詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西久代『ラベンダー狩り』

2022-10-18 21:16:01 | 詩集

大西久代『ラベンダー狩り』(七月堂、2022年10月10日発行)

 大西久代『ラベンダー狩り』の巻頭の詩「小路を」を私は二度読んだ。読み返してしまった。

高い塀とセンダンの木の実を映す放水路
との間に ひっそりとその小路はある
五月朝の光は露に濡れた花々や草を照らし
蝶々は真新しい羽根をうっとりひらく

 「うっとりひらく」につまずいたのである。蝶が羽根を開くのを大西は「うっとり」として見ていたのであり、蝶は「うっとり」羽根を開いたりしないだろう。自己陶酔して羽を開いたりしないだろう、とつまずいたのである。
 しかし、読み返してみて、大西は蝶を描写しているのではない、蝶になっているのだと気づいた。大西は蝶になってしまっているから「うっとり」と書いてしまう。
 この自他の区別のなさは、こうつづいていく。

虫取り網と籠を手に小さな兄弟の
弾む声が小路を飛び交うこともある
病に伏せる母親への贈り物
生れでる生命の輝き
もう 移り変わりの早い季節が小さな背を
飛び越えようとしている

 大西は「兄弟」にもなれば、「母親」にもなって、その小路を歩いていることがわかる。大西は目撃者ではなく、存在の「体験者」なのである。存在を体験する、そのとき、「世界」というものが出現する。
 「レモン谷から」には、こんな行がある。

レモンは惜しげもなく
実りの重さをこの手に与え
ひみつの硬い扉を開こうとする

 レモンを主語にしたこの三行は「翻訳文体」の影響かもしれないが、私は大西がレモンになっているのだと思って読んだ。レモンになった大西と、作者の大西が、真昼の光のなかで融合している。
 そんなことを思って読んでいると、「燃え上がる」は、こうはじまる。

六月の空をだれも教えたりはしないが
私がのうぜんかずらになって
咲きはじめるすべを
いつからか知ったのだ

 「私がのうぜんかずらになって」と「なる」という動詞が、ちゃんとつかわれている。この詩のしめくくりの四行。

燃やしたものをとり込んで
再生を予感する
のうぜんかずらとなった私の転変
針を含んだ口先さえ愛おしい

 「転変」をくりかえすことで、大西は自分を発見し、自分を愛することをおぼえていく。そして世界は充実する。苦しみや悲しみのなかでさえ。

 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇216)Obra, Jesus Coyto Pablo

2022-10-18 17:11:25 | estoy loco por espana

Obra de Jesus Coyto Pablo
De la serie "El delicioso mundo de un jardín" Año 1989 200x200 cm. Acrílico madera.
Con el amigo y coleccionista Joaquín Colmena. Museo "la Neomudejar"

Puede que haya visto este cuadro en el estudio de Jesús. Puede que haya visto otro cuadro. En ese momento, sentí algo de repente, pero no pude expresarlo con palabras. Ahora, mirando el cuadro en la pared (Jesus y su amigo están de pie frente a él, así que no puedo verlo entero), recuerdo la impresión que tuve entonces. Intentaré escribirlo en un poema.


この絵を、私はJesusのアトリエで見たかもしれない。私が見たのは別の絵かもしれない。そのとき、ふと何かを感じたのだが、それはことばにならなかった。いま、壁にかけられた絵を見て(画家と友人が前に立っているために、その全体は見えないが)、私は、あのときの印象を思い出した。詩に書いてみよう。

*

 En la pared del confinamiento solitario hay un cuadro que representa la pared del confinamiento solitario. La inserción dice que tiene que ir a ese confinamiento solitario para ver esa cuadro, pero no dice dónde está ese confinamiento solitario,  y añade que estas palabras no son las últimas, son las primeras. Las palabras fueron invitadas a acumularse y convertirse en un muro lleno de matices de gris, comenzando a confinar las palabras dentro de las palabras. La cuadro del confinamiento solitario en la pared del confinamiento solitario está hecha de sombras que fueron creadas naturalmente por las letras de las palabras soñadas en el confinamiento solitario. En cuanto a esta inserción, el comentario afirma que las palabras son las únicas letras legibles en el cuadro del confinamiento solitario. Esta flagrante mentira es una trampa del propio cuadro, en el que las letras y las palabras se superponen entre sí, haciéndola casi de color negro. La interpretación ha unido las palabras en algo así como un archivo de anotaciones para el poema que ha sido descartado. Fue entonces cuando vi que algunas de las palabras se movían como si trataran de escapar. Había una pequeña ventana en lo alto de la pared, en la que quedaba atrapada la sombra de un edificio más pequeño que la ventana y el cielo más pequeño que la ventana. Un día, un pájaro aún más pequeño llegó volando y cruzó el edificio y el cielo en un círculo suelto. Se alejó a un tamaño extraordinario, más allá de la pequeña ventana.

 

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