詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇211)Obra, Javier Messia

2022-10-12 11:50:32 | estoy loco por espana

obra de Javier Messia


Hay orden y hay desorden que lo traiciona.
O hay una unidad que sustituye el desorden por el orden.
Lo que escribo es contradictorio.
Pero hay cosas que sólo puedo decirse de forma contradictoria.
¿Son las dos piezas una, o son piezas individuales que se unen?
¿Se han encontrado o están separados?
Lo mismo ocurre dentro de una misma obra.
Se dividen en secciones superiores e inferiores.
O la parte superior e inferior se encuentran.
¿El objeto central separa la parte superior de la inferior?
¿O conectan las dos?
Aunque se esté dividiendo de arriba a abajo, o quizás porque algo intenta dividirselo, se está llamando con fuerza a los demás.
Y al escuchar sus voces, ¿la división/conexión central emite una voz que ahoga las voces superiores e inferiores, o es un silencio que se traga las voces superiores e inferiores?
Mis palabras están perturbadas a más no poder.

 

Javier Messiaの作品。
秩序と、それを裏切る乱れがある。
あるいは乱れを秩序にかえる統一がある。
私が書いていることは、矛盾している。
しかし、矛盾した形でしか言えないことがある。
この作品は、ふたつでひとつなのか、それともそれぞれ個別の作品がよりそってひとつになっているのか。
ふたつは出会ったのか、それともわかれたのか。
ひとつの作品のなかにも同じことが起きている。
上下にわかれている。
あるいは上下が出会っている。
中央にあるものは、上下をわけているのか。
あるいは上下を結びつけているのか。
たとえ、それが上下をわけるものであったとしても、あるいはわけようとしているからこそなのか、強く呼び掛け合っている。
また、その声を聞きながら、中央の分断/接続が発するのは、上下の声をかき消す声か、あるいは上下の声を飲み込む沈黙か。
私のことばは、どこまでも乱れていく。

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Estoy loco por espana(番外篇210)Obra, Joaquín Llorens

2022-10-12 11:36:56 | estoy loco por espana

obra de Joaquín Llorens

 

Una obra de arte es una cosa extraña. A veces me la parecen diferentes, aunque sean la misma obra.
Aquí hay dos fotos de la misma obra desde diferentes ángulos. En una, Joaquín está al laddo de obra.
Ambas son sofisticadas y hermosas, pero para mí, la que tiene a Joaquín a su lado me la parece más "alegre". La una sin Joaquín, me le parece un poco solitaria. Hay una sensación de tensión.
Lo mismo ocurre con sus otras obras.
Cuando Joaquín está cerca de la obra, se puede oír la obra presumiendo: "Este es el hombre que me hizo, es mi padre". Es como si la obra se jactara de que "yo hice a Joaquín, soy padre de Joaquín". Su estudio está lleno de esas voces. Quizá sea por estas voces por lo que me gusta tanto su estudio. ¡Ellos viven juntos! Es la familia. 
En el caso de otras artistas y sus obras, me escucha al autor decir: "Yo hice esta obra".
La obra y la artista tienen una relación íntima, pero en el caso de la obra de Joaquín ésta es especialmente intensa. Y lo sentí durante mi viaje en junio. Me acordé de esto cuando vi esta foto.

 

芸術作品は不思議だ。同じ作品なのに、違って見えることがある。
2枚の写真。少し角度が違うが同じ作品。一枚にはJoaquínも写っている。
どちらも洗練された美しさがありますが、私には、隣にいるホアキンの方が陽気な印象を受けます。ホアキンのいない方は、ちょっと寂しい感じ。緊張感がある。
ホアキンの他の作品についても同じことが言える。
ホアキンが近くにいると、「この人が私を作ってくれたんだ」と自慢する作品が聞こえてくる。まるで「私がホアキンを作った」と自慢しているような感じ。彼のスタジオには、そんな声があふれている。私が彼のスタジオを気に入っているのは、こうした声のせいかもしれない。
他のアーティストや作品の場合、作者が「この作品は私が作りました」と言う声を聞く。逆は、ない。
作品と作家は親密な関係にあるが、ホアキンの作品の場合、それは特に強い。6月の旅行でそれを実感した。この写真を見たとき、それを思い出した。

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閻連科『太陽が死んだ日』

2022-10-12 10:01:45 | その他(音楽、小説etc)

 

閻連科『太陽が死んだ日』(泉京鹿・谷川毅=訳)(河出書房新社、2022年09月30日発行)

 閻連科『太陽が死んだ日』は、夢のなかで夢をみるような小説である。それは「さっきの夢から覚めていた瞬間は、夢の中の一節にすぎなかったように。」(31ページ)と書かれている。夢から覚めたということさえも夢なのだ。
 こういう小説では、ストーリーのことを書いても、私には意味はないように思う。夢なのだから、ストーリーはあっても、それは「便宜上」のものにすぎない。何かを語るには、どうしてもストーリーが必要というだけのことであり、重要なのはストーリーではなく、「語り方」だと思うからだ。「語り方」そのものが「夢」なのだ。
 私は中国語が読めない。私が読んだのは、泉京鹿、谷川毅というふたりの訳なので、ふたりのことばの関係もよくわからない。これまで私が読んできた閻連科の小説は谷川毅の訳。今回、泉京鹿がくわわった理由はわからない。わからないことだらけなのだが、気付いたことを書いておく。
 この小説には、いくつかの「文体」がからみあっている。「前の方(前書き?)」にすでに特徴があらわれているが、「巻一」から。

 今度はどこから話そうか。
 今度はここから話そう。                    (15ページ)
 
 短い、同じことばが繰り返される。この書き出しは、まったく同じではないが、ほとんど同じ。しかも、それは「改行」されて繰り返される。

 どこの家もみんな夢遊するようになった。
 誰も彼もが夢遊するようになった。
 天下も世界もみんなが夢遊するようになった。          (23ページ)

 これは、「書き方(語り方)」として不経済だと思う。つまり。たぶん、こういう「作文」を学校の課題で書いたら、「もっと簡単に、繰り返されることばは省略したら」と注意されるだろう。でも、閻連科は整理しない。閻連科が書いているのは「ストーリー」ではないからだ。では、何を書いているのか。
 ことばは、加速する。
 そのことを書いている。「家」から「誰も彼も」と家の外へ飛び出し、それが「天下/世界」へと加速しながら拡大する。加速しないことには拡大できない。
 それは23ページへ戻って、次の部分。書き出しの二行の、すぐそのあとにつづく。

 それは太陰暦の六月、太陽暦では七月の三伏天、旧暦六月六日の龍袍節、天気は大地の骨が折れて割けるほどに暑かった。大地の皮膚の産毛がすっかり灰になるほどに。枝は枯れ、葉は萎びてしまった。果実は落ち、花は散ってしまった。毛虫は空中でぶらぶらしているうちに、ちょっとずつミイラの粉末になってしまった。

 「暑い」描写が積み重ねられる。ひとつに焦点が絞られるわけではない。加速し、移動しながら、拡大する。描写は、何よりもことばの運動なのだ。そこには、「静止」ということがない。
 こんな美しい描写もある。

この年の小麦はいい出来だった。麦の粒は大豆のように膨らんでいる。粒が割けて中から小麦粉が出てきてしまうほどに膨らんでいる。こぼれ落ちる。黄金の麦の穂が路面に落ち、穂も粒も人を躓かせた。                    (17ページ)

 どこまでつづいていくのだ、と私は笑い出してしまう。少し、ガルシア・マルケスを思い出したりする。書き始めると、ことばが加速し、新しい世界を開いていく。ことばを動かすまでは存在しなかった世界が、ことばのスピードにひきずられて、歪み、そこから隠れていた世界が姿をあらわす感じだ。
 夢とは、まさに、こういう感じだ。なんでもないものが、動き始めると、止まらない。次々に変形していく。加速しすぎたために、もう、元の世界には戻れない。新しい世界を突ききっていくしかない。

 だからみんな急いで刈り入れる。
 我先にと麦を刈り入れ、我先にと脱穀する。           (17ページ)

 こういう加速には、ことばが重複することが大事なのだ。重複があるから、同じ「ストーリー」だとわかる。重複しなければ、わけのわからない世界になってしまう。閻連科にとって、重複は加速するスピードにとっての必然であり、重複はそこに「ことばの肉体」があることの証明でもある。人間の「肉体」は成長して、変化しても、同一の人間であることの「証拠」のようなものだが、閻連科の重複は、それに似ている。
 この加速は、あるときは「句読点」をなくしてしまう。主人公(?)の少年を、盗賊が次の襲撃場所を案内させるために連れていくシーンだ。(217、218、219ページ)長いので、そのはじまりの部分。

おまえのお父さんはおじさんを憎んでておまえのお父さんは善良で優しくて邵大成がおまえのおじさんだからどうしようもなくてだからいつも嫁さんに死人の出た家の花輪には紙の花を多めに付けさせたしおまえのお母さんに死装束の布はいいものを使い死装束の針と糸は密に施して死装束の刺繍がきれいにしっかりできるようにさせた(略)

 ここでも重複することばが「しりとり」のように「ストーリー」をつなげさせている。この部分は、いわば、この小説の「ストーリーの過去」である。他人が見た過去というのは、こんなふうに切れ目なくつづいているのかもしれない。それに対して、「いま」は、そういう切れ目を切断しながら、加速し、乱雑に、爆発、暴走していくものなのだろう。「いま」は過去ではなく「未来」というまだ決まっていないもののなかへ動いていく。

やってきたのは未来と過去の時間と歴史だった。         (287ページ)

 「いま」は書いている「ことば」の運動のなかにしかない。「過去」にひきもどされないためには、「未来」をつかむためには、ただことばの運動のなかで、ことばそのものになって、動くしかないのである。
 この小説には、「閻連科」が出てくるし、ときどきゴシック体の文字もあり、そのゴシック体の部分には、

この様子は、閻連科の小説の『日月年』のどこかのようだった。  (330ページ)

 という「補足」がついている。ふいにあらわれる「過去」をとりこみながら、それを突き破っていく。それは、「未来」へ進めば進むほど、そこに「過去」が噴出してくるという「歴史」そのもののようにもみえる。「未来」へ進むことは「過去」へたどりつくことでもある。だから、閻連科の世界は「神話」に似ている。「寓話」ではなく、現代の「神話」なのだと、思う。
 最初に引用した「暑い」描写からわかるように、それは「無意味」なくらい「人情」というものから遠い。人間ではなく、「神」が見ているのだ。この非情さ(同情しない)潔さは、「神」としか言いようがない。この小説は、ある意味では、とても残酷な世界(殺戮)を描いているのだが、それが「ギリシャ悲劇」のように感動を引き起こすのは、それが「人情」ではなく「非情」の世界だからだろう。

 ノーベル賞がことばの運動に影響を与えるわけではないが、今年、閻連科がノーベル賞をとれなかったのは、残念だ。ミラン・クンデラにも受賞してほしいなあ、と私は思っている。多くの人が、小説を読むきっかけになる。

 

 

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