詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「落としもの」

2022-04-02 13:29:57 | 詩(雑誌・同人誌)

長嶋南子「落としもの」(「天国飲屋」創刊号、2022年04月01日発行)

 「天国飲屋」創刊号は、おもしろい。いろんな「おばさん」があつまっている。私はていねいに考えることが苦手なので、かなりの頻度で差別用語をつかってひとをひとくくりにする。そうすると、めんどうな手間が省けるからである。長嶋南子は、私が「おばさん」に分類しているひとりである。なぜ「分類」しておくかといえば、と書くと長くなるし、また手間もかかるので省略するが、これから書くことのなかに、おのずと「おばさん」があらわれてくるだろうから、「おばさん」とはどういう人間かいちいち書かずにことばを進める方が、ことばの経済学からいって「一石二鳥」なのだ。
 と、ケムにまいて、書き始める。
 長嶋南子「落としもの」は、こうはじまる。

きょうは産み落とさなかった子どもの誕生日です
赤ん坊を産んで落とすのが母の役目です

 どきりとするね。妊娠したら、出産予定日もわかるだろうが、かならず予定日に生まれるとはかぎらないから、出産予定日と「誕生日」は違う。けれど、「意識」のなかでは「予定日」と「誕生日」は同じ。これは、実際に子どもを胎内にかかえている女性にとっては「意識」というより「肉体」の切実さとして迫ってくる感覚だろうと思う。私が「どきり」とするのは、ここに書かれていることが「堕胎(赤ん坊の死)」を連想させるだけではなく、そのときいっしょに存在する「女の肉体(母の肉体)」を感じてしまうからだ。「赤ん坊を産んで落とすのが母の役目です」は、意味はわかるが、同時に、「意味」以上の何かがこの一行を支えていると感じさせる。「意識」あるいは「意味」にならない「肉体」の強烈さ。「肉体」は「役目」で分類できるようなものを超えている。男は(たとえば、「おじさん」の代表である政治家は)「赤ん坊を産むのが母の役目」とは言えても「産み落とす」とは言えない。「おばさん」は、頭で整理できない何かをかかえている。長嶋は、頭では整理しきれない何かと向き合い、頭で整理して発せられることばに対して怒っている。その怒りの奥には、生まれなかった子どもへの愛があるのか、生まれなかった子どもの怒り・嘆きがあるのか、それとも生むことができなかった女の、生んだのに見捨てられる女の、何にぶつけていいかわからない怨念があるのか。これは、もちろん、整理のしようがない。それでも、ことばは、何かをつかみとろうとして動いていく。

落としたら拾われます
わたしの子どもは落としものにはなりませんでした
拾ってくれる人がいなかったのです
まが玉みたいな形のままで
胎内をただよっています
脳が萎縮してくると
ただよっているのことを忘れ去ります
わたしが忘れると
誰も思い出してくれません
不憫な子どもです 不憫なわたしです

 「産み落とす」ということばが、「落とす」「拾う」ということばにわかれながら描くのは「客観的事実」なのか「主観的事実」なのか。「客観」をよそおいながら、「客観」にならないものが動く。「拾ってくれる人がいなかったのです」と書いているが、母とは「産み落とす」ひとであると同時に「拾うひと」でもあるはずだから、「拾ってくれる人がいなかったのです」は単に母と子の関係を語っているわけではないことになる。「胎内をただよっている」は「肉体」はそれを忘れられないと語るのだろうが……。
 語られていないことが、いや、
語り尽くせないことが、ここにはある。それが「ある」ということが、語られている。その「ある」を支えているのは「わたし」という存在である。
  それを象徴するのが、

わたしが忘れると
誰も思い出してくれません
不憫な子どもです 不憫なわたしです

  「不憫な子どもです」は即座に「不憫なわたしです」と言いなおされる。「子ども即わたし」。そして、その「即」は「不憫」ということばで代弁される。そのときの、ことばの動きの「強さ」。
  この、強さそのものをあらわす「即」、--書かれていない「即」--つまり、ほかのことばで言いなおされる「即」が、長嶋の詩にはたくさん出てくる。( と、思う。--過去の作品から具体例をあげないといけないのだろうが、省略。) この作品では、「母親」であるはずの「わたし」が「わたしを産み落とした母」のことを描くことで、「子ども即わたし(母)」が「わたしの母即子どものわたし」という形で展開していく。「わたし」は「母」であると同時に「子ども」、「母」は「母」であると同時に「誰かの子ども」。ここには「即」のつながりだけが「ある」ことになる。
 こう展開していく。

まが玉みたいなものが連なっているネックレスを買いました
たくさんのまが玉が首回りを飾ります
古墳から出土されるまが玉ですから
神代の昔から産み落とされなかった子どもは
たくさんいたのでしょう
わたしを産み落とした人は百四年生きました
きのういのちを落としました
いのちの脱け殻を拾いにいきました
落としては拾われて地上はにぎやかです
わたしの柩にはまが玉のネックレスを入れて下さいね
何万年後に出土されて
博物館に展示されます
わたしが産み落とさなかった子どもです

 長嶋の「即」は「連なる」である。この「連なる」は、ただの「連なる」ではない。接続ではない。

わたしを産み落とした人は百四年生きました
きのういのちを落としました
いのちの脱け殻を拾いにいきました
落としては拾われて地上はにぎやかです

 「落とす」と「拾う」。そこには「断絶」がある。「断絶」があるのに、「連なる」。「断絶」しているのに「即」、切り離せない「連なる」なのである。
 簡単に言いなおすと「矛盾している」。この「矛盾」の前で「平気」なのが「おばさん」なのである。男(おじさん)は、「矛盾している」と指摘されると、うろたえる。「論理的」であろうとして、ますます非論理へはまりこみ、非論理をごまかすために、あっちこっちから「引用」をはじめる。「引用」とは、つまり、これは私が言っていることではなく、もっと有名な偉い人の言っていることだから正しい、私の正しさは偉い人によって保証されているというと、奇妙な「言い訳」のようなものなんだけれどね。
 「おばさん」は「矛盾している」という指摘にうろたえない。逆に、反撃する。矛盾している(統一されていない)方が「にぎやか」でいいじゃないか。
 この「にぎやか」は「さびしい」でもあるんだけれどね。
 長嶋は、そういうことは、いちいちいわない。「さびしさ」は、「不憫」につうじる。何が不憫といって「産み落とされなかった子ども」。それは、「わたし」。「産み落とされて」、その「産み落とした母」の「いのちの脱け殻」を「拾う」。こんな断絶しているのか接続しているのか、一言では言えない「連なり」。そういうことを生きるのは、たしかに「不憫」だねえ。でも、「にぎやか」でうれしい。

 長嶋のことばには、整理してはいけない何かが、ある。私は、それに近づいたり、離れたりして、思いついたことを言う。「おばさん」というのは怖い存在なので、私は、いつでも逃げられる準備をしながら、遠吠えをするガキのようなものだなあ、と思う。
 


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Estoy loco por espana(番外篇157)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-02 09:13:16 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
T. Hierro 65 x 18 x 15 S.

Una forma simple y hermosa.
Un árbol o un hombre.
De pie en una esquina.
El mundo comienza en esa esquina.
La belleza de estar solo.
La infinidad de la soledad.
Cuando miro un árbol, un hombre, 
pienso también en el espacio y el tiempo puros 
que se extienden ante él.

シンプルで美しい形。
一本の木か、一本の男か。
立っているのは、片隅。
世界は、その片隅からはじまる。
孤独であることの美しさ。
孤独であることの、無限さ。
一本の木、一人の男を見るとき、
私はまた、彼の前に広がる
純粋な空間と時間を思う。

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Estoy loco por espana(番外篇157)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-02 09:13:16 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns
T. Hierro 65 x 18 x 15 S.

Una forma simple y hermosa.
Un árbol o un hombre.
De pie en una esquina.
El mundo comienza en esa esquina.
La belleza de estar solo.
La infinidad de la soledad.
Cuando miro un árbol, un hombre, 
pienso también en el espacio y el tiempo puros 
que se extienden ante él.

シンプルで美しい形。
一本の木か、一本の男か。
立っているのは、片隅。
世界は、その片隅からはじまる。
孤独であることの美しさ。
孤独であるかとの、無限さ。
一本の木、一人の男を見るとき、
私はまた、彼の前に広がる
純粋な空間と時間を思う。

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