詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇161)Obra, Joaquín Lloréns

2022-04-10 17:30:02 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns Técnica. Hierro 53x13x20 S

El espacio dentro de la escultura y el espacio fuera de la escultura.
Son intercambiables en función del ángulo de visión.
Se abre y se cierra.
O es una pajarera para pájaros invisibles?
Quién llama desde el interior de la pajarera?
Quién responde desde fuera de la pajarera?
Me gustaría ser un pajarito que entra y sale de esta escultura.

彫刻の内部の空間と、彫刻の外部の空間。
それは、見る角度によって入れ代わる。
開いたり、閉じたり。
あるいはこれは、目に見えない小鳥のための巣箱だろうか。
巣箱のなかから呼ぶのはだれ?
巣箱の外から答えるのはだれ?
私は小鳥になって、この彫刻の中に入ったり、外に出たりしてみたい。

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野沢啓「ツェラン、詩の命脈の尽きる場所」

2022-04-10 11:43:27 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「ツェラン、詩の命脈の尽きる場所」(「未来」607、2022年04月01日発行)

 野沢啓「ツェラン、詩の命脈の尽きる場所」には「言語暗喩論のフィールドワーク」という副題がついている。ツェランの「トートナウベルク」(谷口博史訳)を引用しながら論を展開している。その論の展開の過程でハイデガーやデリダが引用されている。
 
アルニカ、矢車草
井戸からの飲物、その上には
星の賽、

山小屋の
なかで、

記念帳に書かれた
(私の名の前には
どんな名が記されていたのか?)、
この記念帳のなかに、
今日、期待をもって、
書かれた一行。
思考する者から
心へと
到来するはずの
ことば、

森のコケ、平らにされず、
オルキスまたオルキス、まばらに、

酸味、あとになって、旅の途上で、
はっきりと、

私たちを運ぶ男は
それに耳を傾け、

小沼地のなか
丸太の
道をなかば進み、

湿り気、
とても。

 野沢は、「この詩は実際にあったツェランのハイデガー山荘の訪問という事実に依拠している」と書いた上で、こう書く。

ここには断片的な事実の痕跡が見られるとはいうものの、じつは肝腎なことはなにひとつ書かれていないことがこの詩のポイントなのである。

 でも「肝腎なこと」というのは、だれにとって? ツェランにとって? ハイデガーにとって? それとも野沢にとって?
 私には、野沢にとって、としか思えない。ひとはだれでも、ひとそれぞれの「意味/問題」を生きている。その「意味/問題」によって「肝腎なこと」というものは違う。ひとはだれでも、そのひとにとって「肝腎なこと」を書く。アルニカ(ことは、花だろうか)、矢車草があった。山小屋(山荘)へ行った。記念帳に自分の生を書いた。それはツェランにとって「肝腎なこと」ではないのか。「肝腎なこと」だけが書かれているのではないのか。
 私は詩を読むとき(あるいは、ほかのことばを読むとき)、そこには、そのひとの「肝腎なこと」が書かれていると思って読む。ただし、それが読んでいる私にとって「肝腎なこと」ではないとき、つまり私の生きている「意味」とは無関係だと感じるとき、ここには「肝腎なこと」は書かれていないと判断する。つまり、それは私(谷内)にとっては「肝腎なこと/関心のあること」ではない、という意味である。このひとは一生懸命書いているが、私は、そのことには関心がない。「肝腎なこと/意味/問題」がどこかで重なり合わないとき、書かれていることばに対して何か書いてみようという気持ちにはならない。

 「肝腎なこと」とは、何なのか。
 野沢は、こうつづけている。

あるいは何かがわかるように書かれていないことによってある重大な問題が暗示されている、と言ってもいい。その意味では或る状況のなにかに置かれたことばへの期待された〈到来〉とその不在が主題となっている、じつはおそろしい思考(の対立)が隠された詩であるかもしれない。すべてのことばがその期待された〈到来〉とその不在を示す暗喩になっているとさえ言うことができるかもしれない。

 ここでは複数の「肝腎なこと」が書かれている。いちばんわかりやすいのは「暗喩」である。野沢にとっては「暗喩」が「肝腎なこと(野沢の関心/意味の中心)」である。野沢は、ツェランのこの詩が「暗喩」そのものであるという論を展開したいのである。もうひとつ「肝腎なこと」というのは「暗喩」の前に書かれた「期待された〈到来〉とその不在」である。これは何のことかといえば、ツェランはハイデガーに「あることとば」を期待していたが、そのことばはハイデガーからは聞くことができなかった、である。「期待」だけが「宙づり」にされたのである。そして、この「宙づり」のままの「存在」のありよう(存在形式)が、たとえば「アルニカ、矢車草」というような、ことばになって存在しているのである。(野沢の書いていることを先取りして書いてしまうと、そういうことになる、と思う。)
 この「宙づり」状態のことばを「暗喩」への入り口と野沢は読んでいる。「示す」ということばは、ひとつの方向性をあらわしていると私は判断しているので、ここでは「暗喩」そのものではなく「暗喩への入り口」と判断しておく。(これは、私の論の展開のための仮説。)
 そして、もしそうだとしたら、それはどうして「肝腎なこと」ではないのだろうか。「入り口」さえあれば、そこから先は、どう進むかわからないが進んで行ける。「入り口」が見つからなくて困るというのが現実であり、詩は、「入り口」を提示するものであって、「解決策(答え)」を提示するものではないだろう。「入り口」だけ提示するからこそ、それは「暗喩」なのであり、「答え」を明示すれば「暗喩」ではなくなるだろう。そう考えれば「アルニカ、矢車草」はツェランにとって「肝腎なこと」であり、この「肝腎なこと」(肝腎なことば)こそハイデガーに読ませたかった、突きつけたかったのではないのか。

 野沢は、しかし、そうは考えていない。野沢は、もうひとつ「肝腎なこと」があると考えている。ハイデガーとナチスの関係であり、ハイデガーとユダヤ人との関係であり、ハイデガーがナチスの被害者であるツェランに対して、何を語るか、それが「肝腎なこと」なのだ。逆に言えば「何を語らなかったか」。それはさらに別なことばで言えば、ハイデガーはツェランに対して「何を語るべきだったか」。
 このことは「ツェランはハイデガーに何を期待したのか」という章で語られている。いろいろなことが書かれているが、私なりに「要約」していえば「赦しを求めることば」ということになる。ツェランはハイデガーに「赦しを求めることば」を期待した。ナチスに協力してしまった。間違っていた。赦してほしい。そういうことばを期待したが、ハイデガーは沈黙した。他のことは語ったかもしれないが、赦しに関しては沈黙した。
 そのために、ツェランのことばは、「和解」という「意味」にたどりつけなかった(とは、野沢は書いていないかもしれないが、私は、そういうふうに「要約」した。つまり「誤読」した。)
 そして、「意味」にたどりつけなかったことばはどうなったかということを、野沢は、最後にこう語っている。

 「トートナウベルク」という詩は意識の乱れがことばのかたちとして定着され、そのことばの散乱こそがツェランの最終的に言いたかったことの暗喩となっているのであり、その伝えがたさの暗喩として彫琢されたものなのである。

 非常にすっきりとまとまっている「結論」だと一瞬感じる。でも、私は、この野沢の論の展開は展開として理解したつもりだけれど、疑問も残る。
 最初に書いていた「肝腎なこと」は「ツェランの最終的に言いたかったこと」と言いなおされていると私は判断するが、では、その「ツェランの最終的に言いたかったこと」とは何? ハイデガーが沈黙しているということ? ツェランが失望したということ? ツェランはハイデガーに赦しを求めることばを期待したということ? その全部? でも、そうだとしたら、そうはっきり書かなかった理由は? ツェランが「散文」になれていなかったから? 「散文」で書くよりも、詩の方が「最終的に言いたかったこと」が明確になると確信したから?
 でもね……。
 こんなふうに書いてしまうと、野沢がこれまで書こうとしてきたことと違っていない? 詩のことばを「散文文脈」のなかでとらえなおし「意味」を探るということを拒否し、詩のことばの自律性(自立性)を暗喩ということばで定義しようとしていたのではなかったのか。「散文文脈」と対比する形で詩をとらえることを拒否していたのではなかったのか。
 私は、そういう「文脈」でおいては、野沢の論理には賛成である。
 「散文文脈」とは独立したもの、「散文文脈」に優先するもの、言いなおすと「散文文脈」にならないものこそが、「暗喩/詩」ある。ツェランのこの詩で言えば、ハイデガーとナチスの関係、それに対するツェランの「思い」、いわゆる「社会的な主張/肝腎なこと」を超越したも、超越することで世界を逆に明らかにする存在としてのことばが詩(暗喩)である。たとえば「アルニカ、矢車草」としか呼べない、そこにあるものこそが「暗喩」であり「詩」である。「アルニカ、矢車草」へと「身分け=言分け」していくことが「詩」である。
 でも。
 なぜ、ツェランの詩を語るとき、「社会的な散文文脈」のなかで、ツェランのことばを理解しようとするのか、そのことがわからない。別なことばで言うと、野沢がここで書いた「解釈」は、ふつうに書かれている「詩=比喩論」と、どこが違うの? 多くの「解説」は、たいてい、詩のことばの背景にある「事実(ここで言えば、ツェランのハイデガー山荘訪問との対話)」をもとに、ことばの全体をつかみなおすというもの。そして、その「事実」をもとに作者の「意図(主張)」を探るというもの。
 いったい、ふつうに理解されているツェランの解釈/読解と、野沢の転換した論の、どこに違いがあるのだろうか。そして、違いがあるとして、その違いを明確にするために、野沢は「暗喩」ということばはどうつかわれているのか。私には、さっぱりわからなかった。

 「暗喩論」とは関係ないのだが、野沢は「編集後記」でロシアのウクライナ侵攻について、こう書いている。

それにしてもNATOはいったい何をしているのか。ヨーロッパは天然ガスをロシアから大量に供給されており、息の根を止められるのではないかとの懸念もあり、さらにヨーロッパ全体を巻き込む世界戦争への懼れからウクライナを見殺しにしていると言われても仕方のない対応ぶりです。

 野沢がこの文章を書いたときがいつなのかわからないが、野沢はNATOに何を期待しているのだろうか。NATOのウクライナへの出兵だろうか。NATOは野沢にとって、どういう存在なのだろう。
 私は、ロシアのウクライナ侵攻には絶対反対だが、だからといってNATOの軍事力で問題を解決すればいいという考えには与できない。だいたいワルシャワ条約機構が解体したのに、なぜNATOは拡大し続けたのか。その狙いはいったいなんだったのか。いま世界で起きているのは、単純な軍事衝突ではない、領土問題ではないと思う。たとえ領土問題だとしても、それはNATOが決定権をもっている問題でもないとも思う。
 「国連は何をしているか」ではなく「NATOはいったい何をしているのか」という論の展開に、私は、恐怖を覚えた。世界の平和を決定するのはNATOなのか。私は、それを疑っている。野沢のようにNATOを信頼していない。

 

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