詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「生きてるっていうこと」ほか

2022-04-03 13:45:34 | 現代詩講座

池田清子「生きてるっていうこと」、徳永孝「境界線」、緒方淑子「のんおあみゅるじんぐううるおあらくううんえにもあ」、青柳俊哉「どんぶり法師」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年03月14日)

 受講生の作品。

生きてるっていうこと  池田清子

痛いっていうことは
生きてるっていうこと

怖いっていうことは
生きてるっていうこと

老いること
悔やむこと
恥じること
会いたくてたまらない人がいるっていうこと
こうして 詩が書けるっていうこと

数学の問題を味わうように
生きてるっていうことを
ゆっくり 味わうことができたらいいんだけれど

 「生きてるっていうこと」が繰り返されているが、三連目にだけはない。省略されている。省略されても、わかる。その省略した分だけ、ことばが早くなり、ことばが多くなる。「老いること/悔やむこと/恥じること」には、また「っていうこと」が省略されている。ここも、なくてもわかる。この省略によるリズムの変化が、ことばを生き生きさせている。
 最後の連の「数学の問題を味わうように」は、池田のひととなりを知っている人にはわかるが、知らない人にはわかりにくい。この連がないと池田の「個性」が出てこない、池田が書いた意味がないといえるかもしれないが、つまずく人が多いと思う。
 三連目には池田の主張があふれているのだが、あふれすぎているかもしれない。少なくとも「ゆっくり 味わうことができたらいいんだけれど」の「できたらいいんだけれど」は言いすぎている。「生きてるっていうこと」でしめくくり、「できたらいい」は読んだ人に感じさせることが大切だと思う。
 自分ですべてを語るのではなく、読者に任せてしまう。そうすると、詩が窮屈ではなくなる。

境界線  徳永孝

低く薄く広がる
マーブル模様の雲

天と地 あの世とこの世を隔てる
ガラスの天井
肉体有るものは通れない

お父さん 振亜(ツェンヤ)さん お母さん
いなくなった人達
みんなあの上に行ったのかな

毎日生きてゆくことが
誰にでも最後まで残された
一番大事な仕事

その仕事を終えた時
あの境界線を越えて
先立った人達に迎え入れられたい

けれども おまえは
そのような生き方をしているか?

 徳永の詩も「生き方」をテーマにしている。受講生のなかから指摘があったが、最終連の質問は、「反語」的に響く。つまり、「そのような生き方をしているか?」という問いは、多くの場合「いや、していない」と否定の答えを誘導しやすい。その場合、それまでに書いてきた肯定的な響きが消えてしまう。「そういう生き方をしてきた、だから、私は先立った人達に迎え入れるはずだ」という肯定的な方向へ動いていくのはむずかしい。
 「生き方」をテーマに書くと、最後を強い肯定で終わるのは「傲慢」という印象を与えるかもしれないと配慮しているのかもしれないが、詩には、こういう配慮はいらない。
 人がどう思うかは、その人の問題。
 詩を書く時は、詩は読まれるものということを意識すると思う。しかし、逆にも考えてみよう。詩を読むのは、他人の考えを読むだけではない。詩を読む時、書いた人のことばに自分のことばが読まれることでもある。読みながら、自分はどうなのかな、と考える。人間は、たいていの場合、他人のことは気にしない。どう見られるかは、気にしないで、ただ自分の書きたいことを書けばいいと思う。

のんおあみゅるじんぐううるおあらくううんえにもあ  緒方淑子

お洋服やさんに行きました
コートの中身はコーン
あったかいんですよ  ~  えすでぃじぃず
 なんです  ~  店員さんは うふふ
セーターは たぬき ひらがな
あったかいんですよ  ~  店員さんはうふふ

えすでぃじぃず? 害獣駆除?
          飼ってるの?
そこまでは  ~  知らないんですよ  ~  
          店員さんはうふふ

次のお店でも たぬき ひらがな
あったかいんですよ  ~  
そこまでは  ~  知らないんですよ  ~  
 同じやりとり 店員さんはうふふ
  でも さっきより 少し困ってる

たぬきなら

郊外 の5月 の明るい田んぼで夫婦
峠 の道端 のこは倒れてた

きょうは たぬき ひらがな

 SDGs(エスディヘジーズ)とタヌキ、セーターの関係はわからないのだが、緒方が洋装店で体験したことを書いている。「たぬき」「ひらがな」、店員の「うふふ」。そのあと、「たぬき」から実際に見たタヌキのことが語られる。
 分かち書きに、それまでの体験(少し変わったリズム)が反映されていて楽しいのだが。私は一か所、とても驚いてしまった。
 「峠 の道端 のこは倒れてた」の「こ」と書かれていることば。私は「タヌキの子」と思った。直前に「夫婦」が出てくるから、その「子」と。しかし、緒方は「子」ではない、という。そこに倒れていたタヌキを指す、指示代名詞、という。
 「どんなふうにつかう?」
 「たとえば、犬を飼っている人が、このこはねえ、とか」
 「それは、私がかわいがっている子どものような存在、だから子というのでは?」
 「いや、そうじゃない。ポットを指して、このこは働き者、とか」
 私は、この説明に、心底驚いた。指示代名詞として「こ」ということばをつかったことはないし、聞いた記憶もない。緒方が言った「ポット」の例ならば、「これ」とか「それ」ということばをつかうだろうし、もし「こ(子)」ということばならば、それは自分が非常に愛着を感じている(自分の一部/犬を我が子き呼ぶのに似ている)ための、一種の「誤用」として理解できるが、愛着をこめたわけでない指示代名詞としての「こ」のつかい方があるとは知らなかった。私は福岡県に住んで50年になるが、ずーっと、この土地で話される単純な(?)指示代名詞のつかい方を知らずにきた。
 きっと知らないことばが、まだまだあるぞ、と思った。
 詩から離れてしまったが、この詩について語り合った時、会話がそういうふうに動いたので、その記録として書き残しておく。

どんぶり法師  青柳俊哉

蝉の声が 黒い雲母にしみいるこの夏
どんぶりのお椀に乗った小さい法師が 
頭に蜻蛉をのせて 津古の池水を渡ってくる 
赤松の崖から青い蟇(ひき)が飛び込む 水の大梵鐘! 

波うつ蓮の葉のうえで きょうも老いた河童が
酒に赤く酔う バラの友の河童も来ていて 
どこへ行くのかと問う 玄海の胸像(むなかた)の王に 
有明海の珍魚わらすぽを献上するのだ 
わだつみの宮のテラスから 女神さまを
遥拝(ようはい)し みあれ祭を見物するのだとかえす

友は水の旅の無事を願って 法師のお椀へ 
天の白いバラの花びらを吹きおくる

 この詩について語り合った時、「連想」ということばが受講生のなかか飛び出した。「連想が、ここちよい」と。
 緒方の書いていたタヌキのセーターと道路で倒れていたタヌキは、連想とはいえないかもしれないが、人の意識(ことば)は、あることをきっかけに別な方向へ動いていくものである。青柳の詩の特徴は、その連想が自律的なところにある。結論があって、それに向かってイメージを集めていくというよりも、ひとつのイメージが次々に新しいイメージを呼び、広がっていく。それが結果的にひとつの世界をつくりだす。
 青柳は芭蕉の「岩にしみ入る蝉の声」「蛙飛び込む水の音」が一連目に反映していると語った。その芭蕉の世界にとどまらず、二連目、三連目へと想像を連ねていく。このとき、その「想像(連想)」を統一するものがあるとしたら、何だろうか。それは、ことばの伝統だろう。青柳は芭蕉を引き合いに出したが、あることばが動くとき、そのことばは一緒に「文学」というか、他人がつくってきたことばの影響を受ける。自分だけの体験でことばを動かすのではなく、そこには少なからずことば同士が交渉するようにしてつくりあげてきた「動き」がある。この動きにひとつの傾向があると(別な言い方をすれば、あるひとつの文学伝統の方向性があると)、そのことばは安定して感じられる。むずかしいのは、そのとき「方向性」がひとつに決定されと、わかりやすいけれど、退屈(わかりやすすぎる)ということが起きる。
 また、緒方の作品への感想と同じように、また作品から離れてしまった。

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「経済戦争」の敗者はだれ?

2022-04-03 10:57:40 | 考える日記

 ロシアのウクライナ侵攻の行方が見えない……とは、私は、一度も考えたことがない。結果は、はじまったときから、私には「見えている」。というか、それ以外のことを想像したことがない。
 どうなるか。
 ロシアは「負ける」。
 理由は簡単。
 ロシアがウクライナに侵略した。侵略者は必ず負ける。日本は中国や韓国に侵略し、負けた。アメリカはベトナムに侵略し、負けた。イラクに侵略し、負けた。アフガニスタンに侵略し、負けた。(アメリカはベトナム、イラク、アフガニスタンに「侵略」したわけではない、という人がいるかもしれないが、それはどちらの側から戦争を見るか、「定義」するかの問題。ベトナム、イラク、アフガニスタンから見れば、アメリカ軍が、わざわざアメリカからやって来たのは「侵略」以外のなにものでもないだろう。)
 古くは、ローマ帝国の領土拡大、ナポレオンのロシア侵略、イスラムのイベリア半島侵略。
 自分の住んでいる土地を離れて戦えば、必ず、負けるのである。みんな土地を知らないから負けたのだ。象徴的なのが、イスラムのイベリア半島侵略。イスラムは長い間、スペインを征服し続けたが、北部は支配できていない。スペイン北部は、雨が多く、緑が多い。それは砂漠とは、土地(気候)がまったく違う。イスラム教徒は、その土地、気候を知らなかったからだ。
 とくに、アメリカは、自分の住んでいる土地を離れて、「異国」で戦争している。そういう人間は勝てるはずがない。
 こういうことは、私はベトナム戦争から学んだ。
 その土地に住んでいる人が、その土地を捨てることをあきらめない限り、よそからきた人間が勝つことはできない。その土地にはその土地を利用した生き方があるからだ。その土地の利用の仕方を知っている人間が生き残る。つまり、勝つ。

 私の知っている例外、侵略者が勝利をおさめ、居すわり続けているのは、スペインのアメリカ大陸侵略くらい。戦うときの武器に差がありすぎた(武器文明に差がありすぎた)のと、侵略された側への「武器の補給(支援)」が他の国からなかったので、負けた。ベトナムにしろ、アフガンにしろ、他の国が武器支援をしている。単独で戦っているように見えて、単独で戦っているわけではない。武器支援のないところで戦わなければならなかったことが、アメリカ大陸が侵略されてしまった理由だ。
 そして、このアメリカ大陸侵略には、もうひとつ注目しないといけない点がある。あれは、スペインというよりもキリスト教のアメリカ大陸侵略だったのだ。ほかにもいろいろ目的があるが、宗教を広める、「未開の人間を文明に目覚めさせる」という目標があった。そして、それが「成功」した。武力侵略、経済侵略が、そのまま「宗教侵略」として定着した。
 アメリカは、このあたりの「事情」を勘違いしている。「理念(宗教)」を掲げて戦ったから勝ったと思っているのではないのか。歴史のことを何も知らない私の見る限り、宗教(理念)による侵略の成功(?)が、今のアメリカに引き継がれている。アメリカは「資本主義=自由」という、「宗教」に似た理念で世界で戦争を繰り広げている。「理念」を掲げさえすれば、勝てると思っている。けれど、やっぱり負けた。「自由主義/資本主義」の理念を掲げて戦っているが、やっぱり負けた。アメリカ大陸に存在したいくつもの国に「武器支援」がなかったけれど、ベトナムにもアフガンにも、他国からの「武器支援」はあったからね。一方、ベトナムに侵略したアメリカへは、そういう直接的な武器支援はなかった。アメリカは「自前」で武器を調達し続けた。まあ、アメリカの武器が最先端であり、他国の武器支援など役に立たないという事情もあるかもしれない。

 いま、アメリカがやっているのは、この戦法だね。自分は戦争に参加しない。「武器支援」でウクライナを支援する。ここでおもしろいのは、アメリカが直接戦争しようが、間接的に戦争しようが(武器支援しようが)、そのときもうかるのはアメリカの軍需産業ということだね。

 脱線した。

 ロシアに、もし「勝つ」要素があるとしたら、アメリカの他国への侵略と違って、ロシアがウクライナと「地続き」ということ。「武器支援」の補給路が、どこにでもつくれるということ。ゲリラ攻撃ができるのだ。だからこそ、ロシアがウクライナから撤退したとしても、それは「負け」を意味しないかもしれない。油断させる作戦かもしれない。それにねえ、なんといっても、ロシアもまた、ウクライナの土地を知っている。同じ風土を生きているひとが多い。
 ということは。
 この戦争は「ベトナム戦争」以上に泥沼化することになる。

 問題は、これに「金(経済)」が絡んでくることだなあ。(先に「脱線した」と書いたが、実は、これから書くことを書くための準備として、あえて横道に逸れておいたのだ。だから、これから書くことこそが、私のいいたいこと。)ベトナムは、世界経済に占める位置が低い(低かった)。簡単に言いなおせば、ベトナムから何かが輸入できなくなって困る国というのはあったかもしれないが、少なかった。
 けれど、今度は違う。
 ロシアから石油、天然ガス、小麦を輸入している国は多い。それらが輸入できなくなれば、輸入に頼っていた国の経済は、とたんに狂い始める。それは、あっという間に世界中に拡大していく。コロナウィルスの感染拡大よりも早い。そして、めんどうくさいことに、この拡大(たとえば物価の上昇)というのは直接的に人間を死に至らしめるわけではないから、とてもみえにくい。逆に言えば、その物価上昇で儲けているひとの、もうけもみえにくい。資本家は、何よりも「戦争」を利用して「便乗値上げ(利益の確保)」ができる。「ロシアの戦争のせいで、原料が値上がりしているから、仕方ないんですよ」。
 で、ちょっと思い出すのだが。私は直接テレビを見ていたわけではないので勘違いかもしれないが、NHKが原料費の高騰と商品の値上がりについてグラフで解説していた。(音を聞いただけ。)なんでも、原料の高騰幅に商品の高騰幅が追いついていない(一致しない)、というような説明だった。テキトウに言いなおすと、原料の石油・天然ガス、小麦が10%値上がりしているのに、商品の値上げは10パーセントではない。企業は原料の値上がり分を転嫁できずに困っている、というのがNHKの説明である。
 この説明、どうしたっておかしい。
 ある製品が原料だけでできているなら、原料が値上がりしたら商品も同じだけ値上げしないと原料が値上がりした分だけ赤字になる。けれど、どんな商品(製品)も原料だけてできているわけではなく、製造にたずさわる人間がいる。労働力も原料にあわせて値上げする(賃上げする)なら商品は原料の値上がりに正比例して値上がりするが、労働者の賃金を据え置いたままなら、商品は原料の値上がりに正比例しない。石油が10%値上がりしたら、バス代が10%値上がりする、電気代が10%値上がりするわけではない。石油が10%値上がりしたけれど、電気代は5%の値上げ。電力会社は赤字を覚悟で消費者のために働いている、とは言えないのだ。「生産過程」のコストをあえて除外して、原料の値上げと商品の値上げが正比例していない、なんて、なんのための説明なのか。企業の便乗値上げを追認するための、子供だましの説明ではないか。

 ここからわかること。

 ロシアのウクライナ侵攻に歩調をあわせて、金儲け主義(アメリカ資本主義)が、巧妙に動いているということである。キリスト教が大勝利をおさめたアメリカ大陸侵略も、単に「理念(宗教)」の侵略ではなく、経済の侵略だった。アメリカ大陸には、ヨーロッパの金儲けに役立つものがたくさんあった。それを搾取した、ということを忘れてはならない。
 経済的搾取を、ひとはどう呼ぶか知らないが、それはやはり「戦争」なのだ。「武力の戦争」と同時に、「経済戦争」が、いつでも起きている。そして「経済戦争」はいつでも「搾取」という一方的な形で展開される。資本家が必ず「勝つ」。「搾取」と戦い、耐え抜き、それに勝つため(反撃するため)の「土地/気候(風土)」のようなものを、私たちはまだ手にしていない。「搾取」に対する「ゲリラ戦」の基盤は、消費者独自の経済網だが、これはほとんど不可能だろう。もうひとつの基盤は「思想(ことば)」である。どんなことば(理論)で資本家の「搾取」、それに加担することばの嘘を暴いていくか、そういうことをめざさないといけないのだが、ジャーナリズムに横行している「学者」のことばを読むと、彼らは自分の地位に安住するために、ただ資本家(アメリカ資本主義)のことばを補強することに専念しているように思える。

 ロシアはウクライナから撤退する。ロシアは、この戦争に負ける。そのとき、私たちを動かしている「経済」は、どういう形をとっているか。搾取の構造はどうなっているか。私たち市民は、この戦争で「勝った」と言えるのか。勝ったと喜ぶのは、資本家だけではないのか。

 

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Estoy loco por espana(番外篇158)Obra,Jesus Coyto Pablo

2022-04-03 09:11:07 | estoy loco por espana

Jesus Coyto Pablo "Los perfumes del tiempo"
Encáustica fotografía sobre papel artesano. 2021

 

¿Qué es la memoria?
Todo el mundo lo sabe.
Lo que una vez viste u oíste.
Su forma, color y sonido.
Cosas que pueden reproducirse en nuestra conciencia.

Pero hay otro tipo de memoria.
Lo que no se puede reproducir en la memoria.
Efectivamente, existía.
Eres consciente de que ha existido, pero no puedes reproducirlo como una forma, un color o un sonido concretos.
No lo recuerdo.
En la obra de Jesús Coyto Pablo, me parece que él trata de plasmar eso irrecordable en una forma irrecordable.

No, no es así.

O tal vez intenta borrar lo que quiere olvidar pero no puede, lo que no puede evitar recordar.
No, quiero ver su trabajo de esa manera, creo, de repente.

Mis palabras (la conciencia) están arañadas, heridas y perturbadas.

Algunos recuerdos queremos recordarlos, otros queremos olvidarlos.
Se mueve contra nuestra conciencia.
Quiero recordar, pero no puedo.
Quiero olvidar, pero no puedo.
Esta "traición de la conciencia" puede ser el tema de Jesús Coyto Pablo.

Así como no poder recordar es una "traición a la conciencia", recordar (no poder olvidar) es también una "traición a la conciencia".
La traición de la conciencia hace que nuestro tiempo sea muy complejo.
Esa complejidad en sí misma, siento que es Jesús Coyto Pablo.


記憶とは何か。
だれでも知っている。
かつて見たもの、聞いたもの。
その形、色、音。
意識のなかに再現できるもの。

しかし、もう一つの記憶がある。
記憶のなかに再現できないもの。
たしかにそれは存在した。
その存在したという意識はあるのに、それが具体的な形、色、音として再現できない。
思い出せない。
Jesus Coyto Pabloの作品を見ると、彼は、その思い出せないものを、思い出せない形のままとらえようとしているようにみえる。

いや、そうではない。

あるいは、忘れたいのに忘れることができないものを、どうしても思い出してしまうものを、消そうとしているのかもしれないとも思えてくる。
いや、そんなふうに彼の作品を見たい、私は、突然、思ってしまう。

私の言葉(意識)は、傷つき、乱れてる。

記憶には、思い出したいものもあれば、忘れたいものもある。
それは私たちの意識を裏切って動く。
思い出したいのに思い出せない。
忘れたいのに忘れられない。
この「意識の裏切り」こそが、Jesus Coyto Pabloのテーマかもしれない。

思い出せないということが「意識の裏切り」であるように、思い出してしまう(忘れられない)というのも、「意識の裏切り」である。
「意識の裏切り」によって、私たちの時間はとても複雑になる。
その複雑さそのものが、Jesus Coyto Pabloと、私は感じる。

 

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