石毛拓郎『ガリバーの牛に』(2)(紫陽社、2022年06月01日発行)
2篇目は「ガリバーの牛に」。困ったなあ、私は石毛と同世代の人間だと思っているが、私は、石毛が書いている「光景」を体験していない。生まれ育ったところが山の中の小さな集落なので、詩のなかに登場してくるような女や男はいなかった。石毛が書いてる女や男は、私が、ものごころがついたあと、たぶん、映画などを見始めたころに「知識」の対象としてあらわれてきたけれど。
それは、こんな感じ。
---アンタは、どうして逃げ隠れしているの?
おんなは、バラック小屋の敷居の上で
寝そべる大男をかくまっていた。
---いま、敷居の外に出ていけば、アンタは
捕まるに決まっている。
地下に潜って、そうよ!
いつまでも敗戦の感傷に、ひたってなんかいられないわ。
男はいつでも「感傷」を生きるものらしい。「感傷」とは「精神」を飾る夢かもしれない。でも、女は?
おんなの仕事は
進駐軍の兵士に、媚びを売る商売だ。
赤刈りで
言葉の影に身を寄せる、大男や
星になってしまうまえの、孤児たちを
おんならはバラックに集め、ドデスカデン、と
喰らう術を工作していた
「感傷=精神」は「言葉の影」にすぎない。そんなものは、売れない。つまり、食い扶持を稼げない。女は「食う」ために何ができるかを知っている。
---アンタらは捕まったら、リンチされるに決まっている。
うーん。男にできる仕事は、「感傷=精神(言葉の陰)」の男をつかまえて、リンチにすることか。そうやって食っている男がいる。男と男の、ばかばかしい生き方か。たぶん解決策などない。だから、忘れ去られるまで「地下に潜っていろ」ということか。
そして、ある日、地下から地上にあらわれると、きのう読んだ林家三平が見た「ガリバーの牛」に似た牛がいる。女がいる。時代が動いている。朝鮮半島で戦争が起きてる。突然、社会が好景気に浮かれている。
いま、記憶に残っているものごとは
たいしたことではないが
ガリバーの馬に、よく似ている
赤いヨダレかけをつけた牛への回想も
よほど、無力だが---。
何が書いてあるか実感できないが、「よほど、無力だが」には、何かこころをひっぱられる。「無力」の自覚というものが、重たい抵抗の存在感として、そこにある。
石毛の詩には、この「無力」への共感がある。「無力への共感」というと変だが、「無力」であっても、存在し続ける力への「信頼」のようなものを感じる。
強力なものへの(力を持ったものへの)信頼というのは、どこにでもある。そういうものを回避して、ただ存在するときの、「無力」。
「無力」のいいところは、「無力」ゆえに、だれに対しても、破壊ということをしないということか。「無力」だから、破壊されそうになったら隠れる。(地下にもぐる。)それは次に地上にあらわれたときは、破壊されないものから、破壊するものにかわるということではなく、ただ破壊されないように生きるということかもしれないが。そのときの「持続」には、何か、手に負えない強さがある。「無力の強さ」。それを、石毛は、どう書いているか。
---貧しかったが、卑しくはなかった。
ある日、あの牛の乳房を愛した大男は
多くの戦利品を抱えて、牛のまえに戻った。
その時、一人のおんなが
バラックの敷居の上で、正座をしながら
戸口に立った大男に、告げた。
---アンタが戸口に立てば、わたしは影になるわ。
「卑しくはない」が「強さ」だ。もちろん「卑しい」強さもあるが、「卑しい」が強くなったら「卑しくない」と思う。自然だ。「渚の塹壕にて」には「淫猥」ということばがあったが、それを「卑しい」と呼ぶかどうかは主観の問題だ。「淫猥」にかぎらず、セックス絡みのことは、すべては「卑しくない」。何をしても「卑しくなれない」というのが「無力の強さ」かもしれない。
逃げる男を隠す、そのために兵士に媚を売る。すべては「関係」なのである。そして、そういう「関係」のなかで、暴力的、支配的な立場にならない限り、そこには「卑しさ」はない、ということかもしれない。
こんな面倒なことを石毛は書いているわけではないが。面倒くさく、書いているわけではないが。
---アンタが戸口に立てば、わたしは影になるわ。
この最後の一行で、男(アンタ)と女(わたし)が入れ代わるのだが、突然あらわれた「わたし」という主語に、私はびっくりする。とても美しく、「わたし」ということば、その音が聞こえてきたのだ。それまで「わたし」は「アンタ」という呼びかけのなかにしかいなかった。それが「わたし」と主張している。「影になる」ことをそのまま受け入れて「わたし」になるのか、「影になりたくないわ」(だから、どいて)と言っているのか。よくわからないが、それまで「アンタ」と書きながらも、男と女の、三人称的な関係だったことばが、とつぜん、「アンタ/わたし」という主体的な関係になる。
「客観」を「主観(主体)」として生きる、「客観」を「主観(主体)」として引き受ける。そのとき、石毛は、力ではなく「無力」として引き受ける。そういう動きをするように感じられる。この「客観」を「主観(主体)」として引き受ける(あるいは継承する)ときの、なんといえばいいのか、「客観(対象)」として描いてきたものへの、「無力なもの」への信頼のようなものが、ことばのいちばん「底」の部分にあって、それが、ことばでは説明できないまま(整理できないまま)、私に響いてくる。それを「わたし」ということばに、私は感じた。
こんなことは、どう書いてみても、他人にはつたわらないと思うが……。
それは林家三平の登場する詩で言えば、林家三平を「ずるけて」ということばで引き受けるときの信頼のようなものなのである。石毛だって「ずるける」ときがある。それでいい、という引き受け方であり、そこには何かを「支配する」ではなく、「無力」を生きることへの共感的な信頼があると感じるのだ。
こんな言い方が正しいわけではないが、「無力」というのは、絶対になくならない「強力」なものなのだ。絶対的存在なのだ。そのことを石毛は、熟知していると感じる。私は、そこまでは思えない。「無力」を絶対的存在とは思いたくない気持ちがあって、それがきっと邪魔をして、「石毛の書いていることはわからない」と書くことで、自分を納得させたいのだと思う。石毛の詩を(ことばを)読んでいると、いつも、私は「子ども」だなあ、と感じてしまう。