緒方淑子「垣根」、青柳俊哉「手の高さに」、徳永孝「昆虫の惑星」、池田清子「三月の中旬」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年04月04日)
受講生の作品。
垣根 緒方淑子
木蓮 触りたかった
木蓮
のぼってた空に真白(ましろ)に
触りたかった
花びら 夕暮れに 冷たかった
犬、食べたかった 引かれて食べなかった
拾いたかった
冷たかった
花びらを垣根に
触りたかった夕暮れ
緒方の詩の特徴のひとつに主語と動詞の関係があいまいなところがある。「触りたかった」が繰り返されるが、主語は何か。「私は」と読むのがふつうかもしれないが、「木蓮は」と読むこともできる。木蓮は何に触りたいのか。「私に」か。二連目を手がかりにすれば、「空」かもしれない。このとき「空」は具体的な空であると同時に、自分から離れた遠い存在の比喩にもなる。そう考えるとき、「木蓮」は「私」にもなりうる。「木蓮」と書かれているが、それは花ではなく、「私」の分身かもしれない。
「触りたかった」ということばがほんとうならば、それは「触らなかった」でもある。四連目の「冷たかった」の「冷たい」は触覚、触ることで感じるものである。触っていない。しかし、触覚が「触る」ことで感じるということもある。目が感じる冷たさがないわけではない。それは何かに触って冷たいと感じたとき、手だけが動くわけではなく、目も耳も、肉体全体が動くからである。感覚は肉体のなかで融合している。だからこそ、「冷たい色」とか「冷たい音」というものもある。実際に手が(肌が)触っていないのに「冷たい」と感じる。「真白」ということばを手がかりにすれば、視覚が「触り」、それが触覚にも反映している。
この感覚の越境は、緒方の肉体を越えて、犬にまで及ぶ。木蓮は木で咲いていると同時に、地面にも落ちている。より冷たいのは地面に落ちている花びらかもしれない。犬は「触りたかった」とは言わずに「食べたかった」と言う。そして「触れなかった」のかわりに「食べなかった」と言う。その間に「引かれて」という別の動詞が入り込んできて、犬と人間をつなぐ。ここは、とてもおもしろい。犬の登場で、「引かれる」という動詞の登場で「手」がより鮮明になる。手の意識が働く。
それが「拾いたかった」(拾う)という動詞を誘い出し、肉体が動いていく。木で咲いている木蓮の花。地に落ちている木蓮の花びら。中間にあるのは「垣根」かもしれない。地面に落ちている花びらを垣根の上にそっと預ける。そのとき、書かれていない「私」はふたたび「木蓮」になるかもしれない。
木蓮の花は、空に触りたい。夕暮れの空気に触りたい。それは「私」が、手ではなく、目で触ったその日の感触である。
主語と動詞を厳密に結びつけてしまわないことで、ことばが揺らぐ。その揺らぎのなかを、かろやかな音楽としてことばが動いていく。
*
手の高さに 青柳俊哉
ブドウの実を獲(と)ろうとして
前足をのばす それは自由に空へしなる
わたしは陶酔する ブドウの甘みと手の高さに
水にうつるわたしの姿を 地面に枝でふちどる
かげはわたしよりも暗く重い それを吹くと
水のうえをあまねく遠くへすべって空にまう
飛ぶ鳥の空間へ行くために 翼をふる
そこに鳥の手がある それはわたしの翼より
白く軽い 星に住む金の髪の少年に恋をして
青い隕石で文をしたためる
初めにずれがあった 地面と手の高さに
星を仰ぐわたしたちの心と 空の高さに
青柳の作品には、「手」がはっきりと書かれている。この手は、緒方の「触る」という動詞よりももっと積極的である。「手」にはできることがたくさんある。それが「わたし」を「陶酔」させる。「ブドウの甘さ」に陶酔するのは「味覚」だが、「手の高さ」に陶酔するのは何だろうか。「精神」とか「こころ」を主語にして考えることができる。
「精神/こころ」は、どう動くのか。
三連目で、この詩は大きく転換する。人間にとっての「手」は、鳥ならば「翼」。「鳥の手がある それはわたしの翼より/白く軽い」。青柳は、そう比較している。しかし「白く/軽い」では「視覚」と「触覚」である。鳥は翼(手)をつかって飛ぶことができる。高く高く飛ぶことができる。人間は「手」をつかって飛ぶことはできないが、「精神/こころ」をつかって高く飛ぶことができる。「鳥の翼」が「手」ならば、「人間の精神/こころ」は「翼」なのだ。
そう考えると「恋」とは「精神/こころ」の飛翔(こころの手=翼をつかって高く飛翔する)である。そして、そのとき「手」は同時に「(恋)文」をしたためる。ことばによって、精神/こころは強くなり、その飛翔の高さを獲得する。
しかし、青柳は、それに陶酔してしまわない。最終連、「手の高さ」「空の高さ」が出てくる。「地」が登場し「星」が登場する。すべてに「ずれ」があることが、陶酔を誘うのである。認識が陶酔をつくりだすと言いなおしてもいい。
*
昆虫の惑星 徳永孝
遠く宇宙からまず見えるのは
青く輝く一面の水
近づいていくと陸地には緑の草原や森
きのこやこけも
さらに近づくと
多くの動くものたち
昆虫だ!
多様な形 生態
変態するもの しないもの
空を飛び 地をはい 跳ねる
枯葉の下 土の中にもぐり水に泳ぐ
かれらに交じって
空高く飛ぶ鳥
地表にうごめき走る両生類 は虫類 ほ乳類
水中には軟体動物 きょく皮動物 魚類
それらを蝕むような
黄土色に広がる砂漠 人間が変えた地
灰色 白 黒 茶色の地
立ち並ぶ 石 木材 金属の構造物 人間の住む所
時と共に広がってゆく
侵食する異物
ゾンビ化する地帯
昆虫の王国はいつまでつづくのだろうか?
徳永の詩は、宇宙から地球へ、地上へ、そしてそこに生きる小さなものへと視線を向かわせる。そして、その昆虫のすむ地上から、視線をもういちど拡大していく。最終連の「時と共に」は、徳永の視線か空間的なものだけではなく時間的なものを含んでいることを告げている。
地球(自然)の破壊には人間の営為(時間をかけた働きかけ)が影響している。それを「昆虫の王国はいつまでつづくのだろうか?」と昆虫の視線から告発する。いつまでもつづいてほしいという願望が、問いの形で動いている。
ここにも「主語」の交代があるといえる。ことばのなかで(詩のなかで)、主語は交錯して動くとき、世界は広がる。
*
三月の中旬 池田清子
ユキヤナギの 白い 自由さ
レンギョウの 黄色い 自由さ
ムスカリの むらさきの
地をはう たくましさ
私も仲間に入れてくれない
私の たくさんの無力も一緒に
アジサイの若い葉
桜のつぼみは
まだ がまんしている
「白い 自由さ」「黄色い 自由さ」とことばをつないで、そのつぎ「むらさきの」を引き継ぐことばは「自由さ」ではなく「たくましさ」。つづけて読むと「そうか、自由」とは「たくましさ」のことなのか、という感じがしてくる。途中に「地をはう」があるのだけれど、そのことばをはさむことで「たくましさ」がより強くなっている。「地をはう」には何か困難というか、否定的なニュアンスもあるが、それを「たくましさ」ととらえなおすとき、その力があるからこそ「自由」もまた強くなるだという印象が強くなる。
これは二連目の「無力」と交錯する。さらに三連目の「がまんしている」とも交錯する。「地をはう」「無力」「がまんしている(する)」ということばは、「自由」とは相いれないものかもしれないが、そのことが逆に「自由」へのあこがれを強いものにする。
花は何種類もある。同じように、一人の人間のなかにある可能性もいくつもある。それは、いまは「無力」に見えるかもしれない。でも、それが「無力」だとしても、消えてしまっているわけではない。消えずに残っているしぶとさがある。それは「自由」への「つぼみ」なのだろう。