石毛拓郎『ガリバーの牛に』(6)(紫陽社、2022年06月01日発行)
6篇目「獄中の木橋」。
だが 腑に落ちない×××点もある
あの時 十三歳の少年は
哀しみの荒野にいて
それも 身ひとつで
なによりも 手ぶらであった
突然「×××」が出てくる。それは、
いまだ 腑に落ちない×××面もある
いまだ 腑に落ちない×××事がある
最期で 唯一の×××証しとなってしまった
殺人を悔いる×××更改ではなかったか。
と繰り返される。この「×××」は何なのか。それは、私には理解できない。だからつまずいてしまう。
しかし。
ここから考えるのである。もし、伏せ字でなかったら、私はこの詩に書かれていることが理解できるか。そもそも、理解とは何なのか。
この詩には、他の詩にあるような「副題」や「注釈」がない。だから、タイトルの「木橋」や、途中に出てくる「死刑執行」ということばから、この詩は永山事件、永山則夫について書いているのだと思うが、永山が事件を起こしたとき、彼は「十三歳の少年」ではなかった。しかし、石毛は「十三歳の少年」のころから書き起こしている。
書きながら「腑に落ちない」と感じている。
「木橋」は永山則夫の小説である。私は読んだことがない。その小説には、きっと「十三歳の少年」が登場するのだろう。永山が少年のときに体験したことも書かれているのだろう。それを読みながら「腑に落ちない」と石毛は感じている。「腑に落ちない」と書かずにはいられない。
納得したいのだ。
この「納得したい」という欲望は、なかなかやっかいである。
たとえば、石毛は永山則夫の行動を「納得したい」と思っているが、私は特に「納得したい」とは思わない。そういう事件があったなあ、そういう人がいたなあ、というところでとまってしまう。なかには、殺人事件を起こしたひとのことなど「納得」する必要はない、という人もいるかもしれない。私には関係ない、ですべてが解決してしまうひとの方が多いだろう。なぜ、殺人事件を起こしたひとのことを理解しないといけないのか。
「腑に落ちない」と言っている石毛の態度、そして、この詩こそ、「腑に落ちない」ということになる。
きっと、ここからが問題なのだ。
社会(世界)には、多くの人間がいる。そして、その多くの人は、それぞれに苦悩を抱えている。苦悩の多くは、たぶん「腑に落ちない」ということに起因している。言いなおせば、この世の中は「腑に落ちない」ことが絡み合って動いている。「腑に落ちない」を抱えたまま、人は生きている。その「腑に落ちない」ことを隠しきれずに、ひとの行動は、ときどき乱れる。これを、ひとはときどき「狂気」と呼ぶ。
それは何が原因なのか。どうすれば、その「腑に落ちない」の絡み合った世の中を、きちんと消化できるのか。(「腑に落ちる」ということばはないが、それはあえていえば「完全消化」だろうか。「腑に落ちない」は消化できない、である。)「狂気」に陥らずに、どうやって生き延びて行けるか。
どこへ行っても
憐憫の瓦礫が 目をふさぐ
塹壕のどん底から
樹木の高みへと
逃げる術など 思いもよらなかった
狂気のせつなさ
雪が しぐれてくる
手ぶらの狂暴が
熱くささやいた
「腑に落ちない」を抱えて生きることはできない。それは、なんらかの形で発散しなければいけない。
---マクシム、どうだ、
青空を見ようじゃないか
と「肉体」を解放する方法を教えてくれる「友」もいない。そういう「システム」も社会には存在しない。ただ、「肉体」が取り残される。非情な雪が降っている。しぐれている。自然は、あるいは、非情は、過酷である。でも、なぜか、その非情に、人間はさそわれてしまう。もし、灼熱の太陽ならば、「冷たくささやく」だろうか。
何か、この、撞着語めいたことばが「腑に落ちる」のはなぜなのだろうか。
「狂気のせつなさ/雪が しぐれてくる/手ぶらの狂暴が」
冷たくささやいた
だったら、石毛の詩は「腑に落ちない」。「雪が、狂暴になれ」と「熱く」ささやいているからこそ、「腑に落ちる」。
この数行がとても美しいのは、石毛がこの部分で永山に共感している、つまり、永山の行動を「腑に落ちる」と納得しているからだろう。
「腑に落ちる」、強く納得するとは、「矛盾」を含んだ拮抗が、そのまま存在するときなんだろうなあ。激しく抵抗する矛盾にであったとき、それを消化できる肉体があるかどうかが、とても重要になる。肉体がないときは、それを補完する「システム(社会)」が必要になるのだが……ということを書いていたら、脱線してしまうなあ。だから、それは保留して……。
奇妙な言い方だが、石毛は「木橋」を読みながら、そこに「事実」が書いてあることは理解できたが、ときどき、その「事実」には「絶対矛盾(撞着語)」のようなものがないと感じたのではないのか。ある部分は納得できる、しかしよく納得できないところもある。それは永山についてだけではない。
殺人を悔いる×××更改ではなかったか。
この最終行の「更改」は「法」の更改を問題にしているのだと思う。「法」には「撞着」があってはいけない。「撞着語」による法律というものは存在しない。「撞着」を許す「法」では、「法」ではなくなる。
と書くと、これから書くことと矛盾してしまうが、「腑に落ちない」ことを見つめながら、「腑に落ちない」ことをかかえこみながら、その「腑に落ちない」とつきあいつづけることが、たぶん、生きることなのだ。
その「腑に落ちない」に出会ったとき、たとえば、魯迅は「腑に落ちない」を抱えている人間の側に立つ。「腑に落ちない」と狂暴になる人間の側に立ち、そこから「腑に落ちない」と訴えている人間の視線を動かし、社会を見ていく。見えているものと、見えていないものがある。それを、えぐりだす。答えはない。ただ、その行為、過程だけがある。
石毛の繰り返す「腑に落ちない」は、そんなことを考えさせてくれる。