石毛拓郎『ガリバーの牛に』(4)(紫陽社、2022年06月01日発行)
5篇目「駿河台の青い空」。
菅原克己が、誰かの詩を引用している。それが誰の詩かわからないが、石毛は覚えている。
---マクシム、どうだ、
青空を見ようじゃねえか
菅原が引用しなかったら、そのことばは生き残らなかった。石毛がそれを引用しなかったら、そのことばは生き残らなかった。とはいえないが、いま私がそのことばを読んでいるのは、石毛が菅原の詩を覚えているからであり、菅原は誰かの詩を引用したからだ。
ことばは、ことばを生きていく。
誰かの詩には誰かの「肉体」が、菅原の詩には菅原の「肉体」が、石毛の詩には石毛の「肉体」が反映されているはずである。そして、その三人の「肉体」には共通するかもしれないが、完全に個別のものである。他人の「肉体」を生きることはできない。
ところが、ことばは「個別性」を生きることができない。
たとえば私が引用したその詩は、誰のことばが。何か、そこにその人を印づける特徴があるか。ない。ないからこそ、それを特定するには、そのことばの「周辺のことば」、そのことばと一緒に生きていたことばが必要である。
いま、石毛が引用したことばは、いったいどんな「石毛のことば」と一緒に生きているか。
もしも だれかが
「だいぶ 老けたね!」と言うのなら
おれは 背中を指して言うだろう
煙草と珈琲と有期労働に 隠れながら
なおを 背負ってきたか!
その曲がり具合を 笑いながら---
---友よ、どうだ、
青空を見ようじゃねえか
全部の引用ではないので説明を加えておくと「隠れる」ということが、「肉体」として引き継がれている。「隠れて」生きるとは、たとえば「有期労働」を生きるということである。「身元」がしだいに露顕するということは少ない。「有期労働」は、たいていの場合、過酷だ。肉体的に厳しい。それが「背中」の「曲がり具合」に反映している。
こうした状況を「背負う」という動詞で石毛は表現しているが、石毛はつまり、「マクシム」の二行のことばが発せられたとき、そこには「何かを隠し(何かを背負い)」生きてきた「肉体」があることを「石毛の肉体」で引き継ぎながら、それをつなぐものとして「ことばの肉体」を動かしていることになる。「背中」を中心に、「肉体」を動かしながら、「ことばの肉体」に陰影をつけくわえる。
誰でも何かを背負っている。それは何かを「隠している」ということ。「隠し事なんかない」というひとのことは、いまは考えない。「隠している」ということを知っている人に向かって、石毛は言う。
友よ
「マクシム」が「友よ」に変わっている。変えることで、石毛は「マクシム」には「友(認識を共有するもの)」という「意味」をつけくわえる。そして、それは同じ「肉体(背中)」の体験をしたことがあるもののことである。もちろん「肉体」を「精神」と呼んでもいい。むしろ「精神」と呼ぶひとの方が多いかもしれない。
でも「有期労働」や「背負う」「曲がり具合」ということばから、私はそれを「肉体(背中)」に引き留めておきたい。隠れていることは「肉体」にとっては窮屈だ。だから、ときどき、「肉体」を解放する必要がある。
---友よ、どうだ、
青空を見ようじゃねえか
いま、「ことばの肉体」もまた、青空を見るのだ。菅原と、誰かの「ことばの肉体」も青空を見る。そのとき彼らの「肉体」も青空を見る。