青柳俊哉「空間」、木谷明「その前へ」、杉恵美子「夜がきたら」、永田アオ「秋の音符」、池田清子「清涼飲料水」、徳永孝「我がまま」、(朝日カルチャーセンター、2022年10月03日)
受講生の作品。
空間 青柳俊哉
少女の中に 大きな時間があり
初めに 蝶のかげがめばえていた
太陽の照りつける白昼に
茫茫と伸びる夏草の中に立ち 身体が
かげの中へ 傾いていくのを自覚した
成長していく空間の 胸の奥から
微かな蝶の光がうまれ 翼からそよぐ風で
体は明るい翅脈の線に透けていった
少女は風にふかれる太陽
羽のかげに写る ひまわりやゆりの野原だった
心を超えていくものの法悦の中で
花へ遡る 蝶の空間だった
少女の中に無限の時間、空間があふれている。少女の成長を温かく見守っているのを感じる。時空間が大きい。五連目が美しい。「茫茫」という書き方がいい、と好評だったが、一方で「法悦」ということばが宗教的で気にかかる、わかりにくいという声があった。青柳は、少女から蝶へ、蝶から花へと固体(個体)の生と死を超えていく過程をあらわしたかったと語った。すでに「時間」「空間」ということばがあるから、それ以外のことばをつかいたかったのだと思うが、私も、「法悦」は観念的すぎると思った。ただ、前にも「自覚」というかなり観念的なことばがあるから、「脈絡」(文体)としては破綻していない。どこまで観念的なことばを詩に書き込むかはむずかしい。観念のことばだけで構成する詩を書いてみるのもおもしろいかもしれない。
私は「蝶のかげがめばえ」から「蝶の光がうまれ」という変化を、もっと深く、そこに焦点をあてるようにして書いたらおもしろいだろうなあ、と思った。
*
その前へ 木谷 明
ずっとどこかの落書きで
もう見つけられないのかと
思っていた あのやさしい落書きが
目の前に
好きすぎて一瞬で閉じてしまった
さよならできたわけじゃない
振り向く理由は
こんな背表紙見返し一ページ目にあるなんて
まさかの自己裏切りも甚だしく
最終行の「自己裏切り」に意見が集中した。一言で言えば「わかりにくい」のだが、わかりにくいからこそ、読み方がわかれる。それが詩のおもしろいところだと思う。「落書き」とどういう関係にあるのか。誰が書いた落書きなのか。作者が書いたのか、別のひとが書いたのか、作者だけれど別のひとが書いたと想定しているのか。「やさしい落書き」の「やさしい」をどう読むか。これは、いわゆる「行間を読む」ということにつながるのだが、こういうことは「答え」を出さなくていい。というか、作者の「意図」と読んだひとの感想は別のものだから、作者の意図と読者の感想が重なれば、それが正しいというわけでもない。つまり、「解答」というものはない、ただ、ことばを読んで、読者があれこれ思うことができればいいのだと思う。
そういう揺れ動きのなかで、受講生のひとりが「こんな背表紙見返し一ページ目にあるなんて」に注目し、これがおもしろいと言った。たぶん、この一行が全体のなかで、非常に具体的だからだろう。「背表紙見返し一ページ目」。これを見間違える人はいない。どの本にでもあるが、その「事実」がゆるぎない。たしかに、この一行は、この詩の「事実」を支えている。その対極に「落書き」と「自己裏切り」がある。
「裏切り」というのは不思議なもので、裏切られてがっかりするときもあれば、裏切られて安心するときもある。ある願いが、思い通りにかなって、あまりに簡単すぎて逆に裏切られたような気持ちになるときもある。
ひとは、はらはらどきどきや、悲しみ、絶望にさえ、「手応え」のようなものを感じてしまうものなのである。だからこそ、「答え」はいらない。「答え合わせ」は詩には必要ではない。読んで、語り合って、そういう読み方もあるのか、とことばの可能性を感じ取れればそれでいい。このことばを別な形でつかってみよう、と思うようになったら、詩人に生まれ変わっていると言えるだろう。
*
夜がきたら 杉恵美子
夜がきたら蝋燭を点す
今日いちにちが揺れていて
今日 語り合った君と
今日 別れた君と
昨日から約束していた君と
私の中の今日のわたしと
このまま
草稿のままに
終わりそうな私が
ゆらゆら揺れて美しい
最終行の「美しい」をめぐって、意見がわかれた。なくても美しいがつたわる。美しいは重複にならないか。私が美しいといえることが美しい。
「草稿のままに」も、わかりにくいという意見と、「草稿のままに/終わりそうな私」がありのままの姿を書いていて、いい、という意見。「草稿のまま」を未完成ととるか、その未完成を、完成に向けて整えるのを拒むととるか。これもまた、「答え合わせ」をする必要はない。書かれている詩の世界へどこまで進んでいくか、どんなふうに入っていくかは読者の自由である。
この詩のなかには、いくつものゆらぎがある。「君」とは語り合ったのか、別れたのか、約束していたけれど合わなかったのか。それは「私/わたし」のありかたによって違ってくるだろう。「私」か「わたし」かによって、それは違ってくるかもしれない。
どんなふうに違う? それは読者が自分自身の体験と、この詩のことばをどう重ね合わせるかによって違ってくる。そして、その結果、読者がつかみとるものに「間違い」ということはない。
「意味」はそれぞれのひとが自分で生きるものだからである。
私が「講座」でやっているのは、そういうことである。百点の「答え」を出すことではなく、出てきた答えを、答えというものから解放し、自由にすることである。この詩の中に動いていることばでいえば「ゆらす」こと。
書いたひとをもゆらすようになると、とてもいい。読者の声を聞いて、「あ、私の書きたかったことは、こういうことだったのか」と作者が思ったとき、そのときこそ、詩が動いて、生きているのだ。読者にであって、新しいいのちをもって動き始める。
*
秋の音符 永田アオ
街中に音符があふれていた
子どもたちが音符にぶら下がって
遊んでいた
手のとどかない小さな子は
大きな子が抱えて
音符の先に座らせてあげたりしていた
ああ、もう秋が来てたんだ
音符に耳をあてると
トンボが羽根を開く音や
草に咲く花をわたる風の響きが
メロディの隙間から聞こえてきた
しばらくして
音符は空に帰っていった
子どもたちはもう
虹のほうへ
走り出してた
「音符」は何の比喩か。わからないけれど、絵本にしたら楽しいだろうなあ。発想がすばらしく、実際に音符が存在しているように感じる。イメージが鮮明で、そのイメージに動きがあるのがいい。
私は、「メロディの隙間から聞こえてきた」の「隙間」という音符を超えることばの動き(メタとしてのことばの動き)がとてもいいと思った。「ああ、もう秋が来てたんだ」というのは散文的な一行だが、この散文の力が、イメージというか空想を支える力になっているとも感じた。
この詩でも、最後の部分に、意見の「ゆらぎ」があった。どうして「虹」なのかということと、「走り出してた」という表現が不安定ということ。「走り出していた」の方が落ち着くという意見である。これはなかなかおもしろい。「遊んでいた」「していた」「聞こえてきた」「帰っていった」という文体のつづきで言えば、たしかに「走り出していた」である。
しかし、私は、ここは「走り出してた」と「い」がない方が「文体の拘束」から解放されていていいと思う。世界が広がっていく感じがする。子どもだけでなく、世界が見える感じがする。また「ああ、もう秋が来てたんだ」(来ていたんだ、ではない)とも響きあっていい。先に「ああ」の一行について散文的と書いたのだが、その一行には散文から少しずらす(解放する)音の工夫がされていることを気づかされる。とても微妙な技巧が隠されていることがわかる。しかし、こういう音の感じ方、音と世界の関係、文体の整合性をどう考えるかは、ひとそれぞれである。
*
清涼飲料水 池田清子
自販機の前で
母子の会話
「何飲む?」
「シュワってするの」
「それ たんさんっていうとよ」
「えっ、じゃあたんにもあると?」
きっと たんいちも知っているに違いない
母子の楽しい会話、子どもの発見が楽しい。最後の一行に、子どもの成長を感じ取っている作者の視点が生きている。オチが楽しい。
という声にまじって、朗読を聞いてはじめて意味がわかった。黙読したときはわからなかった、という声もあった。
その影響かもしれないが、講座の後、「じゃあ たんにも……」と一文字空けた方がいいだろうか、と池田から聞かれた。私は空けない方がいいと思う。「読みにくさ」も詩の魅力。特に、こういう短い詩の場合、読みにくさが読者を立ち止まらせる。そして、そのあとで、読者が、あっ、こういうことだったのかと気づく。その気づきも詩のひとつである。読む先から、すべてがわかってしまっては、詩の楽しみはない。
ぜんぜんわからない詩は困るかもしれないが、ここのところがわからないけれど、いろいろ感じる(考える)というのが楽しいと思う。
*
我がまま 徳永孝
空高く滑空する一羽の鳥
君もひとりなのかな
下の方からもう一羽が近寄ってくる
二羽は一諸になり遠くへ飛んで行く
道を歩けば
後になり先になり進む自転車の女学生達
熱心に話しながら歩く男の子のグループ
静かにゆっくりと過ぎる子供連れの男女
居酒屋では
カップル、家族、友人達らしき
それぞれのグループ
ひとりぼっちは居ない
友達って仲間って必要なの?
相手に合せる面倒くささ
理解してくれる人は欲しいけど
今日もわたしは我がままにひとり
最終連。「我がままにひとり」に共感を覚える。一人が好きというのは我がままだろうか。自己肯定でおわるところがいい。三連目「ひとりぼっちは居ない」を挟んで最終連にむすびつけるところがいい。三連目がないと最後が成り立たない、と受講生。
私は、一連目の「下の方から」という表現がとてもいいと思った。鳥を見上げるのは、下から。その下からの視線を引っ張るようにして、別の鳥が近づいていく。ここには、作者の肉体と、肉体からはじまる鳥への共感がある。ただ、それは最後の「ひとり」に結びつかない。結びつく必要はないのかもしれないが、一連目で動いた視線が、他の連では静止したまま対象を客観化している。それが「我がままにひとり」ということなのかもしれないが、私は残念に感じる。
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