谷元益男『越冬する馬』(思潮社、2022年09月01日発行)
谷元益男『越冬する馬』のなかの「種子」。
芽を出すはずの
種子は
鍬を肩にした農夫に
踵で踏まれ
踏まれている胚芽は
土に隠れ 根を深く鎮めて
蛇のように うずくまる
種子は土で眠ることだけを
願っている
土の塊が闇と同じ重さとなり
皮に亀裂がはしるとき
わずかに のびる殻の先が
空の把手に手をかける
どこからかこぼれた種子が、踏まれながらも、やがて芽を出す。「土の塊が闇と同じ重さになり」は思考をじっくりと動かす。まるで、「種子」になった気持ちになる。「わずかに のびる殻の先が/空の把手に手をかける」は芽生えの美しさを描いていて、鮮烈である。
そうはわかっても、私は、この世界にすんなりとは入っていけない。一連目の「鍬を肩にした農夫」ということばにつまずいたままだ。いま、こういう農夫を見ることはむずかしい。「肩にした」には、実際に鍬を担いだことがある人だけがよせることのできる思いがある。そう理解すれば、なおのこと、そう思う。
農夫自体がこぼれた種子、踏みつけられる種子である。そうであるなら、こぼれた種子、芽を出した種子は、この農夫でもある。
だから、詩は、こうつづいていく。
水にうたれ
一斉に吹き出る芽
黒い水面から 顔を上げると
遠くの硬い手が
振り子のように 騒いでいる
播かれなくても
のびるしかないのだ
「遠くの硬い手」が、この段階では何の「比喩」なのかわかりかねるが、種子が延ばす手(二連目)があるなら、種子があたらしい種子をつけるとき、そこに延ばされる「手」もある、ということである。しかし、それは「遠い」し、「硬い」。
この連を、つまりふいに書かれる「遠くの硬い手」を起点にして、詩の世界は反転する。
ひとつの季節が終わると
次の時期に向かい
ひかりを帯びたものだけが生き続ける
木々は切り倒されて死ぬが
種子は あるとき地面に
陰が長くなる陽炎な日に
飛び下りる
死んだ農夫の
手には 種子が固く握られ
掘り起こした土のにおいが 辺りに
静かに広がった
やがて 種子は激しく打ち付けられる雨に
流されていった
殻を破れないものは
はじめて自分が種であったことに
気付くのだ
種子ではなく、これは種子と共に生きた農夫のことを描いていることがわかる。そして、種子は生き続けることができるかもしれないが、農夫はそうではないことがわかる。農夫の子は、かならずしも農夫になるわけではない。農夫は「種」(谷元は最後に「種子」ではなく「種」と書いている)として生きたのである。そうわかったとき、「種子/種」と「農夫」が入れ替え可能な「比喩」となって詩のなかを動いていることがわかる。
と、書いて。
私は、どうしても、つまずいてましまう。この「農夫」を私は捨ててきた。それは「種子/種」を捨ててきたということである。私は鍬を担いだこともあるし、鍬で畑や田んぼを耕したこともある。それは、私の周辺では、ごくあたりまえの生活であった。私はとても病弱な子供時代を過ごしたが、病弱だからといって、そういう仕事をしないでいいわけではなかった。(鍬で田畑を耕す仕事は、「毎日」あるわけではないのだから。)そして、こういう暮らしを捨てたのは、私だけではなかった。日本中が、それを捨てた。その「証拠」を私は、私の故郷に見ることができる。集落の戸数は半分に減り、暮らしている人は何分の一に減ったのか、もうわからない。五分の一以下に減っているはずである。そして、そこに残された人は、この詩のなかに書かれている「農夫」のように、倒れ、死んでいくしかない。あと二十年すれば、私の住んでいた集落に人はいなくなるに違いない。私の家の前には、原発事故にそなえてつくられた道路だけがつづいている。だれも通らないのに、その事故の日に備えて、道は整備され続ける。
この時代に、「種子/農夫」の悲しみを、悲しい記憶としてだけ残すということを「意味」を私はつかむことができない。共感できない。谷元は、「怒り」を感じないのか。私は、すでに私自身の集落(故郷)を捨ててしまった人間だが、どうしても「怒り」を覚えてしまう。それは「捨てる」ものに対する「怒り」であると同時に、それは「捨てられる」のではなく、古い自己を「捨ててしまわない」人間に対する「怒り」でもある。私のなかには「矛盾」があり、そのために、何もなかったかのようにして、「詩に感動した」とは書けないのである。
谷元は、いったい、だれに向けて、この詩を書いているのだろうか。
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