詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓「金時鐘、〈在日」を超えて世界普遍性へ」

2022-04-15 12:25:52 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「金時鐘、〈在日」を超えて世界普遍性へ」(「走都」28、2022年04月30日発行)

 野沢啓「金時鐘、〈在日」をこえて世界普遍性へ」には「言語暗喩論のフィールドワーク」という副題がついている。野沢が書き続けている「言語暗喩論」のつづきとして読むことができる。
 今回の文章はとても読みやすかった。野沢は「誤読している」と指摘するかもしれないが、私はすらすらと「誤読」できた。読みやすかったとは、そういう意味である。
 理由は、とても簡単である。金時鐘の詩を語るに当たって、野沢が参照(引用?)しているのが、主に細見和之、倉橋健一の書いた金時鐘論であり、また金時鐘の発言であるからだ。ともに金時鐘に深く関係している。これまでの論のように、その哲学者、その思想家と、取り上げている作品がどういう関係にあるのか(それぞれの哲学者、思想家が、たとえば日本の誰それの詩について書いているのか)ということが私にはわからなかった。今回は、参照、引用されている「ことば」(金時鐘自身のことばを含む)と作品との関係がわかる。だから、わかりやすい。
 「主に」と私がことわったのはバーバラ・レオンダーという文芸理論家の文章を引用しているからである。

 だが、この「わかりやすかった」は、同時に、非常に疑問に思ったということでもある。今回の文章は「わかりやすかった」が、私が「理解したこと」と、これまで野沢が「書いてきたこと/私が誤読してきたこと」が、あまりにも違うからである。
 そのことを少しずつ書いていこう。

 《話し手が隠喩の過程を習得するのは、ことばを口にし始めるのとほとんど同時に始まる拡張的で不可避な実戦の結果である》とバーバラ・レオンダーという文芸理論家が「隠喩と幼児の認識」という論文のなかで書いているとおり、ひとはだれでもまず初めての事態にたいしては隠喩的なことばを発動させる詩人であったはずなのである。

 私はバーバラ・レオンダーの文章を読んでいないので、私が「誤読」しているのかもしれないが、バーバラ・レオンダーの書いていることと、野沢の書いていることには齟齬がある。私は、バーバラ・レオンダーの書いていることは納得できるが、野沢の書いていることには納得できない。
 どこに齟齬があるか。バーバラ・レオンダーは「同時」ということばをつかっている。「ことば」を口にし始める(つかうようになる)と「同時」に、「そのことば」だけではいえないようなこと、「そのことば」を超えた(こそことばを拡張した、新しいことば)で何かを伝えたいと思う。そして、それをなんとか言おうとする。これは、よくわかる。幼児が親に向かって「ちがう、ちがう、ちがう」と反発するときが、これにあたる。親が言っていることばを超えたところまで、幼児は「自己拡張」したい。そのために何かを言う。それは親の言う「ことば」とは違ってくる。
 正確には思い出せないが、あるこどもの詩に、おむすびと太陽(夕日)のことを書いたものがあった。山に夕日が沈んでいく。このとき子どもが感動する。すると親が「きれいだね」と応じる。しかし、子ども言う。「違う。山の中に太陽が入って、山が、大好きな梅干し入りのおにぎりになる」と。子ども夕焼けに感動したのではないのだ。このときの「違う」と、「親のことば(きれい)」を越えて、「おいしい巨大なおにぎり」に自分の思いを拡張していく。このとき、野沢はこの「比喩」を「暗喩」と呼ぶかどうかは知らないが、詩が存在する。
 そして、この詩が存在するためには、バーバラ・レオンダーは、「同時性」が必然であると書いていると、私に感じられる。しかし、この「同時」は、バーバラ・レオンダーが「隠喩の過程を習得する」と書いていることを手がかりにすれば、「同時」というより、「事前/時前(こんなことばがあるとかどうかよくわからないが)」だろう。すでに「ことば」があって、その「既存のことば」に反発する形で、既存のことば」を破壊する「ことば」が新しく動くとき、それは必然的に「暗喩」になるということではないのか。
 しかし、野沢は「同時」はおろか、詩の前に「既存のことば」があるということを否定していたのではないか。「ことば以前」「原始のことば」が「隠喩」であり「詩」であると主張したいたのではないのか。その立場から「詩」を絶対的、超越的なことばと定義していたのではないのか。
 さらに野沢はバーバラ・レオンダーのことばを引用した後に「詩人」ということばをつかって、詩を特権化しているが、これはなぜなのか。「哲学者」「思想家」であってはいけないのか。
 はっきり覚えていないが、野沢は、ある外国の哲学者(思想家?)を引用しながら、原始人(?)が雷に遭遇して、驚きのことばを発する。それが詩をつくることの出発点というようなことを言っていなかったか。初めて雷に遭遇したときの原始人が書いた(発した)「詩」というものが残されているわけではないから、想像するしかないのだが、何かに対して驚き、その驚きを、いままで存在しなかったことばで発したものが「詩」であるとき、そこには「同時」に、あるいは「事前/時前」にことばが存在していなければならない。そうでなければ、そこにあらわれてきたことばが「新しい」かどうか判断のしようがない。
 そして、こういうときの「新しさ」は、なにも「詩」だけに特権的に許されたものではない。散文(哲学)もまた、そのときそのときで、「既存のことば」を破って動き出すとき(新しい動きをするとき)、その「発見」が「詩」に通じる。詩に驚くのも、哲学に驚くのも、何気ない日常会話に驚くのも同じ。「詩のことば」を特権的に定義する「理由」が私にはわからない。野沢の、その欲望が、私にはわからない。これが、私がくりかえしくりかえし、野沢への疑問として書いてきたことである。

 「ことば」は事前/時前に存在する。その「既存のことば」を突き動かして、自己拡張する(それは同時に世界の拡張である)というのは、あらゆる言語活動に起きることである。哲学も宗教も小説も詩も同じ。そして、その自己拡張には、どうしても「暗喩」的な動きがある。いままでのことばで言えないことを言うのだから「暗喩」になるしかない。いままでどおりのことばで言うのなら、それは自己拡張にはならない。そして、このとき「暗喩」とは単なる「名詞」の言い換えだけではなく、私は「運動」だと思っている。だから、私は「運動」につながる「動詞」に注目し、そこから「見分け=言分け」というようなことを考えるのだが、これは書くと面倒くさくなるので、今回は省略する。
 ただ、こうつけくわえておく。野沢がバーバラ・レオンダーのことば、とくに「同時」ということばを、野沢がこれまで書いてきた文章をどう関連づけるのかわからないが、「同時」の導入によって、今回の金時鐘の詩への批評はとてもわかりやすくなっている。
 どんなことばにも「同時」があり、「過去」がある。
 詩にかぎらないが、あらゆることばの運動は、「既存のことば」とどう向き合うかから始まる。ことばは発せられた瞬間から「同時」であり、「事前/時前」になる。原始人が雷に驚き「うわーっ」と声を出す。「雷」という「ことば」はまだ存在せず、「うわーっ」としか言えない。その「うわーっ」を聞いたとき、一緒にいた別の原始人が「うわーっ」と同調するか、「うわーっ」では満足できずに「ぎゃーっ」と言うか。「うわーっ」よりも「ぎゃーっ」の方が衝撃的だいう認識が共有されれば「ぎゃーっ」が衝撃的な雷をあらわすことば、あるいは「暗喩」になるかもしれない。「詩」のことばになるかもしれない。また、怖くて声が出ないということが、その声を出さない(ことばを発しない)という行為として「詩」になる、「暗喩」になるかもしれない。このとき、それは「声を発することもできない」という別のことばとして語られるようになるかもしれない。
 どんな表現であれ、それが「新しいもの」「詩」と呼ばれるものである限りは、そのことばと同時に、他のことばが存在しなければならない。このときの同時は、必然的に、過去、つまり既存を含む。

 金時鐘の詩についての、野沢の評価からも、このことを指摘することができる。金時鐘北朝鮮で生まれ、日本語を身につけ、日本で生きている。日本語で詩を書いている。言語活動をしている。その過程で、朝鮮総連から批判を受けると言うこともあった。そういうことを踏まえて、こう書いている。

金時鐘の詩はつねにことばの問題に回帰する。しかしそのことばは日本人による日本語ではなく、つねに〈在日〉の圧力のかかったことばである。

 この文章からもわかるように、「日本人による日本語」が存在しなければ金時鐘の詩は存在しない。「ことば(日本語)」は既に存在する。その存在する日本語ゆえに、金時鐘は詩を書く。
 金時鐘自身は、どう書いているか。野沢は金時鐘の文章を引用している。

日本が朝鮮を統治したという三十六年の罪業の最大のものは、資源的なものというよりも、人間の人格が損傷したということが、その最たるものだと思います。僕の損傷させられた僕の人格の最たるものとして、僕は自分の国語を押しやった日本語があるわけであって、その日本語を僕が駆使するということは、日本語に対する最大の復讐だと、いわば日本人に対する復讐であろうと思うのです。僕の日本に対する復讐というのは、日本語でしか形成し得ないものをもっている。

 金ははっきりは「既存の日本語」を認識している。無意識に「日本語」をつかっているわけではない。詩にしろどんな言語活動にしろ、それは「既存の言語」と向き合うことで力を獲得していく。あらゆることとばは、既存のことばを超えて、自己拡張を試みるときに「暗喩」という形になる。そして、発話者が、あるいは読者(聞き手)が、そのとき「詩」を選ぶか、「哲学」を選ぶか、は関係がない。「詩」が特権的である「根拠」など、どこにもない。
 もうひとつ、書いておく。野沢は、金時鐘の「新潟」を引用した後で、

いくつかの注釈も必要であろう。このシチュエーションは新潟の帰国希望者審査の場面を想定している。

 「注釈を必要としている」とは、そこに書かれていることばを「注釈」のなかで動かすことである。このことは、ことばは、単に「既存のことば」だけではなく、「ことばと同時にある状況」との関係で動いていることを意味する。どんなことば、どんな「暗喩」も「既存のことば」「既存の状況(これも、どれだけ言語化されるかわからないが、意識化去るときことばが動いているから、言語の場としてとらえることができる)」と共にある。何かに先行することば、いままでなかったことばというものはない。
 「ことば」はいつでも遅れてやってくる。遅れてやって来て、先行することばに対する異議が詩であり、哲学であり、あらゆる言語活動なのだ。遅れてやって来ても、それは「暗喩」になる。「暗喩」を乗り越えていくのは、さらに遅れてやってくることばである。
 金時鐘は「復讐」ということばをつかっている。これが象徴的である。あるいは「暗喩的」であると、言おうか。すでに存在するもの、それは自分を傷つけてくる、だから、それに「復讐する」。「復讐」しながら自己拡張する。「復讐する」とは先行するものがない限り、起こし得ないことである。起き得ないことである。「詩」は「ことば」に先行しない。「詩」は「ことば」に遅れてやってくる。遅れてやってくる「新しさ」が「詩」である。(ここでは、私は「詩」ということばを、野沢の論に向き合わせるために、あえてつかっているが、この「詩」は「哲学」であっても「思想」であってもかまわない。「新しいことば/新しい認識/新しい精神運動」の「比喩」としてつかっている。)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする