ジュリア・デュクルノー監督「TITANEチタン」(★★★★★)(2022年04月07日、KBCシネマ・スクリーン2)
監督 ジュリア・デュクルノー 出演 アガト・ルセル、バンサン・ランドン
冒頭、車のエンジン部分(?)のアップがつづく。エンジンではないかもしれないが、車の内部、しかもシートとかハンドルとかではなく、もっと機械的な、ふつうは人が見ることがない部分。私は車を持たないし、車に関心がないので、いま映し出されているのが何かわからない。たぶん車だろうとするだけである。強靱な構造と、それに付随する油の汚れ。あるいは、それは汚れではなく、必要な不純物かもしれないし、必要であることによって「汚れ(汚い)」ではなく「美しい」にかわるものかもしれない。何もわからない。
けれど、そこに「ある」ということが、わかる。私のわからないものが、私とは関係なく、そこに「ある」。
映画は、この、そこに「ある」けれど、そこに「ある」ものが何かわからな、全体がわからないから個別の意味もわからないというい状態でつづいてく。多々し、わからないといっても、最初の映像が車の内部(エンジン)であるとわかる/想像できる程度には、情報が散りばめられている。少女は交通事故で、頭蓋骨にチタンのプレートを埋め込んだ。そのチタンのせいなのか、少女は「金属」が好きである。当然、車も好きである。どれくらい好きかというと、車そのものとセックスするくらいに好きである。その結果、妊娠し、車の子ども(?)を産んでしまうくらい好きである。その一方、人間とのセックスは嫌いである。相手が男でも女でも、愛情というよりは嫌悪感の方が上回る。セックスすると(しようとすると)、相手のことが我慢できずに殺してしまう。連続殺人の果に、逃亡する。その逃亡の過程で、奇妙な消防士(隊長)に出会い……と、まあ、テキトウに、その場その場で、「その場/そのときの人間関係」が「ある」ものとして描かれる。
これは、とてもおもしろい。そこに「ある」ものが、ストーリーとは関係なく(関係があるのかもしれないけれど/ストーリーを突き破って)、ただ「ある」ということを主張している。だいたい、車とセックスし、妊娠するということが、「現実」かというと、嘘(ありえないこと)なのだが、その嘘のなかに「車が好き/金属が好き」という「真実」があって、その嘘でしか語ることのできない真実が「ある」ということが、ただ、映像化されるだけなのである。
こんなデタラメ、どこまでつづけられるんだろうか。
充実した映像に酔いながら、私はちょっと心配しながら、映画をみつづけた。途中から出てくるバンサン・ランドンが妙にリアリティーがあって、主人公の少女の「嘘」を、たんなる「ある」ではなく、もっと違うものに変えていくような感じがあって、そこもおもしろいなあ、と思うのだった。
でも、こんなデタラメ、どうなるの?
再びそう思ったら、クライマックスに、とんでもない「どんでん返し」、というか「種明かし」。
少女というか、主人公の女は、車の子どもを妊娠している。いよいよ出産というとき、とても苦しい。そのときの産婆役がバンサン・ランドン。彼は息子を誘拐された。何年後かにあらわれた少女を息子として受け入れている。最初は、少女を息子の名前で呼ぶ。すると少女が突然、「アクレシア」と言う。ほんとうの名前で呼んで、ほんとうの名前で私を支えて、というわけである。私は、「わっ」と叫びそうになるほど感動した。そうか「私はアクレシアである」と少女は叫びつづけていたのか。車のショーでダンスをしているとき、何人もの男にアクレシア(だったと思う)と呼びかけられ、サインも求められるが、かれらは「アクレシア」を女の名前と思っていない。車の名前、商品の名前のように、ただ呼んでいるだけだ。
で、これも最初の方のシーン。少女が車の後ろで退屈している。父親が自分に関心をしめしてくれない。あのとき、父親は、たしか少女の名前を呼んでいない。少女は名前を呼ばれたかった。
これは、逆に言えば、少女はだれかの名前を呼びたかった。「匿名性」のなかで生きるのではなく、固有名詞の出会いのなかで生きたかった。だからこそ、逆に、主人公に迫ってくる女が自分の名前を名乗るのに、名前を聞かれても答えない。名前は、最初にあるのではなく、信頼関係ができたあとで、名前が必要なくなったときにこそ必要なのだ。名前を呼ばなくても、だれがだれであるかわかっているとき、そのとき、あらためて名前を呼ぶということは、きっとそれは、その相手が名前を呼んだ人になるということなのだ。バンサン・ランドンが出産で苦しむ少女を励ましながら「アクレシア」と呼ぶ。そのとき、バンサン・ランドンは「アクレシア」になる。そこに「ある(生きている)」人間が、別の人間に「なる」。バンサン・ランドンが、生まれてきた赤ん坊を、まるで母親のように抱き、「私がついている」というようなことを言う。そのとき、彼は、まさに、「母親」なのだ。アレクシアそのものなのだ。
わっ、すごいなあ。
私はほんとうに感動したが、同時に、ちょっと待てよ、とも思った。いま、私が書いた感動は、実は、どうでもいいことである。こんな「意味」に感動していたら、映画である意味がなくなる。ほんとうに感動しなければならないのは、この奇妙な、嘘だらけの映画を「事実」に変えていくアガト・ルセルの「肉体」、その「肉体の演技」に対してである。なんだってできそうな、しなやかな肉体。そのなんだってというのは、セックスから殺人まで、という意味である。何をしたって、彼女の「肉体」は傷つかない。妊娠がわかり、堕胎しようとして鉄の棒を子宮につっこむ、突き刺す。行方不明の少年に変装するために、鼻の骨を折る。「肉体」にとってはたいへんな苦痛だが、その苦痛を精神が跳ね返していく。精神こそが肉体なのだ。妊娠した後の、醜い肉体さえ、なんだってできる強靱さを持っている。これが、衰えつづけるバンサン・ランドンの肉体(鍛えているのに、醜いと感じさせる)との対比で強調される。アガト・ルセルの肉体は、どんなにメーキャップで醜く変形させられても、なおかつ、美しく、強い。なんといっても、車の子どもを産んでしまうのだ。
こんな、どこから語り始めていいのか、どこまで語れば気が晴れるのかわからないような作品をパルムドールに選ぶカンヌ映画祭というのは、おもしろいね、とあらためて思った。このときの審査委員長はスパイク・リーらしいが、なるほどね、とも思った。同じように車と秘密を抱えた人間の再生がテーマ(?)の「ドライブ・マイ・カー」とは比較にならない。
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「ドライブ・マイ・カー」との比較を書こうかも思ったが、もう十分に「ドライブ・マイ・カー」は批判したのでやめておくが、この映画を見た後で思い返すと、「ドライブ・マイ・カー」の脚本賞受賞というのは、まるで「チタン」がわからなかったひとは「ドライブ・マイ・カー」で車と秘密を抱えた人間の再生、沈黙と語ることの意味を理解してください、と言っているようにも見える。カンヌ映画祭は、なかなかシンラツである。