高橋睦郎『狂はば如何に』(角川書店、2022年10月11日発行)
高橋睦郎『狂はば如何に』は歌集。タイトルは、「自選五首」のなかの、
八十路(やそぢ)はた九十路(ここのそじ)越え百(もも)とせの峠路(たむけぢ)に立ち狂はば如何に
からとっている。
私は、この歌を読みながら(他の歌の場合もそうだが)、非常に困ってしまう。「文字(漢字)」と「音」の連絡がつかない。高橋は、私とはまったく違う「漢字と音」のつながりを生きている。これは、簡単に言い直せば、「教養の違い」と私の無知が否定されるだけのことなのだが。しかし、それだけではない、とも思う。私は「教養がない」とか「無知」とか呼ばれることが苦にならない。だから、高橋が書いている漢字、その読み方を知らなくても、そしてそれを指摘されても、別にどうとも感じないのである。「反知性主義」とは、何人かから、そして何度も言われたが、別に苦にならない。多くのひとが読んでいるらしい「教養本」を読まなければ、とも思わない。
では、なぜ高橋の歌の前で私は困惑するするのか。
言い直しというよりも、繰り返しなってしまうと思うが、漢字(文字)と音の関係が、どうも私には落ち着かない。私はことばを「音」というものから覚えたが、つまり文字(漢字)を覚え、理解し始めたのは、「音」としてのことばを動かせるようになってからだ。音があって、そのあと、文字がくる。これは、誰でもそうだと思う。高橋だって、書いたり読んだりする前はただ話していたのだと思う。
だから問題は、文字(漢字)を覚えた後のことになる。私はいまでも、音を繰り返し聞かないと、そのことばが覚えられない。文字を何度読んでも、何が書いてあるかわからない。でも、高橋は、私の想像では、あるときからこの関係が逆転しているのではないだろうか。まず「文字(漢字)」を通してことばをつかみとる。そのあとで、ことばを「音」として肉体にしみこませる。
こんなことを、こんなふうに抽象的に書いてもしようがないので、書き直すと。
「やそじ(ぢ)」は聞いたことがある。八十だ。だが「ここのそじ(ぢ)」は聞いたことがない。だからわからない。しかし「九十路」を見ると「あ、九十のことか」と気がつく。でも、その瞬間、私は「ここのそじ(ぢ)」を忘れている。音を忘れて、「文字(漢字)」から「意味」をつかみ取っている。というのは、正しい書き方ではない。
この歌に触れたとき「九十路」という「漢字(文字)」から、私は高橋は「九十歳」のことを言っていると理解する。しかし、そのとき「音」が聞こえていないのだ。「ここのそじ(ぢ)」はあとから「読む」。つまり、「漢字(文字)」と「音」が同時に存在知るわけではなく、「音」はあとからやってきて、それがすぐには覚えられない。これが、私には苦しい。
で。
そういう風に感じながら高橋の歌を読み続けると、高橋は、「音」ではなく「漢字(文字)」で短歌をつくっているのではないのか、と感じるのである。
これは、短歌だけに限らない。俳句や現代詩でも同じだ。そして、詩よりも、俳句、短歌を読むときに、その印象が強くなる。「音」を動かして世界をつくっているというよりも、「文字」を動かして世界をつくっている、という印象がする。「そうか、高橋は、この文字(漢字)をつかいたかったのか」と思うのである。この「音」、この「音の変化」を表現したくてことばを動かしている、とは、私には感じられないのである。
それがいいことか悪いことかは、わからない。ただ、私は、そこに私と高橋との間にある、どうしても共有できない何かを感じてしまう。
そして、ここから飛躍してしまうのだが、その高橋の「文字(漢字)」との交流を、私は「死」との交流と感じてしまうのだ。生きている人間の発する「音」と交流しているというよりも、死んでしまったひとの残した「文字(漢字)」と交流していると感じ、何か、不気味に感じる。
何年か前、私は高橋と一度だけ会ったことがある。(高橋は、そのことを覚えていない、とある機会に私信で教えてくれた。)そのとき私は高橋の詩の朗読を聞いたのだが、それは私にはやはり「死の声」に聞こえた。言い直すと、絶対に変わることのない「意味」を選びとって残した「声」に聞こえた。高橋のことばは、それを引用はできても、剽窃し、私のことばのなかに組み込むことはできない絶対的な何かを持っている。高橋のことばを理解するためには、私は死ななければならない。そういうことを感じさせる、絶対的不動性。それが不気味である。
しかし、この不気味さを感じているひとは、少ない。それはたぶん、私が「魂」ということばをつかわないのと関係している。「魂」は、多くのひとがつかう。(私もひとのまねをして何回かつかってみたことがあるが、なじめず、いまは他人のことばを引用するときくらいしか、つかわない。私は「魂」が存在するとは考えることができない。見たことがないし、触ったこともない。)「魂」は「肉体は死んでも魂は残る」というように「死」と関係している。私にとっては「魂」とは「死」である。それは、絶対に体験することのできない何かである。
高橋は、こんなふうにつかっている。(高橋は「旧字体」で書いているのだが、私のワープロは旧字体を持たないので流通している漢字で引用する。正しい表記は、歌集で確認してください。)
偶(たまたま)に成りし肉体(からだ)に入り棲みし霊魂(たましひ)てふも微塵集成
偶体に棲まふ偶魂彼もなほ生きてしあれば狂ふことあり
「偶体」「偶魂」はどう読むのか、私にはわからない。だが「たまたま存在した(偶然生まれてきた)体」「たまたまやってきた(肉体に入り込んだ)魂」という意味だろうと思う。この「魂」と「肉体」の関係は「偶に成りし肉体に入り棲みし霊魂」なのだから、「肉体が存在し、そこに魂が入ってきた」、つまり「肉体が先、魂があと」という形で人間が存在すると高橋がとらえていると理解できる。しかし、その一方で、魂が肉体に入り込むためには、魂は魂で肉体より先に存在していなければならないかもしれない。魂は肉体が生まれてくるのを待って、そのなかに入り込むのだとすれば、魂が肉体よりも先に存在しなければならない。そして、魂が「死んだ人間から分離したもの」と仮定するなら、魂は生まれてくる肉体より先に存在することになる。魂が肉体に入ってくるのではなく、「死」が肉体に入ってくる。さらに魂が生き続けるためには、肉体は死につづけなければならない、とも言えるかもしれない。
そう考えたとき、私は、最初に考えた問題に戻っていこうとしていることがわかる。
高橋の「ことばの肉体」のなかに、「ことばの死(死んだひとの残したことば、古典)=魂」が入り込んできて、高橋の「ことばの肉体」を動かす。そこで動いているのは「高橋のことばの肉体」であると同時に、その中心には「魂=死んだ人から離脱した不滅の文字」が動いている。この「不滅のもの」の動きに、私は、おののく。それは、私が触れてはいけないもの、という気がする。
さて。
では「狂」とは何なのか。
鞭打たるる駑馬に号泣街上に狂を発せりフリドリヒ・ニイチェ
「狂」は生きているニイチェの肉体から飛び出していこうとする魂の運動のことだろう。ニイチェの肉体の中の魂(死)は、鞭打たれる馬の肉体のなかに入り込もうとしている。その姿が、他人から見れば「狂気」に見える、ということだろう。魂は、その入り込んだ肉体が死ぬのを待って、肉体を離脱するのが普通のあり方だ。それが死んだ肉体ではなく、生きた肉体を離れようとする。そのとき「狂」が生まれる。
しかし。
もし、この私のことばの運動が正しければ、「ことばの表現」とは「肉体」から離れて存在する。高橋のことばと、高橋の肉体は別のものである。そして、そのことばというのもが、もし、魂そのものだとするならば、詩が(ことばが)書かれるとき、その書き手の肉体はいつも「狂」と直面している。もし、肉体が「狂」と直面していないなら、表現されたことばは「魂」には成りきっていないという問題が起きる。たぶん「狂」に耐えられる肉体は少ない。だから、ぎりぎりのせめぎあいのなかで、「魂」に似たものが表現として存在するのだろう。高橋のことばの運動が非常に強固であるのは、その「魂」が「死者のもの=古典」であること通じているからかもしれない。
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