最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』(2)(小学館、2022年04月18日発行)
最果タヒ『さっきまでは薔薇だったぼく』の「冬の薔薇」。
冬は誰かが凍らせた薔薇が咲いている、
この書き出しは、とても不思議だ。
冬、薔薇の花が凍っている、凍った薔薇の花を冬に見る。どちらの場合も、私の視点は「凍った薔薇」に向かう。その「凍った薔薇」は、しかし、自然に凍ったのではない。急に気温が下がって凍ったのではない。「誰かが凍らせた」のだ。それは「第三者」かもしれないし、話者自身かもしれない。いずれにしろ、「凍った薔薇」よりも「誰か」(人間)がその背後にいるということが、わからないものを抱え込んだまま、迫ってくる。
その不思議さを抱えながら私は読み続ける。
冬は誰かが凍らせた薔薇が咲いている、
日差しの中で溶けていく、
ぼくは日光は全部幽霊だと思っていると、話した、
昼下がりの電車の中で、
日光は満ちていて、生きている人が皆黙って座っていた、
恋はいくらでも簡単にできる気がする、
誰もこうやって返事をしてくれない世界なら、
恋はいくらでもできるだろう、
ぼくは誰とも話せないなら、簡単に傷つき、
死にたくなって死に、
そうしてこの電車のソファを明るく照らす光になるよ。
凍った薔薇、日光、溶ける、までは論理的というが、そこに私の知っている論理が動いていることがわかる。つまり、何も考えないまま(あるいは、何も感じないまま、と言った方がいいかもしれない)、読むことができる。
ところが「幽霊」があらわれてから、私は、わからなくなる。日光が幽霊、幽霊とはたぶん死んだひとを感じさせる何か。だから、反対の「生きている人」ということばも出で来るが、その人たちは「皆黙って座っている」。それは「生きている」ようで「死んでいる」。つまり、幽霊かもしれないが、その死に方は「日光=幽霊」よりは稀薄な死に方なのだろう。完全には死んでいない死に方なのだろう。
ここから「恋」ということばが書かれるが、「黙っている」=「返事をしてくれない」と、その「恋」は関係があるのだ。「返事をしてくれない」=「話せない」、「傷つく」=「死ぬ」が交錯して、「ぼく」は「光になる」。その「光」が「日光」と同一のものかどうかはわからないが、たぶん同一だろう。
しかし、こんなふうに、何がなんでも「論理」で理解しようとすると、きっと何もわからない。どんなことばにもかならず「論理」はある。あるいは捏造できる。それは、凍った花(あるい氷)が日光によって溶けるというようなわかりやすいもの(わかったと思っているもの)もあれば、よく見えないものもある。このして言えば「誰が」凍らせたのか。
見えなくても、見えないながら存在している「論理」というものがある。ことばを動かす別の力がある。そして、これは「学校文法の論理」では明らかにすることができなない。だから、詩なのだ。
恋はいくらでも簡単にできる気がする、
誰もこうやって返事をしてくれない世界なら、
恋はいくらでもできるだろう、
どうして「恋ができる」のか。その理由は書いていない。だが、それは「理由」はいらない。そう感じたのだから。
最果は、この「感じた」を書くのである。「感じた」には、いわゆる「錯覚」もある。「幽霊」という存在そのものがそうだろう。それは「感じる」かどうかであって、それ以上のことを言っては、何もはじまらない。「信じる人」には存在する。「感じない人」には存在しない。そういうものが、ごく普通に交錯して動いているのが、私たちの生活だろう。
二連目で、この詩に、具体的な「誰か」が出てくる。「あなた」が出てくる。
私はきみが好きではない、とあなたは言った、
傷ついているのに、その傷口から芽が出て花が咲くとおもい、
ぼくはじっとしていた。
「学校文法」的に読むと、「ぼく(話者)」は「あなた」と会った。「あなた」は「私(=あなた)はきみ(=ぼく)が好きではない」と言った。「ぼく」は簡単に言えば、振られたのである。しかし、「ぼく」を振った「あなた」はそれで大丈夫なのかといえば、そうではなくて、「傷ついている」。「好きではない」ということで、何らかの「傷」が残る。ほんとうは好きなのに嫌いと言ったのか。嫌いといった方が、もっと愛してもらえる、あるいは自分の存在に気づいてもらえると思ったのか。わからないけれど、「ぼく」は「あなた」のことを、そんなふうに見つめている。こういうことは、思春期、あるいはもっとおとなになってからでもそうかもしれないが、誰もが一度は経験することだろう。どうしたら好きになってもらえるか。これはとても大事な問題だからである。
で、そういう大事な問題に直面したとき、そこに最果の場合、論理ではなく、別なことばで言えば「心理学」ではなく、もっと違うものが動く。
傷口から芽が出て花が咲く
こういう現象自体は、たとえば倒れた桜がまた花を咲かせるとき姿に重ね合わせて理解できるが、その瞬間的にあらわれてくる「感じ」が、そのまますっと動き、ことばになる。
「論理」ではなく「感じ」。何も、誰も、支えてくれない、たったひとりの「感じ」。この「たったひとりの感じ」というのは、別のことばで言えば「純粋」とか「透明」になる。他のひとの「論理」が入ってこないということである。「他人」とは、たぶん、最果にとって「論理」である。
そして、誤解かもしれないが、多くの若い人にとっては「他人」とは「論理」であり、それはうるさい不純物である。「論理」で自分を守り続ければいい。私はそうしない。「論理」を捨てて、「論理」に傷つき、傷つくことで自分の純粋さ、透明さを守って生きる、ということかもしれない。--しかし、それを私のように「論理的(?)」に言ってしまってはいけないのだろう。
最果は、「論理」になる前でことばをとめる。「純粋」「透明」なままで、ことばをとめる。
そんなに好きじゃなかったんだよ、
恋が叶わなくて、自殺しようと思わないなら、
そんなには恋じゃなかったんだよ、という人たちへ。
ぼくの花畑をいつか、見にいらしてください。
「ぼく」は「傷口から芽が出て花が咲く」ということを知っている。「ぼく」は、そうやって開いた花でいっぱいの「花畑」をもっている。
「感じ」とは「論理」的には「矛盾」になってしまうことを、矛盾させずに、そこに存在させる生き方かもしれない。
「恋は無駄死に」の終わりの方に、
それに、嘘だったでしょうって告げるために私は透明な風になり、
という一行がある。「嘘だったでしょう」の「嘘」を「論理」と読み直せば、あるいはこの詩の中でつかわれている「物語」と読み直せば、最果の世界がどこまでも広がっていくことがわかる。