長嶋南子「落としもの」(「天国飲屋」創刊号、2022年04月01日発行)
「天国飲屋」創刊号は、おもしろい。いろんな「おばさん」があつまっている。私はていねいに考えることが苦手なので、かなりの頻度で差別用語をつかってひとをひとくくりにする。そうすると、めんどうな手間が省けるからである。長嶋南子は、私が「おばさん」に分類しているひとりである。なぜ「分類」しておくかといえば、と書くと長くなるし、また手間もかかるので省略するが、これから書くことのなかに、おのずと「おばさん」があらわれてくるだろうから、「おばさん」とはどういう人間かいちいち書かずにことばを進める方が、ことばの経済学からいって「一石二鳥」なのだ。
と、ケムにまいて、書き始める。
長嶋南子「落としもの」は、こうはじまる。
きょうは産み落とさなかった子どもの誕生日です
赤ん坊を産んで落とすのが母の役目です
どきりとするね。妊娠したら、出産予定日もわかるだろうが、かならず予定日に生まれるとはかぎらないから、出産予定日と「誕生日」は違う。けれど、「意識」のなかでは「予定日」と「誕生日」は同じ。これは、実際に子どもを胎内にかかえている女性にとっては「意識」というより「肉体」の切実さとして迫ってくる感覚だろうと思う。私が「どきり」とするのは、ここに書かれていることが「堕胎(赤ん坊の死)」を連想させるだけではなく、そのときいっしょに存在する「女の肉体(母の肉体)」を感じてしまうからだ。「赤ん坊を産んで落とすのが母の役目です」は、意味はわかるが、同時に、「意味」以上の何かがこの一行を支えていると感じさせる。「意識」あるいは「意味」にならない「肉体」の強烈さ。「肉体」は「役目」で分類できるようなものを超えている。男は(たとえば、「おじさん」の代表である政治家は)「赤ん坊を産むのが母の役目」とは言えても「産み落とす」とは言えない。「おばさん」は、頭で整理できない何かをかかえている。長嶋は、頭では整理しきれない何かと向き合い、頭で整理して発せられることばに対して怒っている。その怒りの奥には、生まれなかった子どもへの愛があるのか、生まれなかった子どもの怒り・嘆きがあるのか、それとも生むことができなかった女の、生んだのに見捨てられる女の、何にぶつけていいかわからない怨念があるのか。これは、もちろん、整理のしようがない。それでも、ことばは、何かをつかみとろうとして動いていく。
落としたら拾われます
わたしの子どもは落としものにはなりませんでした
拾ってくれる人がいなかったのです
まが玉みたいな形のままで
胎内をただよっています
脳が萎縮してくると
ただよっているのことを忘れ去ります
わたしが忘れると
誰も思い出してくれません
不憫な子どもです 不憫なわたしです
「産み落とす」ということばが、「落とす」「拾う」ということばにわかれながら描くのは「客観的事実」なのか「主観的事実」なのか。「客観」をよそおいながら、「客観」にならないものが動く。「拾ってくれる人がいなかったのです」と書いているが、母とは「産み落とす」ひとであると同時に「拾うひと」でもあるはずだから、「拾ってくれる人がいなかったのです」は単に母と子の関係を語っているわけではないことになる。「胎内をただよっている」は「肉体」はそれを忘れられないと語るのだろうが……。
語られていないことが、いや、
語り尽くせないことが、ここにはある。それが「ある」ということが、語られている。その「ある」を支えているのは「わたし」という存在である。
それを象徴するのが、
わたしが忘れると
誰も思い出してくれません
不憫な子どもです 不憫なわたしです
「不憫な子どもです」は即座に「不憫なわたしです」と言いなおされる。「子ども即わたし」。そして、その「即」は「不憫」ということばで代弁される。そのときの、ことばの動きの「強さ」。
この、強さそのものをあらわす「即」、--書かれていない「即」--つまり、ほかのことばで言いなおされる「即」が、長嶋の詩にはたくさん出てくる。( と、思う。--過去の作品から具体例をあげないといけないのだろうが、省略。) この作品では、「母親」であるはずの「わたし」が「わたしを産み落とした母」のことを描くことで、「子ども即わたし(母)」が「わたしの母即子どものわたし」という形で展開していく。「わたし」は「母」であると同時に「子ども」、「母」は「母」であると同時に「誰かの子ども」。ここには「即」のつながりだけが「ある」ことになる。
こう展開していく。
まが玉みたいなものが連なっているネックレスを買いました
たくさんのまが玉が首回りを飾ります
古墳から出土されるまが玉ですから
神代の昔から産み落とされなかった子どもは
たくさんいたのでしょう
わたしを産み落とした人は百四年生きました
きのういのちを落としました
いのちの脱け殻を拾いにいきました
落としては拾われて地上はにぎやかです
わたしの柩にはまが玉のネックレスを入れて下さいね
何万年後に出土されて
博物館に展示されます
わたしが産み落とさなかった子どもです
長嶋の「即」は「連なる」である。この「連なる」は、ただの「連なる」ではない。接続ではない。
わたしを産み落とした人は百四年生きました
きのういのちを落としました
いのちの脱け殻を拾いにいきました
落としては拾われて地上はにぎやかです
「落とす」と「拾う」。そこには「断絶」がある。「断絶」があるのに、「連なる」。「断絶」しているのに「即」、切り離せない「連なる」なのである。
簡単に言いなおすと「矛盾している」。この「矛盾」の前で「平気」なのが「おばさん」なのである。男(おじさん)は、「矛盾している」と指摘されると、うろたえる。「論理的」であろうとして、ますます非論理へはまりこみ、非論理をごまかすために、あっちこっちから「引用」をはじめる。「引用」とは、つまり、これは私が言っていることではなく、もっと有名な偉い人の言っていることだから正しい、私の正しさは偉い人によって保証されているというと、奇妙な「言い訳」のようなものなんだけれどね。
「おばさん」は「矛盾している」という指摘にうろたえない。逆に、反撃する。矛盾している(統一されていない)方が「にぎやか」でいいじゃないか。
この「にぎやか」は「さびしい」でもあるんだけれどね。
長嶋は、そういうことは、いちいちいわない。「さびしさ」は、「不憫」につうじる。何が不憫といって「産み落とされなかった子ども」。それは、「わたし」。「産み落とされて」、その「産み落とした母」の「いのちの脱け殻」を「拾う」。こんな断絶しているのか接続しているのか、一言では言えない「連なり」。そういうことを生きるのは、たしかに「不憫」だねえ。でも、「にぎやか」でうれしい。
長嶋のことばには、整理してはいけない何かが、ある。私は、それに近づいたり、離れたりして、思いついたことを言う。「おばさん」というのは怖い存在なので、私は、いつでも逃げられる準備をしながら、遠吠えをするガキのようなものだなあ、と思う。
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