詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(2)

2022-04-14 15:31:41 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(2)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 2篇目は「ガリバーの牛に」。困ったなあ、私は石毛と同世代の人間だと思っているが、私は、石毛が書いている「光景」を体験していない。生まれ育ったところが山の中の小さな集落なので、詩のなかに登場してくるような女や男はいなかった。石毛が書いてる女や男は、私が、ものごころがついたあと、たぶん、映画などを見始めたころに「知識」の対象としてあらわれてきたけれど。
 それは、こんな感じ。

---アンタは、どうして逃げ隠れしているの?

おんなは、バラック小屋の敷居の上で
寝そべる大男をかくまっていた。

---いま、敷居の外に出ていけば、アンタは
   捕まるに決まっている。
   地下に潜って、そうよ!
   いつまでも敗戦の感傷に、ひたってなんかいられないわ。

 男はいつでも「感傷」を生きるものらしい。「感傷」とは「精神」を飾る夢かもしれない。でも、女は?

おんなの仕事は
進駐軍の兵士に、媚びを売る商売だ。
赤刈りで
言葉の影に身を寄せる、大男や
星になってしまうまえの、孤児たちを
おんならはバラックに集め、ドデスカデン、と
喰らう術を工作していた

 「感傷=精神」は「言葉の影」にすぎない。そんなものは、売れない。つまり、食い扶持を稼げない。女は「食う」ために何ができるかを知っている。

---アンタらは捕まったら、リンチされるに決まっている。

 うーん。男にできる仕事は、「感傷=精神(言葉の陰)」の男をつかまえて、リンチにすることか。そうやって食っている男がいる。男と男の、ばかばかしい生き方か。たぶん解決策などない。だから、忘れ去られるまで「地下に潜っていろ」ということか。
 そして、ある日、地下から地上にあらわれると、きのう読んだ林家三平が見た「ガリバーの牛」に似た牛がいる。女がいる。時代が動いている。朝鮮半島で戦争が起きてる。突然、社会が好景気に浮かれている。

いま、記憶に残っているものごとは
たいしたことではないが
ガリバーの馬に、よく似ている
赤いヨダレかけをつけた牛への回想も
よほど、無力だが---。

 何が書いてあるか実感できないが、「よほど、無力だが」には、何かこころをひっぱられる。「無力」の自覚というものが、重たい抵抗の存在感として、そこにある。
 石毛の詩には、この「無力」への共感がある。「無力への共感」というと変だが、「無力」であっても、存在し続ける力への「信頼」のようなものを感じる。
 強力なものへの(力を持ったものへの)信頼というのは、どこにでもある。そういうものを回避して、ただ存在するときの、「無力」。
 「無力」のいいところは、「無力」ゆえに、だれに対しても、破壊ということをしないということか。「無力」だから、破壊されそうになったら隠れる。(地下にもぐる。)それは次に地上にあらわれたときは、破壊されないものから、破壊するものにかわるということではなく、ただ破壊されないように生きるということかもしれないが。そのときの「持続」には、何か、手に負えない強さがある。「無力の強さ」。それを、石毛は、どう書いているか。

---貧しかったが、卑しくはなかった。

ある日、あの牛の乳房を愛した大男は
多くの戦利品を抱えて、牛のまえに戻った。
その時、一人のおんなが
バラックの敷居の上で、正座をしながら
戸口に立った大男に、告げた。

---アンタが戸口に立てば、わたしは影になるわ。

 「卑しくはない」が「強さ」だ。もちろん「卑しい」強さもあるが、「卑しい」が強くなったら「卑しくない」と思う。自然だ。「渚の塹壕にて」には「淫猥」ということばがあったが、それを「卑しい」と呼ぶかどうかは主観の問題だ。「淫猥」にかぎらず、セックス絡みのことは、すべては「卑しくない」。何をしても「卑しくなれない」というのが「無力の強さ」かもしれない。
 逃げる男を隠す、そのために兵士に媚を売る。すべては「関係」なのである。そして、そういう「関係」のなかで、暴力的、支配的な立場にならない限り、そこには「卑しさ」はない、ということかもしれない。
 こんな面倒なことを石毛は書いているわけではないが。面倒くさく、書いているわけではないが。

---アンタが戸口に立てば、わたしは影になるわ。

 この最後の一行で、男(アンタ)と女(わたし)が入れ代わるのだが、突然あらわれた「わたし」という主語に、私はびっくりする。とても美しく、「わたし」ということば、その音が聞こえてきたのだ。それまで「わたし」は「アンタ」という呼びかけのなかにしかいなかった。それが「わたし」と主張している。「影になる」ことをそのまま受け入れて「わたし」になるのか、「影になりたくないわ」(だから、どいて)と言っているのか。よくわからないが、それまで「アンタ」と書きながらも、男と女の、三人称的な関係だったことばが、とつぜん、「アンタ/わたし」という主体的な関係になる。
 「客観」を「主観(主体)」として生きる、「客観」を「主観(主体)」として引き受ける。そのとき、石毛は、力ではなく「無力」として引き受ける。そういう動きをするように感じられる。この「客観」を「主観(主体)」として引き受ける(あるいは継承する)ときの、なんといえばいいのか、「客観(対象)」として描いてきたものへの、「無力なもの」への信頼のようなものが、ことばのいちばん「底」の部分にあって、それが、ことばでは説明できないまま(整理できないまま)、私に響いてくる。それを「わたし」ということばに、私は感じた。
 こんなことは、どう書いてみても、他人にはつたわらないと思うが……。
 それは林家三平の登場する詩で言えば、林家三平を「ずるけて」ということばで引き受けるときの信頼のようなものなのである。石毛だって「ずるける」ときがある。それでいい、という引き受け方であり、そこには何かを「支配する」ではなく、「無力」を生きることへの共感的な信頼があると感じるのだ。

 こんな言い方が正しいわけではないが、「無力」というのは、絶対になくならない「強力」なものなのだ。絶対的存在なのだ。そのことを石毛は、熟知していると感じる。私は、そこまでは思えない。「無力」を絶対的存在とは思いたくない気持ちがあって、それがきっと邪魔をして、「石毛の書いていることはわからない」と書くことで、自分を納得させたいのだと思う。石毛の詩を(ことばを)読んでいると、いつも、私は「子ども」だなあ、と感じてしまう。

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バイデンのことば(2)(情報の読み方)

2022-04-14 10:09:39 | 考える日記

 2022年04月14日の読売新聞(14版・西部版)1面に、「ウクライナ/米大統領「ジェノサイド」/戦争犯罪 米欧が糾明支援」という見出し。バイデンは、これまで「戦争犯罪」ということばはつかってきたが、「ジェノサイド」ということばでロシアを非難したことはなかった。しかし、
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バイデン氏は「先週と違い、露軍が行った恐ろしいことを示す証拠が次々に出てきている」と述べ、より深刻な犯罪のジェノサイドにあたると踏み込んだ。
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 さて、これだけでは「証拠」が何かわからない。だれが収集した証拠なのかもわからない。ゼレンスキーが「ジェノサイドだ」と批判するのと、バイデンが「ジェノサイドだ」と認定するのでは「意味」が違う。「証拠」が必要だ。さらに、ほんとうに「ジェノサイド」があったのだと仮定して、それをどうやって「裁く」のか。ロシアに認めさせるのか、という問題が残る。「ジェノサイドだ」と批判すればおしまいではない。
 このことはバイデンもいくらかは理解している。だから、国際刑事裁判所(ICC)が動き出している。(外電面で補っている。(数字は私がつけた。記事は、一部省略している。)
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①バイデン米大統領は12日、ロシア軍の行為を「ジェノサイド(集団殺害)」と非難した。ロシア軍の管理下で起きた事件などについて、日本を含む40か国以上が戦争犯罪を裁く国際刑事裁判所(ICC)に捜査を要請し、ICCは証拠集めに着手した。
②ウクライナの捜査当局は12日には、多数の民間人の遺体が見つかったキーウ近郊ブチャでフランスの法医学専門家チームと一緒に捜査を進めた。
③ICCには日本や英国、フランスなど123か国・地域が加盟しているが、ロシアや米国、中国などは入っていない。
④ウクライナも加盟していないがICCの捜査を受け入れると宣言している。捜査の結果、証拠が固まればICCは容疑者引き渡しを求めるが、加盟国でないロシアに応じる義務はない。
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 ①からは、戦争犯罪は、当事者でなくても捜査を要請できることがわかる。被害に遭っている国は、それを要請しているだけの余裕がないかもしれない。また、他国の問題といって、当事者ではない国が「戦争犯罪」を見逃すのは、人道的にもおかしいから、これはごく自然なことと思える。
 ②からは、フランスが捜査に参加していることがわかる。フランスのことしか書いていないのは、日本やアメリカは参加していない、を意味する。「証拠」があるとしても、それはフランス経由のものであって、アメリカが直接捜査したわけではない。これだけでも、バイデンの主張が「他人任せ」の要素を含んだあやしいもの、世界でいちばん影響力のある人間が軽々しく口にしてはいけないことばだとわかるが……。
 ③では、なんと、アメリカはICCには加盟していないのだ。たぶん、アメリカが行ってきた「侵略/虐殺」というものを、国際機関で裁かれることを拒否するためだろう。イラクやアフガンでアメリカが行ってきたことを(当時は行っていることを)裁かれたくない。だから、加盟していない。
 ④では、はっきりと、加盟していない国には判決というか決定を受け入れる義務はないと説明している。アメリカは「判決を受け入れる義務」を回避するために、ICCには加盟していないということがわかる。
 それなのに。
 ICCを利用して、ロシアを批判しようとしている。アメリカの主張を正当化するためにICCを利用しようとしている。
 これは、おかしくはないか。いわゆる「二重基準/ダブルスタンダード」というものだろう。

 ウクライナで起きていることは悲惨である。だれだって人が殺されているのを見れば、殺されている人に同情する。殺した人を批判する。そのとき強いことばで批判すればするほど、批判した人は「正義の人」として認められるだろう。
 バイデンは、そういう「正義の人」になろうとしている。アメリカこそが「正義」なのだと言おうとしている。これは、私には、非常に危険なものに思える。
 「正義」を振りかざす以上、「正義の判断」にはしたがうという姿勢を示さないといけない。まず、アメリカ自身がICCに加盟しないといけない。

 私はきのう、いま求められているのは「武力戦争」でも「経済戦争」でもなく「ことばの戦争(外交/対話)」だと書いたが、バイデンの「ジェノサイド」発言は「言いたい放題」であって、議論ではない。議論というのは「同じ場」に立つことが第一条件である。自分にはある規則を当てはめないが、他国には規則を当てはめる、では、「アメリカが法」になってしまう。実際、バイデンが押し進めようとしていることは、すべてをアメリカが決めるままに支配するということである。
 バイデンのことばからは、そういうことがわかる。ロシアがウクライナで行ったこと(行っていること)は厳しく批判されなければならないが、その批判は、「根拠」をもったものでないといけない。バイデンは、きのう取り上げた「物価高はプーチンのせい」ということばが特徴的だが、他人を批判することでバイデンの政策を「隠す」という動きをする。他人を批判せずには、自分を正当化するということができない論理である。

 

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