詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木清「人生論ノート」

2022-10-09 23:01:25 | 考える日記

「人間の条件について」(前半、254-257ページ)
本文を読む前に、まず「人間の条件」とはなにか、を考える。
人間に必要なもの。「いのち」。これがないと人間ではない。「いのち」の反対のものは「死」。

そのうえで、まず一行目に出てくる「集中」について考える。
「集中」とはどういこと? どういうときに「集中」ということばをつかうか。ここから「集める」が出てくるのだが、「集めて、何をする? 何のために集める?」ここから「形成する」も出てくる。それは「関係をつくる」ということ。
その反対は? 「ばらばら」「つながりがない」(関係がない)。ここから「分解」「要素」ということばが関係してくる。(分解、要素は「関係がある」)

似たことばと、反対のことば。
そのなかで、いちばんむずかしいのは一回しか出てこないことば。
何かを形成する、何かと何かを関係づけて、ひとつのものにする。そのとき大切なのは?
三木清は「秩序」ということばをつかっている。
これを探し出せるかどうか。

私といっしょに三木清を読んでいるイタリアの高校生は、これが、できた。
いやあ、びっくりした。
何かを集めて、形をつくる(形成する)、つまり、ものとものとの関係をつくる。しかし、関係自体は、どういうときでも「できる」。できてしまう。
たとえば、スニーカーの上にチョコレートを置き、そのうえにキャベツを置く。これは「現代芸術」なら表現としてありうるかもしれないが、日常では「ばらばら」(でたらめ)。だから、、、、「ばらばら」「でたらめ」にならないために、何かが必要。「区別」が必要。靴は「履物」であり、「食べ物」ではない、チョコレートと野菜は「食べ物」だけれど、ひとつは加工品、ひとつは加工されていない。で、こういう「区別」をほかのことばで言えるか。
「秩序」ということばを三木清はつかっている。「関係」がうまく「形成」されるためには「秩序」が必要である。

「秩序」さえあればいいのか、というと、これはまた別の問題だが。
それにしても、キーワードのひとつとして「秩序」を、この文章のなかから見つけ出し、それを全体と関連づけることができるというのは、たいへんな能力だと思う。

しかし、三木清の文章はおもしろいねえ。
書き出しの「どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。」わかります?  「浮いている」? この「比喩」めいた表現はいったいなんなのか。書き出しだけに、すぐには意味がわからない。
これがしばらくすると「海」と「泡沫」の関係として語られ、その「海」と「泡沫」は次の段落で「無数のもの」と「要素」と言い直される。「泡沫」は海の一部(要素)であり、海がなければ泡沫はないが、泡沫がなければ海もない。その「泡沫」としての人間。それが「浮いている」のなかに隠れている。人間は泡沫のようなものだ、という比喩だね。それが書き出しにもどってくる。

この「往復」のなかに、

「生命とは虚無を掻き集める力である。それは虚無からの形成力である。虚無を掻き集めて形作られたものは虚無ではない。虚無と人間とは死と生のように異なっている。しかし虚無は人間の条件である。」

こういうかっこいい文章が出てくる。ここでの「虚無」を「死」と読み替えると、三木清が「死について」で書いていたことが、くっきりとよみがえってくる。
こういうときの「興奮」、覚えていますか? 昔読んだことが、突然、「いま」を支えてくれる。わからなかったものが(わかったつもりになっていたことが)、より鮮明にわかるようになる。その喜び。
こういうことは、私は、イタリアの青年(少年と言ってもいいかもしれない)といっしょに楽しんでいる。
自分が若がえっていくのがわかる。

私は、本のなかの活字よりも、書き込みの方が多いんじゃないかと思うくらい書き込みをする。書き込みをすることで、ことばを整理するのだが、イタリアの青年は、書き込みなしでこれをやってしまう。いつか、私の方が、彼から日本語を習うときがくるかもしれない。 

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇209)Obra, Laura Iniesta

2022-10-09 14:56:03 | estoy loco por espana

obra de Laura Iniesta, Mixed media on paper, private collection.

¿Es esta obra de Laura uno cuadro o dos cuadros?
Por supuesto, dos cuadros son un conjunto, pero ¿por qué Laura no los pintó en un palel desde el principio?

Me gusta pensar en ello de esta manera. Me siento así.
Laura pintó primero el cuadro de la izquierda. Pero durante el proceso de pintura, quiso ampliar el mundo más a la derecha.
Y no es tanto "un deseo de visual" como de "un deseo de físico". La mano que dibuja, el cuerpo, ellos desean pintar más, hacia más el lado derecho. Laura no puede controlar la fuerza y la energía de la mano que sostiene el pincel para pintura.  Lo "físico" traiciona lo "visual". El "movimiento físico" tiene prioridad sobre la "visión". Lo que siento en la obra de Laura es el poder del deseo del cuerpo de pintar.

Este cuadro ya ha desbordado dos hojas de papel. Un tercer mundo está esperando a ser dibujado encima del cuadro de la derecha.

Laura no puede dejar de dibujar. Sus cuadros serán cada vez más grandes.
Esto se transmite a través de esta foto, pero será aún más claro cuando realmente, podria saber, me enfrente al cuadro. 
¿Cuándo podré ver la obra de Laura con mis propios ojos?


このLauraの作品は、1枚なのか、2枚なのか。
もちろん2枚で一組の絵なのだが、では、Lauraは、なぜ最初から一続きの絵として描かなかったのか。

私は、こう考えたいのだ。私は、こう感じているのだ。
Lauraは最初左の絵を描いた。しかし、描いている途中で右側にもっと世界を広げたくなった。
そして、それは「視覚」の世界というよりも、「肉体の運動」の世界である。描いている手が、からだが、右側にはみだしていく。絵筆を持った手の力、エネルギーを抑制できない。「肉体」が「視覚」を裏切る。「肉体の運動」が「視覚」よりも優先する。
Lauraの作品から私が感じるのは、その描きたいという肉体の力だ。
それは、この絵をすでにはみだしている。次の作品へとつながっている。

Lauraは描くことをやめられないのだ。彼女の絵は、どんどん巨大になっていくだろう。それは写真を通してからも伝わるが、実際に、絵に直面するともっとはっきりするだろう。つまり、私は圧倒されてしまうだろう。
いつ、私自身の目でLauraの作品を見ることができるだろうか。

 

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