詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鍋島幹夫『帰りたい庭』

2022-10-06 21:09:35 | 詩集

鍋島幹夫『帰りたい庭』(書肆侃侃房、2022年07月20日発行)

 鍋島幹夫『帰りたい庭』は遺稿詩集。
 私は鍋島幹夫に二度会ったことがある。最初は「nobady あるいは浮かぶ人」という作品のなかに出てくる柴田基孝が、まだ柴田基典だったころ、柴田が引き合わせてくれた。大濠公園にあるレストランで昼食を食べながら、であった。「ここのパンはうまいんだ」と柴田がいい、三人とも(個別にだが)パンを選んだ。しかし、なぜか、鍋島にはご飯(ライス)が出てきた。このとき鍋島は、黙ってご飯を食べた。「パンがうまいのに」と柴田は、もう一度言った。「私もパンを注文しました」とウェイターに一言言えば交換してくれるのに、それをしない。とても静かな人だった。それしか私は覚えていない。それ以外、何を話したか、私は何も覚えていない。私は、なぜか奇妙なことだけを覚えている人間なのかもしれない。二度目は、どこで会ったのか、だれが一緒にいたのか、まったくわからない。
 なぜ、こんなことを書いたかというと。
 「帰りたい庭」に、こんな行がある。

子供たちの顔の上をすべっていく
草色の雲
この解像途中の あるいは 接続をやめた残像 みたいなものは
回線の向こう岸に見る 村々や校舎への 敵意のなごりだ

 これは鍋島の意識かというと、そうとは言い切れない。すぐ「という人もいるが/それはちがうと思います」という行がつづくからだが、逆に、否定の形で印象づけようとしているとも言える。「意味」は、いつでも自由に変更できるものだからである。
 私が、この部分を引いたのは、そこに「解像(途中)」「接続(をやめた残像)」ということばがあるからだ。
 あらゆる現実は、ひとそれぞれの「意味」に従って「解像」される。そして、その「解像」というのは、何と「接続」するかによって違ってくる。鍋島は、そういうことを考えていたし、そういう「ことばの操作」を詩と考えていたのだと感じるからだ。
 これは柴田のことばの運動にも似ているが、ただ「解像」も「接続」も、ことばの選択は違うね。
 脱線したが「接続」は「切断」と切っても切れない関係にある。何かと接続するときは、他方でそれまでの接続を切断しないとできないときがあるからだ。その「切断」は「食卓」のなかで、こうつかわれている。
             
葉っぱ一枚で 世界はさえぎることができる
しかし 葉の裏に描かれた夏の回路は
ことごとく 切断されるであろう

 ここには、同時に「回線」(「nobady」)に通じる「回路」ということばがある。「回路」は何かと何かを「接続」ものである。「接続」することで「解像」が進む。したがって、「解像」への「回路」に「接続」できなかったものは、「残像」として「切断(接続をやめた)」ものの先に取り残される。(なくなりはしない。きっと「解像」のための「現像液」のようなものだろう。)
 「解像」は「ジャガイモ畑を越えて」にあらわれる。

見渡すかぎり乾いた土--解像度は良好。

 しかし、これは、唐突でわかりにくいね。だから、鍋島は、二連目でこう言い直している。

蛍光色に光る目の中を、ネズミに追われて方向を変え、畑を越え、葉
裏沿いにのびていく一本の道。急に立ちはだかる陽炎の三叉路で、淡
色の枠に囲まれた謎が解かれる。

 「謎を解く」。これが「解像する」ということにつながる。
 すべてのことばは、切断と接続を繰り返し、あたらしいことばの回路をつくることで、そこに新しい世界像を浮かび上がらせる。謎に満ちた世界を、「解像する」。
 では。
 その「解像された世界」(解像)は、わかりやすいか。そうとは言えない。何かがわかるが、同時に何かがわからないものとして残る。残像にも、深い「意味」がある。
 「雪玉ともち」は、このことを「童話」めいた「寓話」として語っているが、ちょっと「意味」が強すぎるかもしれない。
 「犀を見た日」を引いておく。この詩集のなかでは、私はこの詩がいちばん好きだ。

白い山が動いた
砂の柱が歩いた
動けなかった
夏の日の正午
だれもいない檻の前で

母の乳房がかたい
祖母が揉みしだく
動けなかった
夏の日の昼下がり
女だけの家の中

熱い乳を捨てに行く
乳は谷を白く染めた
じっと見ていた
熱い熱い夏の日
水の中を動く犀

 「解像」されたのは「犀」か。それとも「母の乳房」か。「残像」はどれか。谷を染めて流れる白い乳の柱か。「夏の日の正午」は「夏の日の昼下がり」へ、さらに「熱い熱い夏の日」と「回路」の描写を変えていく。
 パンではなく、ご飯を食べた鍋島(これは残像か)を思い出すように、何年かたって、私が思い出すことばは、いったいどれだろうと想像してみる。

 

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Estoy loco por espana(番外篇205)Obra, Javier Messia

2022-10-06 10:24:39 | estoy loco por espana

obra de Javier Messia "lapsus"

La luna se ha puesto en el mar.
La luz de la luna permanece sobre el mar.

Me has dejado.
En mi cuerpo, tu deseo permanece.

La memoria es cruel.
La memoria es amable.

La luna está en el mar, pero el mar busca la luna.
Tú estás en mí, pero yo te busco.

月は海に沈んだ。
海の上には、月の光が残っている。

君は、私から去って行った。
私の肉体には、君の欲望が残っている。

記憶は残酷だ。
記憶はやさしい。

海のなかに月があるのに、海は月を探している。
私の中に君がいるのに、私は君を探している。

*

El "lapsus" de Javier.
Es difícil de distinguir en la foto, pero creo que el cuadrado dorado es convexo. (Analogía de otras obras).
Esas plazas son ligeramente diferentes. Hay cuatro filas una al lado de la otra, pero son ligeramente diferentes cuando se comparan la parte superior y la inferior, o la izquierda y la derecha.
Me gustaría llamar a esto una "gradación de formas".
Esto se combina con la gradación del color del azul profundo.
La rareza en este punto es interesante.
El centro del gradiente del azul tiene luz.
Al contrario, la gradación del pan de oro es brillante en la izquierda, la derecha y la parte superior. Y, el centro y la inferior carecen de claridad de forma y color.
Cuando veo estos cambios (gradaciones), ¿en qué me baso?
¿El color más oscuro o más brillante del azul? ¿El color claro u oscuro del oro? ¿O el cambio de forma?
Hay cosas que intentan mantener su existencia actual, y hay cosas que intentan abandonar su existencia actual y cambiar.
Este movimiento, lo me parece hermoso. Siento que quiero verlo cada vez más.
Lo que acabo de escribir sigue siendo conceptual. Cuando este concepto cambie de forma y encuentre otra palabra que no sea "bello", será el momento en el que pueda decir que realmente he encontrado esta obra.
No basta con ver la foto, verla por internet. Las palabras no se convertirán en ideas a menos que vea realmente esta obra con mis propios ojos.
Me gustaría ir a ver esta obra.


Javierの「lapsus」。
写真ではわかりにくいが、金箔を張った四角の部分は、凸になっていると思う。(他の作品からの類推)
その四角は、少しずつ違う。横に四列並んでいるが、上下を比較してみても、左右を比較してみても、微妙に違う。
これを「形のグラデーション」と呼んでみたい。
これに群青の色のグラデーションが組み合わされる。
このときの変かがおもしろい。
群青のグラデーションは中央が明るい。
金箔のグラデーションは、左右と上部は明るい。しかし、中央と下部は形も色も明瞭さを欠いている。
この変化(グラデーション)を見るとき、私は何を基準にしているのか。
群青の暗い色か、明るい色か。金色の明るい色か、暗い色か。あるいは形の変化か。
いまの存在を維持しようとするものと、いまの存在を捨てて変化していこうとするものがある。
この動きを、私は、美しいと感じる。もっともっと見ていたいと感じる。
いま私が書いたことは、まだまだ概念的だ。この概念が姿をかえ、「美しい」という以外のことばに出会ったとき、それがこの作品と本当に出会ったと言えるときだろう。
それは写真ではダメだ。やはり、実際に、この作品を肉眼で見ないかぎり、ことばは思想に変わらない。
ぜひ、見に行きたい作品だ。

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