できる。脚本を読み、30分の映画を想像する人もいれば6時間の映画を想像する人もいる。張りつめた声を想像する人もいれば、弱々しい声を想像する人もいる。時間のことは、ここでは、ちょっとわきにおいておく。
 「声」の問題を、もう一度書いておく。
 私は前回、「ドライブ・マイ・カー」について書いたとき、この映画のテーマは「声」だと書いた。そして、その「声」に作為がみえみえなので、ぞっとしたというようなことを書いた。それは最初のシーンで、すぐにわかった。見なくてもというと変だが、作為が見えるということは、結末に驚かないということである。結末に感動しない、ということである。予想された通りの展開、予想された通りの結末。安直な、すでに知っている物語の紙芝居、という感じ。
 脱線したが。
 この「声」がテーマ、そして「声」が作為に満ちているということは、たぶん、私が日本人で、日本の俳優の「声」だったから気づいたのである。ネイティブだから気がついた。初めて聞く外国人の「声」(しかもスピーカーで増幅された声)の場合、「作為の声」に気がつくかどうかは、かなりむずかしい。現実の場でなら、あ、いま、声の調子を変えた、ということは、声だけではなく、表情や仕草でもわかるが、それにしたって、話されていることば(声)を聞き慣れていないと、むずかしいかもしれない。
 カンヌ映画祭の審査員に、この「声の演技」がわかったかどうか。「声の演技」の「まずさ」が原因でパルム・ドールを逃し、「脚本賞」にとどまったのかどうか、それはわからないが。「声の演技」を気にしないで、この映画が「声」を基本にして展開し、それが「声」をもたない(というと、いいすぎになるが)手話話者との対話でクライマックスをつくりあげるという、ストーリーの構造は「脚本」を読めばわかる。映画を見れば(映画から脚本を想像すれば)、明確にわかる。
 別なことばで言いなおすと、「脚本」というのは、実際の映画、演技とは関係なく評価できるということである。「声」を聞き取る能力がなくても、「脚本」を読むことはできるのである。「声の演技」(そのよしあし)が理解できない外国人審査員だったからこそ、脚本に注目したということがありうるのだ。「声」がテーマなのに、「声」を理解できない外国人審査員が、その「ストーリーの展開の仕方」だけに焦点を当て、「脚本賞」に選んだということが、可能性としてあるのだ。
 彼らは訳者の「声」を聞かず、彼ら自身のなかにある「人間の声」を「脚本/字幕(?)」から再現し、「彼ら自身の声」に感動したのだろう。
 もちろん「日本人の声」(作為、無作為)に習熟している審査員がいて、そういう日本人の声を生かしている脚本だと評価したのかもしれないが、私には、そうは思えない。
 だってねえ。
 映画はたしかに脚本と監督が担う部分は非常に大きいが、脚本の狙いや監督の求めていることと違う何かがあらわれた瞬間が、いちばん輝かしい。脚本を超えて、役者の肉体が動き出し、まるで脚本がないかのように感じる一瞬が、おもしろいのだ。
 ちょっと思いだしたのだが。
 「サユリ」という映画。役所広司が、ほんとうはもてているわけでもないのに、女にちょっと親切にされ、それを女が自分に気があると信じて、女に「ほら、酒をのめ」と言い寄るシーンがある。その、もてない男の、一瞬の正直さ。思わず、「おいおい、おまえは振られ役なんだぞ。脚本を読んだのか。振られるのを知っているのか。ばかじゃないのか」とちゃちゃをいれなくなる。笑い出したくなる。役者は脚本(結末)を知らずに、つまり、その瞬間しか知らない人間として動いていなければならない。そういうものがないと、映画として成り立たない。
 「ドライブ・マイ・カー」の役者は、みんな「結末」を知っていて、その「結末」のために「作為の演技(声)」をしている。役所広司のように、自分の生きている現実の一瞬を、自分本位に勘違いしていない。だから、おもしろくない。すべての映像も、みんな「結末」を知っていて、それに向かって収束していく。そこには「脚本」しかないのだ。
 だいたい、劇中劇に「ワーニャ伯父さん」をつかうというのも見え透いている。「ワーニャ伯父さん」の結末(ストーリー)を知っているひとは多い。そのストーリーをちょっと見えにくくするために、他国語で演技する、なんて、「作為」以外の何でもない。「脚本賞」は「作為の構図の完成度が高かった」という評価なんだろうなあ、と思う。「ストーリーが単純明快に整理されていた脚本」という評価なんだと思う。

 

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