石毛拓郎『ガリバーの牛に』(7)(紫陽社、2022年06月01日発行)
7篇目「空から、蛇が」には、注がついている。「1997年8月、永山則夫の死刑が執行された。著書の印税は「永山子ども基金」となり、南米ペルーで働く子どもらの活動資金や学費として、活用されている。」このことを、どうとらえればいいのだろうか。 石毛は、ペルー、リマに、空から降ってきた蛇と子どもを対話させている。
なぜ、空から降ってきたのか。
蛇は 応えていった
--秋の暮れ、もの憂いのついでに、子どもを噛んでしまった。
さらに 子どもらは 口々に言い放った
--手足のない、くねり歩きを馬鹿にされたのかい?
(略)
--おまえの無知のなせるわざが、そうさせたのか?
--おまえの歯牙は、事のついでに、噛むものではない!
苦境に立った蛇が 訴える
--さっきまで、きみらの仲間にも説教され、弱っているんだ。
もう、勘弁、許してくれないか。
「苦境」ということば、それにつながる「説教されて」ということば。「説教」は、もちろん「ことば」でおこなうものだけれど、この「ことば」が、なんともつらい。
「説教のことば」は「論理的」である。つまり「正しい」。それに「論理」で反論することはできない。「勘弁、許してくれ」は反論ではなく、謝罪である。しかし、この謝罪が、とてもむずかしい。謝罪は「論理」ではないから、それを受け入れるには「論理」の側がかわらないといけない。「批判の論理」を組み立てなおし、「別の次元の論理」をつくりあげないと、「謝罪」は生きることができない。
つまり。
「謝罪することば」を受け入れる能力があるかどうか、その瞬間、「批判の論理」は「謝罪」から「読まれている」のである。蛇を断罪する(批判によって、蛇を「読み切る」)ことは、多くの人がすることである。だが、忘れてはならないのは、「断罪する人」は「謝罪する人」から「読まれている」ということである。「読む/相手を認識する」というのは一方的な行為ではなく、必ず相互的な行為なのである。
だから、むずかしい。
詩は、こうつづいていく。
そこで 空から墜ちる前に
通りかかったカラスに 絡まれたことを白状した
--おれに、おれには、手足がない。
蛇は 苦悶の中でさえ弁解してみせた
--おまえには手足がない
それはね、他とは少し違った、個性というものだよ。
口は、災いのもとだな。
カラスは 言い含めるように返した。
何だろう。私の肉体は、ぞくっと震える。
「個性」ということばの、非情な冷たさ。「個性の尊重」の一方で「協調」という概念がある。「おれには、手足がない」と認めることは、蛇にはむずかしい。それを「個性」と呼ばれてしまうのは、もっといやだ。それは、はたして「個性の尊重」か。「排除」かもしれない。「排除」するという行為を「美化」していうときに「個性」ということばが利用されるかもしれない。「あなたの個性を生かすには、ここでは不十分だ」とか。
さらに、カラスは残酷である。
--おまえは もっと、もっと、生きたいか。
生きることを許されたら、何をするか?
カラスは 引導を渡すように 蛇に詰問した
詰問されれば、誰だって、困ってしまう。そのときの「答え」は「正解」であるかどうか、わからない。「正解」だから、すべてを「許す」ということになるかどうか、わからない。
ここでもほんとうに「読まれている」(正解を求められている)のは、問い詰める方なのだが、こういうことを書いていると、わけがわからなくなる。
すでに、私が書いていることは、詩への感想ではないかもしれない。
詩は、こうつづいていく。
--だが、おれは、おれはね、
今は、噛んでしまった子どもらの労働組合をつくりたい。
蛇は とっさに思いついたことを 言い募ってきた
--そうか、しかし、おまえのその毒は、死をまね---。
そうつぶやくと 蛇を くわえ直して
カラスは 天高く 舞い上がった
--無知からでた涙を、憎むわけじゃねえ。
その、使い方を、もの言う術をまちがうな!
蛇は 天空で投げ出された
空から 毒蛇が---。
ありえぬことではあるまい。
ここには「結論」はない。「結論」など、人間にはないのかもしれない。
かわりに、ドラマがある。ドラマとは、人と人がぶつかり動くことである。人は、ときに蛇(毒蛇)であり、カラスである。そして、子どもでもある。現実というドラマでは、なんでも起きる。「予定調和」はない。つまり「結論」はない。
動いていく。動きながら、何かを選択し続けるという「過程」だけがある。
このドラマの「蛇」を永山が、「カラス」を裁判官が演じれば、この詩は「現実」に近づくかどうか。さらに。もしこのドラマに私が出演するなら、私はどの役を演じたいか。カラスか、蛇か、子どもたちか。そのことを考える。どの役を演じたとき、私のこころは、石毛の書いていることばを自分の肉体の声として発することができるか。腹の底から発することができるか。
納得するのは精神ではない。頭脳でもない。「腑に堕ちる」。内臓が納得し、消化し、それが肉体の隅々にまで広がっていく。そう言えるのは、どのことばか。それを考えるとき、私は「問われている/読まれている」と感じ、立ちすくむ。石毛のことばは、いつも私をぞくっとさせる。立ちすくませる。