詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」

2022-10-19 17:10:36 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」(「イリプスⅢ」1、2022年10月10日発行)

 野沢啓「言語隠喩論のたたかい――時評的に1」のなかに、吉本隆明のことばを批判する形で論を展開している部分がある。野沢は、吉本の「表現された言葉は指示表出と自己表出の織物だ」という定義を批判している。ことばは「自己表出」と「指示表出」の二分法で分類できるのか、と批判している。何が問題なのか。「言語表現の問題を意識の外部表出としてしかとらえていない」(34ページ)と指摘した上で、それを説明し直している。

(吉本の論には)ことばそれ自体の創造性、書き手の意識を超えた言語の創造性という観点がまったく見失なわれている。(略)わたしは『言語隠喩論』のなかで言語そのものの創造的隠喩性、とりわけ詩の言語が無意識的、半意識的なことばの創出過程をもっているという側面を確認するとともに、そこに意識の統御を超えた言語の本質的創造性をみた。(34ページ)

 「ことばそれ自体の創造性」「書き手の意識を超えた言語の創造性」という表現がある。これは同じものなのか、別のものなのか、野沢が意図していることが、私にはよくわからない。ことばは「話し手/書き手」がいて、はじめて存在する。「ひとりごと」や「頭の中だけでのことばの運動」も、「聞き手/読み手」がいないだけであって、その言語を動かす人間がいる。ことばが存在するとき、そこに同時に存在してしまう人間の存在を、野沢がどうとらえているか、よくわからない。
 野沢は「無意識的、半意識的なことばの創出過程」とも書いているが、このときの「無意識」「半意識」というのは「人間の無意識、半意識」だろう。ことばは、ことば自体では単独では存在せず、かならずそこに「人間」がいる。
 辞書の中のことば、意味の定義の羅列にしても、それは、そのことばが単独で存在しているのではなく、それをつかったひと、それを定義したひとがいる。
 野沢は、たしか『言語隠喩論』のなかで、ことばの発生(?)を、古代人が雷をみたときの驚きとともに書いていた。人間がいたから、「ことば」があったのであって、驚愕のことば(声)があって、そのあとに人間が生まれてきたわけではないだろう。私は、なぜ、野沢が、あの奇妙な「例」を持ち出してきたのか、よくわからない。ある部分がなければ、(そのあとに、はじめて海にであったときの、奇妙な例もあったが)、私は、これほど野沢の『言語隠喩論』には関心を持たなかったと思う。

 人間とことばの関係について補足するものかどうか判断できないが、野沢は、先の部分を補足する形で(補足ととらえたのは、もう一度、野沢が吉本の名前を出して書いているからである)、こう言い直している。

吉本のようにどこまでも人間的意識の表出一辺倒ではなく、言語創造の結果そのものが人間の意識に先行し、意識がはじめて形成されるという逆転現象をもたらしていることをこそ見るべきなのである。その言語的特性をとりわけ詩のことばの問題として明確に取り出すことをつうじて、さらに言語そのものの本質的創造性、すなわち創造的隠喩性を明確にしたのがわたしの『言語隠喩論』なのである。(34ページ)

 「人間的表出」「人間の意識」という表現がある。このときの野沢の「人間」の定義は、どういうものなのか。生物が進化し、さまざまな生きものに分化し、生まれてきた段階の「人間」は、野沢の「定義」のなかに含まれているか。私には、含まれているとは思えない。雷をはじめて体験した人間(ことばを知らない人間)とか、海をはじめてみた人間(海という名詞を知らない人間)が、野沢のここでの「人間の定義」のなかに含まれているとは思えない。少なくとも、ここには、そういう人間は含まれていないと思う。
 ここに書かれている人間は、ことばの存在を知っている人間である。ここに書かれている「人間」とは「話して/書き手」である。つまり、ことばがすでに存在することを知っている人間である。
 その私の「推定(推測)」にしたがって、「言語創造の結果そのものが人間の意識に先行し、意識がはじめて形成されるという逆転現象」を読み直せば、つまり野沢が説明していない部分を私のことばで補って読み直せば、こうなる。
 言語創造の結果(つまり、作品)そのものが、書き手(とりえあず、書き手としておく)の意識に先行し、書かれたことば(作品)によって書き手の意識がはじめて形成されるという逆転現象、というのはたしかにある。
 書き手はだれでも「結論」を知っていて書くわけではない。書きながら、何かわからないものを追いかけていくと、そこから自分でも予想もしなかったものが動き出し、その動き出したことばによって自分自身の意識を知るということはある。あ、これが、私の書きたかったことだったのか、とあとからわかる。あるいは書いた後で、私はこんなことを書いていたのかと驚くことがある。それは、まるで、私(書き手)の意識に先行し、ことばが私の意識(書き手の意識)をリードし、育てていくような形で、意識が形成されるということになるだろう。
 でも、そのためには、まず、使用可能なことばが先にないといけないのだ。そして、その使用可能なことばというのは、いつでもといえるかどうかわからないが、いま生きている人間にとっては、すでに存在しているものである。
 これを「読み手」の側から言い直すと、こうなる。ある作品(すでに書き手が書いたもの)を読んでいると、つまり先行して存在する書き手の意識がふくまれることばを追いかけていると、それにあわせて読み手の意識も形成され、その結果として、あ、これこそが私の言いたかったことだと気づくことがある。それは、自分の意識を形成するという明確な自覚のないまま、書き手のことばによって(すでに存在することばによって)、読み手の意識が形成されることでもある。
 野沢が「人間」とおおざっぱにくくっているもの、その「定義」を明確にしないと、野沢の論理はつかみ所がないように私には思える。野沢は人間の存在を省略して、ことばの隠喩と言っているように思える。あることばが隠喩になりうるのは、そのことばを隠喩ではない形でつかう人間が存在することが前提であり、そのことばをつかう人間がいるということは、ことばがすでに同時に存在することを意味する。

 また、野沢は、この部分で「言語そのものの本質的創造性、すなわち創造的暗喩性を明確にした」と書いているのだが、ここに書かれている「意味」が、私にはさっぱりわからない。いったい、いつ「言語そのもの」が何かを「創出」しただろうか。どこに「言語そのものが創出した表現」というものがあるだろうか。どのようなことば(野沢が評価している詩人のことば)も、かならずそこには詩人(書き手)というものが存在する。
 私は、ことばは自立している。ことばはことば自身の肉体をもっていると考えるが、そのとき私が想定しているのは「ことばの歴史(古典、とは言い切れないのだが、とりあえず古典と書いておく)」である。読み手としての人間は先行する「古典」に触れる。そして、ことばの動かし方を知る。その、書き手に先行する「ことばの肉体」の動きは、あとからことばを書いていく書き手の「ことばの肉体」に働きかける。ときには、書き手が「古典のことば」が見落としていた「動き」を引き出すということもある。触発されて「ことばの肉体」が思いがけない方向に展開することもある。新しいことばの動きに見えても、それはまったくの「新しいことば」ではなく、新しい動きなのである。「ことばの肉体」が「ことばの肉体」に触れながら、新しい「ことばの肉体の運動」にめざめる。

 こういうことは、いくら書いてもきりがないのだが。
 吉本がらみで、野沢は、こんな批判も展開している。中城ふみ子の短歌を巡る批評である。

 どうして〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉が〈いづこにわれの血縁あらむ〉の隠喩(暗喩)となり、後者だけが《作品の思想的な意味》だと言えるのか。吉本の解釈は独断でしかない。(35ページ)

 ここで、野沢は不思議なことをしている。吉本は「暗喩」ということばをつかっている。省略したが34ページでは、野沢は吉本の書いている全文を引用しており、そこには「暗喩」と書かれているのだが、野沢はそれをそのままつかわず「隠喩」と書き直した上で、丸括弧で(隠喩)と補うように書いている。
 「隠喩」は野沢独自の思想を含んだことばであり、それと吉本の「暗喩」を区別したたいのかもしれない。つまり吉本の書いているのは「隠喩」と呼ぶべきものであり、「暗喩」と呼ぶべきものではないということなのかもしれないが、これは乱暴なことばの展開だろう。なぜ、こんなことを書いているか、わからない。「隠喩」と「暗喩」を区別したいのなら、もっと明確に、どこがどう違うのか。吉本の「暗喩」という用語と、野沢の「隠喩」という用語のつかいわけ、どうつかいわけるべきかを、明確にしないといけないだろう。すでに野沢はそういうことを書いているのかもしれないが、私は、記憶力が悪いので思い出せない。
 さらに野沢は吉本の「解釈」を「独断」と断定している。では、それを「独断」と断定するときの、野沢の解釈は? これが何度読んでもわからない。吉本の解釈が独断なのか、野沢の書かれていない解釈が独断ではないのか、いったい、どうやって判断すればいいのか。
 「暗喩」「比喩」の問題は、とても難しい。吉本は〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉が〈いづこにわれの血縁あらむ〉の暗喩というが、逆に〈いづこにわれの血縁あらむ〉が〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉の暗喩かもしれない。吉本が〈肉うすき軟骨の冷ゆる日よ〉を暗喩と感じたのは、「われの血縁」というものはだれでも確認ができるが(厳密にはだれでも、とはいえないが、多くのひとは確認できるが)、「肉うすき軟骨」というものにはなじみがなく、それは何?と思ったからかもしれない。さらに、どの軟骨か具体的に書かれていないものが「冷える」というのも理解するのがなかなかむずかしい。なじみのないことば(日常的ではない表現)だから「暗喩」と感じたのかもしれない。これは読み手の感じ方次第だから、どうとでも「後出しジャンケン」のようにいうことはできるだろう。どう語ろうと「独断」なのであり、批評(解釈)は「独断」だからおもしろい。学校の試験のように、100点をもらうために、「先生」の「解釈」に合わせる必要はない。
 野沢は、吉本の解釈について「強引な解釈をどうして吉本が繰り出してきたのか、誰にも説明はできないだろう」と書いているが、野沢が野沢自身の解釈を書かず、どうして吉本の解釈を「独断」と断定できたのか、「誰にも説明はできないだろう」と思う。もし、中城の短歌に対する「定説としての解釈」があるのなら、それはそれで、吉本の解釈と対比させ、ここが「独断」という根拠を示すべきだろう。

 野沢は、今回の論の末尾に、こう書いている。

 吉本の〈自己表出〉(と〈指示表出〉)という概念は言語の創造的隠喩性という視点から査問に付さなければならない。(35ページ)

 私は、ここでも「書き手」ということばが必要だと思う。「言語の創造的隠喩性」というよりも、「書き手の創造的」言語活動が生み出す「隠喩」の魅力と読みたい。「書き手」なしに「ことば」の存在を考えることは、私にはできない。

 


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