唐作桂子『出会う日』(左右社、2022年10月11日発行)
唐作桂子『出会う日』の「根も葉も」で、私は立ち止まる。
根も葉もなく
たっている
暴力をふるった ゆめの
なまめいたたかぶり
ひふをかきむしりつづける
かわいた音で目がさめた
もともと
根や葉などなかったのだろう
「根も葉もない」は「根も葉もないうわさ」のようにつかう。「うわさ」は「うわさが立つ」というふうにつかう。だから「根も葉もなく/たっている」を読むと、「根も葉もないうわさが立っている」を連想するのだが、唐作が書いているのは「うわさ」だろうか。「うわさ」を超えるもののように私には感じられる。つまり「うわさ」を補ってしまうと、もう、それは詩ではなくなる。単なる「報告」になる。
「うわさ」よりも、「うわさ」を生み出してしまう「欲望/本能」のようなものが「たっている」。そこにあるように感じられる。
「うわさ」を生み出すものは、たぶん「ねたみ」だろうなあ。「うわさ」を立てることで、うわさの主役を陥れたい。この他人を陥れたいという欲望は、いろんな形であらわれる。たとえば「暴力」もそうなのだろう。相手より強いところを見せる。相手に被害を与える。そうすることで自分を相対的に「高める」。それは「なめまいたたかぶり」かもしれないなあ。一方で、それが「正しい」とは主張できなくて、何かが自分で自分の「ひふをかきむしる」ようなことも起きる。
どんなものにも「二面性」がある。「二面性」があるから、それは「人」という漢字のように、差さえあって「立っている」のか。
唐作は、そんなことは書いていないかもしれない。しかし、私は、そういうことを書いていると勝手に「誤読」する。「もともと/根や葉などなかったのだろう」が、そういうことを思わせる。「ある」のはどうすることもできない「欲望」だけである。ことばにすることのできない「欲望」。それは生き抜くための「本能」かもしれない。
そう思って、そこに「ある」ものを見つめると……。
たっている
根も葉もてんでに
黄色くなりどす青くなり
ふれるふれる
中肉中背の肩に
虫が喰っている
「てんで」に、がいいなあ。ほんとうはどこかでつながりがあるのかもしれないが、その「つながり」をはっきりとつかみきれない。それが「欲望」「本能」だろう。制御できない。それは、制御を乗り越えて、勝手に生きていく。それは「はつらつ」にではない。最終連で書いてあるように。
妙に、重くて、粘っこくて、二度読み返した。
でも、それが何なのか、よくわからない。わからなくてもいいのかもしれない。「青猫はうなる」の三連目。
うなじに湿気がまとわりつく
ふおんなかんじ
前線とか中央とかは
観念なのであり、
あ、これかな、と思った。「中肉中背の肩」のかわりに「うなじ」が出てきているが、唐作は、「肉体」を「比喩」の根底に据えている感じがある。それがいい。で、そこから「ふおんなかんじ」と言ったあと「前線とか中央とかは/観念なのであり、」と飛躍するのだが、この「観念」というのは、「根も葉もない」の根や葉なのかもしれないとおもった。「根も葉もない」は「根拠がない」という意味だとおもうが、「観念」なんかも、やっぱり「根拠」ではない、と私は思う。それは作り上げた「うわさ」のようなものだ。「実体」がない。「中肉中背の肩」でも湿気がまとわりつく「肩」でもない。
ね このにおい
このにおい
このこのにおい
このね このにおい
これは「青猫はうなる」の三連目だが、「観念」は「におい」にも似ている。「におい」は確かに存在するが、なぜか、においの中にいるとにおいに気がつかなくなる。そういう性質を持っている(と私は感じている)。「観念」もそれに似ている。出会った瞬間、その強烈さに打ちのめされるときがある。(そのまま、打ちのめされて、シンナーによったみたいに、観念におぼれて抜け出せない人もいるようだが。)でも、たいていは、慣れっこになってしまう。「脱構築って何だっけ」「実存? 古くない?」という感じ。それは「ね このにおい」と「この」をつかって、必死になって「焦点」をあてないと思い出せない類のものである。
唐作は、そういうこともつかんでいるのだな、と感じた。
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