詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

市民は、どう思っている?

2022-04-28 09:38:53 | 考える日記

市民は、どう思っている?

 2022年04月28日の読売新聞(西部版・14版)の1面。
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①ウクライナ/国連総長 調停難航/プーチン氏と会談
②マリウポリ「最後まで戦う」/アゾフ大隊司令官
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 二本の記事が並んでいる。①は【ニューヨーク=寺口亮一】と、ニューヨークからの記事。②は【ワルシャワ=上地洋実】とあるから、ワルシャワからの、オンライン取材(インタビュー)。どちらも記者が「現地」で取材しているわけではない。①は国連で関係者から取材したのかもしれない。きのうの夕刊にはグテルとプーチンの写真が載っていたが、ロイターの提供写真だった。
 二本の記事のなかで焦点として語られているのがマウリポリ。製鉄所には「民間人が1000人以上避難している」(アゾフ大隊司令官)と言う。このことをめぐる3人の主張。
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 グテレス氏は(略)マリウポリのアゾフスタリ製鉄所に残っている民間人の退避について協力を要請した。(略)
 プーチン氏は(略)アゾフスタリ製鉄所に立てこもるウクライナ軍や武装組織「アゾフ大隊」が、民間人を「人間の盾」にしていると批判し、退避させる義務はウクライナ軍にあるとも強調した。
 (アゾフ大隊)司令官は「アゾフ大隊は決して降伏しない。武器が最後の1丁になっても戦い続ける」と徹底抗戦の方針を強調した。
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 いまの「報道の状況」(日本の社会に広がっている意見)からすれば、私の見方は「論外」かもしれないが、私は、アゾソ大隊司令官の言っていることがよくわからない。
 外電面に載っているアゾフ大隊司令官へのインタビューのつづきを読むと、
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 司令官は(略)アゾフスタリ製鉄所について、「水や食料もなくなりかけており毎日、死者が出ている」と危機的な状況を訴えた。(略)「ロシア軍の攻撃のため地下から外に出られない。避難者は長期にわたり日光を浴びられず、新鮮な空気も吸えない」と、地下空間に長く閉じ込められている息苦しさを語った。
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 そうであるなら、どうして民間人を救出させる(脱出させる)という方法をとらないのだろうか。
 兵士は何のために戦うのか。もちろん自分の命を守るために戦うが、市民の命を守るためにこそ戦うのではないのか。
 だからこそ、市民が犠牲になったとき、「市民を狙った」とか「市民を虐殺した」とかいう批判が起きる。市民を犠牲にしてはならない。ロシアが強く非難されている理由のひとつに「市民虐殺(ジェノサイド)」があるのもそのためだ。
 製鉄所地下に避難している市民は、彼らが進んで製鉄所の地下に避難してきたのか。アゾフがここは安全だと呼び寄せたのか。もしそうだとしても、そこが安全ではなくなったなら、そこから脱出させるのが兵の仕事ではないのか。
 一面の記事のなかで、司令官は「武器が最後の1丁になっても戦い続ける」と言っているが、これは司令官以外の兵の「総意」なのか。司令官の命令なのか。あるいはゼレンスキーの命令なのか。司令官には、戦うと同時に、部下の命を守る責任もあると思うが、この「命を守る」という意思が、私には、司令官のことばからは感じられない。

 市民を脱出させると、そのとき市民が集団虐殺されるとアゾフは主張するかもしれない。しかし、そんなことをすれば、それこそ世界が注視するなかでのロシアの蛮行が明白になるのだから、ロシアはするはずがないし、もししたとしたらそれこそ世界中から攻撃されるだろう。どんな虐殺も隠されて行われる。
 キーフ近郊の虐殺も、それを見ていた第三者がいない。(いるかもしれないが、私はそういうニュースを読んでいない。)多くの遺体が見つかった後で、「虐殺があった」とわかるのである。虐殺は、殺した人以外は知らないところでおこなわれるから大問題なのだ。誰も見ていないから、虐殺が拡大していくのである。

 最後まで戦う、「武器が最後の1丁になっても戦い続ける」とは、ほんとうに正しい選択なのか。
 そのとき、地下に避難している市民は、どう思うのか。「私たちは、ウクライナを守るために戦った」と思って死んで行くのか。「こんなところで死にたくなかった」と思いながら死んでいくのか。「アゾフが降伏してくれたら、生き延びられたかもしれない」と思って死んでいくのか。
 ロシアのウクライナ侵攻以来、多くの市民がウクライナから避難している。難民になっている。彼らは、ロシア支配の世界では自由がなくなると思って避難したのか、それとも戦争に巻き込まれて死ぬのはいやだと思って避難したのか。
 私なら、後者である。戦争なんかで死にたくない、殺されたくない。だから、逃げよう、を選ぶ。ロシアの支配下では自由がなくなるから、自由のある国へ避難するというのは、もっと後でもできる。いまは、何がなんでも生きたい、だから逃げるのであって、資本主義とか自由主義とかは関係がない。
 製鉄所の地下に避難している市民も、たぶん「生きたい、逃げたい」と思っているのではないのか。
 その市民の思いを、どう実現させるのか。

 私がインタビューアーなら、どうしても聞かずにはいられない。「武器が最後の1丁になっても戦い続ける」ということばを避難している市民はどう受け止めていますか? どんなふうに避難している市民に状況をつたえていますか?」
 聞いたけれど、それは新聞には書いてはいけないことなのか。それとも、そういうことを聞くのを忘れているのか。それは、アブソに完全利用されている、アゾフのことばをPRしているだけであって、取材ではないのだが……。
 外電には、地下にいる子どもたちの写真も掲載されている。やはりロイターの写真である。写真だけで、子どもたちの声はない。
 いったいだれが、その子どもたちの声をつたえるのか。つたえようとしているか。そういう意識を持った人が、ジャーナリズムの中にいるのか。
 そういうことを考えてしまう、きょうの新聞だった。
 私はプーチンが間違っていると考えるが、だからといってゼレンスキーやアゾフ大隊を支持することはできない。市民が死んでいくことをなんとも思わないという点では、プーチンもゼレンスキーもアゾフ大隊も共通している。

 

 

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