詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案再読(27)

2021-10-21 10:32:33 |  自民党改憲草案再読

(現行憲法)
第56条
1 両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
2 両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
(改正草案)
第56条(表決及び定足数)
1 両議院の議事は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数で決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
2 両議院の議決は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければすることができない。

 第1項と第2項を入れ換えただけのようにも見えるが、かなり違う。現行憲法は、「議事を開き議決する」ということを切り離せない形で書いている。しかし、改憲草案は、これを強固に関連づけていない。議事開催の条件に「三分の一以上の出席」が書かれていない。削除されている。議事そのものは「三分の一以上の出席」がなくても開くことができる。議決は「三分の一以上の出席」を必要とすると定めているだけである。
 自民党の少数の議員だけで議会を開き、討論し、採決のときだけ野党にも出席を求める。「三分の一以上の出席」だから、「三分の一以上の出席」を獲得していれば、自民党はいつでも独断で法律をつくることができることになる。
 これは、「閣議決定=国会の議決」ということである。国会での議論がなくなるということである。議論はしないけれど、「議決」だけやり、議論をしたかのように装う。
 いまおこなわれている「形式的議論」は改憲草案の先取りである。
 質問しても、質問に答えない。最初から議論をする(法案をよりよいものにする)という姿勢がないのだ。

(現行憲法)
第57条
1 両議院の会議は、公開とする。但し、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。
2 両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるもの以外は、これを公表し、且つ一般に頒布しなければならない。
3 出席議員の五分の一以上の要求があれば、各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない。
(改正草案)
第57条(会議及び会議録の公開等)
1 両議院の会議は、公開しなければならない。ただし、出席議員の三分の二以上の多数で議決したときは、秘密会を開くことができる。
2 両議院は、各々その会議の記録を保存し、秘密会の記録の中で特に秘密を要すると認められるものを除き、これを公表し、かつ、一般に頒布しなければならない。
3 出席議員の五分の一以上の要求があるときは、各議員の表決を会議録に記載しなければならない。

 第57条のテーマはみっつある。会議の公開、議事録の公開、表決の記載(表決の公開)。「各議員の表決は、これを会議録に記載しなければならない」という現行憲法の「これを」を削除して、改憲草案は「各議員の表決を会議録に記載しなければならない」としている。「これを(これは)」という現行憲法の表現のスタイルは、何度も書くが、テーマを明確にすることにある。改憲草案は「テーマ」を見えにくくしている。テーマ隠しをしている。誰が賛成したか、誰が反対したかは、あとで大きな問題になることがある。そういう問題があるということ、予想されるということを改憲草案は隠している。

(現行憲法)
第58条
1 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
(改正草案)
第58条(役員の選任並びに議院規則及び懲罰)
1 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、並びに院内の秩序を乱した議員を懲罰することができる。ただし、議員を除名するには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。

 大きな違いは、第2項で「又、」を「並びに」と書き換えている。「又、」と「並びに」はどう違うのか。わからない。改憲草案のなかで「並びに」を探し出して点検する必要がある。
 現行憲法の「又、」は
第12条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第18条
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
 という具合につかわれている。補足条件として、反対側の視点から言いなおしている。国民の自由の権利は国民が保持しなければならない。しかし、濫用してはいけない。国民は奴隷的拘束を受けない。しかし、犯罪を置かした場合は別である。
 この「文体」に従うと、現行憲法は、「会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め」ることができる。しかし、その規律には例外がある。どんな内部規律でもきめることができるわけではない。「院内の秩序をみだした議員」に関する規律である。不問にしてはいけない。だから、「院内の秩序をみだした議員」に対しては、「懲罰することができる」ようにしておく、というのである。議員特権に対して、「枠」をはめている。
 この「又、」を「並びに」にかえるとどうなるのか。改憲草案のなかで「例文」を集めてみないとわからない。私は、すぐにはどこに「並びに」がつかわれているのか、いまは思い出すことができない。時間がなくて、調べることもできない。
 ことば(表現)を変えるからには、かならずこそに何らかの意図があると思って読まないといけない。

(現行憲法)
第59条
1 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
2 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
3 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
4 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。
(改正草案)
第59条(法律案の議決及び衆議院の優越)
1 法律案は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
2 衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
3 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
4 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

 第59条の一番大きな変更は、第3項である。「衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない」の読点「、」を削除し、改憲草案は「衆議院が両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない」にしている。現行憲法が「衆議院が、」と主語を明確にするために「、」で一端、切っている。改憲法案は主語の意識があらわれにくいようにしている。「これは」の削除と同じである。
 第4項では、改憲草案は、現行憲法を踏襲して「、」を省略していない。これは、第4項のテーマが参議院にかわっており、衆議院という主語を強調するためには「衆議院は、」とする必要があったということである。つまり、裏を返せば、改憲草案は「、」や「ことを」という表記(ことば)の存在は主語やテーマを明確にする(意識化する)ときには必要だと理解していることになる。理解しているから、必要に応じてテーマや主語をあいまいにする(意識化させないようにする)ために、「、」や「これを」を省略しているということである。
 これは小さな問題に見えるが、その小さなものが積み重なって大きな問題になる。改憲草案を読むときは、そこに注意しないといけない。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇111)Jose Enrique Melero Blazquez

2021-10-21 00:00:00 | estoy loco por espana

Jose Enrique Melero Blazquez
Colección nudos

En el momento en que vi este trabajo, recordé el "beso" de Klimt.

La forma entrelazada de la curva es erótica.

La forma redonda superior es la cara de un hombre y la inferior es la de una mujer.

El rostro del hombre se acerca desde arriba y la mujer intenta escapar del beso.

Entonces, ¿cuál es la parte cortada de la izquierda?

La mujer no solo se escapa del beso. Al contrario, invita a un hombre mientras finge escapar. Desea besarla

El hombre no está pidiendo un beso, sino que es guiado por la mujer. Un hombre está cautivado por una mujer.

El cuerpo de un hombre no es el de él, sino el de una mujer ya.

Invitado por una mujer, el cuerpo del hombre comienza a hacer estragos.

La forma redonda en la parte inferior izquierda es el pene, ya está caliente.

Entonces, ¿por qué se corta el cuerpo del hombre?

No lo sé. No lo sé, así que es divertido. El arte es que hay cosas que no entiendes.

 

見た瞬間、クリムトの「接吻」を思い出した。

曲線の絡み合う形がエロチックなのである。

上の丸い形は男の顔、下の丸い形は女の顔。男の顔が上から迫り、女は接吻を逃れようとしている。

では、左側の切断されている部分は何だろうか。

女は実は単に接吻を逃れているのではない。逃れるという形で男を誘っている。接吻を求めている。

男が接吻を求めているのではなく、女に誘導されている。女のとりこになっている。

男の体は男のものではなく、女のものなのだ。

女に誘われて、男の肉体は暴走し始めている。

左下の丸い形は男のペニスである、勃起していると見るのはうがち過ぎかもしれない。

では、なぜ、男の肉体は切断されているのか。

これは、わからない。わからないから、楽しい。わからないことがある、というのが芸術なのだ。

 

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松井ひろか『十六歳、未明の接岸』

2021-10-20 10:41:41 | 詩集

松井ひろか『十六歳、未明の接岸』(七月堂、2021年09月25日発行)

 松井ひろか『十六歳、未明の接岸』。どの詩を引用しても、何か、こころが苦しくなるところがある。音に切羽詰まったリズムがある。私はこういう切羽詰まった感じは、あるところまでは近づけるが、最後は身構えてしまう。
 「ひかりを掬う麦」はゴッホの「麦畑」を見たあとの印象。

フィンセント・ファン・ゴッホさん
うず巻く闇を抱えるあなたに
一点の暗がりもない日々があった
生涯のうちの七日間
たしかに大地を踏んでいた
芸術家としての幸福を
あなたはきちんと味わって
畢生を全うされたんですね
(そのことが後世のひとをどんなに幸せにすることか!)

 私が「切羽詰まった」という印象を受けるのは、「うず巻く」の「うず」、「一点の暗がり」の「一点」、「たしかに」、「きちんと」ということばである。「強調」がある。強調は緊張につながる。その緊張が最終的に「畢生」という非常に意味が限定されたことばに到達する。日常的にはめったにつかわないことば(私はつかったことがない)につながっていく。それだけではなく、それに「全う」ということばが追い打ちをかける。
 松井は肉体全体をつかってゴッホの「麦畑」と向き合っている。それは松井自身をゴッホに重ね合わせようとする行為、ゴッホと一体になろうとする動きに感じられる。
 何のために?
 ここが、また、問題。私が思わず身構え、身を引いてしまうところ。

(そのことが後世のひとをどんなに幸せにすることか!)

 松井のなかに訪れた、ゴッホとの一体感。ゴッホの「生涯のうちの七日間」に匹敵するような幸福感。何かを発見した喜び。それはきっと「後世のひとを幸せにする」。松井は、この瞬間、そう信じている。これは「絶対的な正しさ」を持っている。言いなおすと、こういう至福に対しては、誰も口をはさめない。それは決定的に個人的なもの、松井だけのものであり、松井だけのものであることによってのみ他人に共有されるものだからだ。私には、まだ、そういうものを受け止めるだけの力がない、と思い、私は身構えながら、そっと退く。そういうことしかできない。
 「母を産む」には、こういう二行がある。

お母さん、
私が娘でしあわせでしたか

 「麦畑」に出てきた「幸せ」は、この問いと結びついている。「麦畑」を見て苦悩するひとがいるかもしれない。それはそれで苦悩することができるという「幸せ」なのである。そうであるなら、「お母さん」も「幸せ」であると言えるし、この詩を読む私も「幸せ」と言える日が来るだろう。
 ただ、私は「母親」ではなく一読者にすぎないので、「論理的」にはそういうことを考えることができるが、どうしても肉体のなかに「緊張感(身構え)」が残ってしまう。

 


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Estoy loco por espana(番外篇110)Joaquín Llorens

2021-10-20 09:11:20 | estoy loco por espana

Obra Joaquín Lloréns Técnica. Hierro 60x21x17 C. P

Imagino uns delfines desde la línea aerodinámica,.

La madre les enseña a los niños a saltar.

 

Esa imaginación conduce a la siguiente imaginación.

 

Si Iron es la madre, Joaquín es el padre. Y el trabajo es el hijo.

De su trabajo, siempre siento el amor que se esparce.

 

流線形からイルカを思い浮かべる。

母親が子どもにジャンプを教えている。

 

その連想は、また次の連想を呼ぶ。

 

鉄が母親ならば、ホアキンは父親。そして作品は子ども。

彼の作品には、いつも広がっていく愛が感じられる。

 

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キャリー・ジョージ・フクナガ監督「007ノー・タイム・トゥ・ダイ」

2021-10-19 17:32:23 | 映画

キャリー・ジョージ・フクナガ監督「007ノー・タイム・トゥ・ダイ」(★)(2021年10月19日、中州大洋スクリーン1)

監督 キャリー・ジョージ・フクナガ 出演 ダニエル・クレイグ

 しばらく映画を見ていなかったからなのか、映画の見方を完全に忘れてしまったのかもしれないが、ぜんぜんおもしろくなかった。と、書いたら、感想がもうおしまい。
 何がおもしろくないのかなあ。イントロダクションにボンドが出てこないのが、まず、まずい。「インディー・ジョーンズ」を引き合いに出すのがテキトウかどうかわからないけれど、イントロダクションにはやっぱり主人公が出てこないと、スピード感がない。これじゃあ、長くなるだけだぞ、と思っていたら、ほんとうに長い。いつまでたっても終わらない。
 で、そのイントロダクションなのだが、なんとまあ、ボンドの「恋人」の過去の紹介。まあ、悪役組織が関係してはいるのだが、それならそうで組織に焦点を当てて描けばいいのだが、本編にはいると、なんとか生き延びた少女が大人になってボンドの恋人。イントロダクションが「二股」。おいおい。それにさらに尾ひれがついて、実は恋人は妊娠していて、ボンドは青い目の娘と出会い、過去を知る。あーあ、これじゃあ、スパイものでもアクション映画でもなくなるね。「過去」にひきずられる恋愛がテーマ。「過去」にひきずられるは、それだけではなく悪役の方も同じ。彼にも忘れられない「過去」がある。まるで「過去の悲しみ」のみせっこ。私の方がつらい人生を生きてきた。だから、生きる権利がある。そういう言い合い。
 なんとか「人間味」を出そうとしているのだろうけれど、アクション映画に人情悲劇や恋愛、そのあとの家族愛なんと関係してきたら、もうごちゃごちゃ。終わりようがない。ご都合主義そのままに、恋人と娘はミサイル攻撃(爆発)があっても安全な場所まで「ゴムボート」で避難している。その海岸で、恋人は娘を遊ばせながら、ボンドが死を覚悟していることを無線(?)で「愛してる」と最後の別れを告げる。どっちらけで、見ている私の方が死んでしまいそう。
 なんというか……。ディズニーの「家族向け映画」みたいだなあ。
 映画は果てしなく「ディズニー化」していくのかもしれない。主役は男から女へ。白人から有色人へ。007の後任も、アフリカ系の女性だったしなあ。いまさら007をアフリカ系の女性にしても、もう遅い。どこにも新しさはない。ただ、白人至上主義、マッチョ主義ではない、とむりやり自己弁護しているだけ。
 そあおりで(?)、私の大好きな俳優、クリストフ・ワルツなんか、出番がほんのちょっと。もう少し演技させて、悪人だけれど人懐っこいという矛盾した魅力をみせてほしかったなあ。体を拘束されていて、動かせるのは顔だけなんだから、もっと演じさせないとつかった意味がない。

 

 

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Estoy loco por espana(番外篇109)Joaquín Llorensの作品

2021-10-18 17:16:58 | estoy loco por espana

Otra flor

 

Ante ayer, vi una obra en forma de flor de Joaquín.
Hoy veo otra obra.

¿Es este trabajo una hierba? ¿O es un árbol? En cualquier caso, no es una flor.

Sin embargo, cuando miro la sombra, la sombra me parece una flor.

Una flor invisible a la simple vista, pero visible al corazón.

La expresión de la escultura cambia según el ángulo de visión.

Esta flor de sombra silenciosa también cambia su apariencia dependiendo del ángulo de visión y la forma en que la luz la golpea.

Me vino a la mente la palabra "otra flor".

Quiero escribir un poema usando esa palabra.

 

OTRA FLOR

 

Ese día estaba mirando una escultura abstracta

No sabia lo que estaba expresando

Entonces me dijiste

"¿Qué tipo de sombra nos muestra esta escultura?"

 

Estaba atrapado en la forma de la escultura frente a mí.

Estabas mirando la sombra sin estar atado por la escultura

Flor creada por esculturas cuando se encuentran con la luz

Estabas viendo esa hermosa illusion

 

La flor que es efímera pero que no duele

La flor que aparecen sin desaparecer

La flor que no quiere nada

La flor que llena el corazón solo con lo que se da.

 

Lo que vi ese día no es una escultura abstracta

Una idea completamente nueva creada por tus palabras

Tus palabras me llevan lejos

"Algunas cosas sólo pueden reconocerse a través de la sombra de las palabras".

 

もう一つの花

 

ホアキンの花をかたどった作品を見た。
この作品は花というよりも草だろうか。あるいは木だろうか。いずれにしても花は咲かない。
しかし、影を見ていると、影が花に見えてくる。

目には見えないけれど、こころには見える花。

この花の不思議さは彫刻の不思議さにそっくりである。

彫刻は見る角度によって表情をかえる。

この静かな影の花も見る角度、光のあたり方によって姿を変えるのだ。

「もう一つの花」ということばが浮かんだ。

そのことばをつかって詩を書いてみたい。

 

もうひとつの花

 

あの日、私は抽象的な彫刻を見ていた

何を表現しているのかわからなかった

そのとき君が言ったのだ

「この彫刻はどんな影をつくろうとしているのか」

 

私は目の前にある形にとらわれていた

君は形を離れて影を見ていた

光に出会うことで生まれる静かな影をみていた

それは出会いが生み出す花

 

はかないけれど傷つかない花
消えてもならずあらわれる花

自らは何も望まない花

与えられたものだけ心を充たす花

 

あの日、私が見たのは抽象的な彫刻ではない

君のことばがつくりだすまったく新しいイデア

君のことばは私を遠くへ連れて行く

「ことばの影を通してしか認識できないものがある」

 

 

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阿部はるみ『からすのえんどう』

2021-10-18 10:12:10 | 詩集

 

阿部はるみ『からすのえんどう』(書肆山田、2021年10月05日発行)

 阿部はるみ『からすのえんどう』は、どの詩も「正直」があふれている。だから自然とひきつけられる。阿部にしか見つけられない「発見」があったとしても、それはなんでもないことのように書かれている。つまり、「見つけた」と人に知らせるようには書かれていない。そこにこの人の「人柄」があふれている。
 たとえば、「ヤモリ」。

なんの怨みがあるわけでもないが 爬虫類が苦手だ
できることなら出会いたくない 夏の夜 玄関わき
の外壁にヤモリがはりついているのを見かけるよう
になったのは いつのころからだろう そばを通り
かかってもじっとして動かない 夜の壁の感触が気
持よいのだろうか 遅く帰って来た者も「またいた
よ」などと言った ある朝 新聞を取りに出た門の
前にヤモリが死んでいた 涼んでいたところを誰か
に踏まれたのだろう 見るとすぐに 壁にはりつい
ていた彼だと確信した 急いで部屋に戻ると白いハ
ンカチを取ってきて なぜかあたりを見まわして 
すばやくヤモリをくるんで庭の隅の馬酔木の木の下
に穴を掘って埋めた ある朝のほんの五分ほどの密
葬である 誰にも話さないことで 時おり このヤ
モリのことを思い出す

 私が思わず傍線を引いたのは「誰にも話さないことで」ということばである。詩に書いてしまえば「誰にも話さないこと」ではなくなるのだが、そういう「揚げ足取り」はしない。阿部の詩の美しいところは「誰にも話さなかったこと」が静かに語られていることである。「誰にも話さなかったこと」を語るというのは「思い出す」ということである。最後に、その「思い出す」がそっと書かれている。
 「思い出す」というのは、ある時間をもう一度生きるということである。そして、それは単に自分一人が生きるのではなく、誰かと一緒に生きるということである。だから、「誰にも話さないこと」というのは、その一緒に生きた「誰か」には話さなかったということである。詩に書いても、その詩を「一緒に生きた誰か」は読むわけではない。だから、矛盾しないのである。むしろ、そこに「正直」があるのである。
 この「正直」を裏付けることばが、この詩にはほかにもある。そのひとつ。「壁にはりついていた彼だと確信した」。ヤモリを「彼」と呼んでいる。すでに、それ以前に「夜の壁の感触が気持よいのだろうか」という具合に阿部はヤモリに感情移入している。このことばは、きっと家族に向かって言ったことがあるのだろう。だから阿部がヤモリに感情移入していることは家族には知れわたっている。それだからこそ、「またいたよ」などと家族が報告したりする。感情移入しなくてもいいヤモリ(なんといっても、「爬虫類が苦手だできることなら出会いたくない」と思っている)にさえ、ふと阿部は感情移入する。こういうことは、誰にでもあることかもしれないが、阿部は、その感情移入の変化を丁寧に描いている。そこにほんとうに「正直」があらわれている。「なぜかあたりを見まわして」には、なんというか、その「感情」をひとには見られたくないというような不思議な「味わい」がある。それこそ「誰にも話さない」(隠しておきたい)ことである。でもね、ヤモリには知ってもらいたいのだ。「密葬した」ということよりも、「なぜかあたりを見まわして」しまったということを。これは「正直」を裏付けるもうひとつのことばである。
 他人から見れば、これは、どうでもいい話である。阿部が死んでいるヤモリを、いつも見ていたヤモリだと信じて密葬する。それで世界がどうかわる? きっと、そういう反応を示す人がいると思う。
 さらに、ここに書かれていることばにどんな世界を変えていく可能性がある? という人もいるかもしれない。日常の、どうでもいいことを、ただ書き綴っている作品、と批判する人もいるかもしれない。
 でも、私は、ここに「世界を変えていく可能性」があると思う。「正直」であることは、とくに新しい「思想」ではない。だが「正直」がなければ、どんな「思想」も飾りでしかない。人間は「正直」に生きて、「正直」に生きればみんな幸せになれる、という思想よりも大きな思想を私は知らない。マルクスだって、結局のところ、働いて生み出された利潤というものは、誰かだけのものではなく、みんなの支えあいがあったから生み出されたもの、きちんと分配しなければならない、という「正直」が独自のことばで語られたものだろう。「正直な思想」はみな同じところにたどりつくのである。翻訳されている西洋の難解なことばだけが「思想」なのではない。
 脱線したが。
 阿部の書いている「誰にも話さないこと」、しかし「思い出す」ことは、いろいろな詩で書かれている。「思い出す」は、「薬罐」では、「だいじょうぶ/忘れることを忘れていないから」という不思議な形で書かれているが、この「忘れていない」が「思い出す」なのだ。この微妙な「忘れていない」は「微動」という詩で、とても美しい形で書かれている。
 阿部にはサチコさんという知人がいた。国木田独歩の「丘の白雲」や高村光太郎の「道程」が好きな人である。その人は、もうこの世にはいない。ひつじ雲を見ていたら、ふいに思い出してしまう。

わたしのなかに束ねられた
たくさんの記憶のカードは
思いがけず 選ばれて
浮かび上がる
今日 久しぶりに選ばれたのは
親友でもなかったサチコさん
親友ではなかったけれど
今ごろになって
涼しい声を聞かせてくれる

 「親友でもなかったサチコさん/親友ではなかったけれど」がとてもいい。「涼しい声」というのもいいなあ。
 あのヤモリも、阿部にとっては「親友でもなかった」、そして「親友ではなかったけれど」、ひとりで「密葬」をした。ヤモリの詩をヤモリに聞かせたい、そして「微動」は、なによりもサチコさんに聞かせてやりたいと思う。「親友でも(は)なかった」サチコさんは、何と言うだろうか。「涼しい笑顔」を見せるだけだろう。そういう「再会」がこの詩にはある。
 表題作の「からすのえんどう」は、こうした「人生/思想」をかなり静かに見つめなおしている。三日前、小さな花だったからすのえんどうが、きょうは莢をつけいてる。三日前、路上に落ちていた輪ゴムが同じところに落ちている。人間も輪ゴムも、「可燃物」として「分別」される、と書いたあと。

ゆるんだ蛇口から
疑問符が
それでよかったの?
思い出したように
滴る

もう眠りの淵まで下りてきた
止めには行かない

 人は、どういうことでも思い出す。親友でなくても思い出す。ヤモリでさえ思い出す。「それでよかったの?」と阿部は書いている。「それでいいのだ」と私は思う。滴る水道を止めに行かなくてもいいのと同じだ。無理をしなくていい。何もしなくてもいいのだ。最初に戻ってしまうが、あらゆることは「誰にも話さない」ままでいい。でも「話してもいい」。決める必要はない。
 私はふと、荘子が夢見た世界というのは、阿部が書いているような人間の世界かなあ、と思うのである。
 
 

 


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Estoy loco por espana(番外篇108)Joaquín Llorens

2021-10-17 08:49:18 | estoy loco por espana

Técnica hierro óxido Medidas. 62x38x37 S. P. C

Cuando miro el trabajo de Joaquin, a veces siento que el hierro pasó a través de Joaquin y se convirtió en un trabajo, en lugar de que Joaquin lo hizo. Especialmente con hierro oxidado, lo siento con tanta fuerza. Hierro quería ser la forma de una flor.  La flor ya existen en el hierro y que nacieron del hierro. Joaquin ayuda a que salieran las flores. Siento la belleza de la naturaleza, no la belleza de lo creado por el hombre.

LA FLOR de HIERRO

 

EL brote de hierro se abre silenciosamente.
Cuatro pétalos se extienden en círculo.

Los pétalos se abren suavemente y muestran lo que había en el hierro.

La alegría de vivir abrazando algo importante.

La amplitud de ese abrazo, calor y fuerza.

El amor y la oración que estaba adentro se extiende hacia afuera.

La belleza de la flor cambia el mundo.

 

ホアキンの作品を見ていると、ホアキンが作品をつくったというより、鉄がホアキンを通って作品になった、と感じることがある。特に錆びた鉄をつかった作品を見ると、そう強く感じる。鉄が花の形になりたがったのだ。鉄のなかに、すでに花は存在していて、それが鉄のなかから生まれてきた、という印象である。

 

鉄の花

 

鉄の蕾が静かに開く。四枚の花びらが丸く広がる。

花びらは鉄のなかに存在していたものをそっと開いて見せてくれる。

大事なものを抱擁しながら生きる喜び。

その抱擁の広さ。温かさ。強さ。
内部にあった愛と祈りが外部へと広がっていく。

花の美しさが世界を変える。

 

 

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青柳俊哉「石」、池田清子「ピカソ」、徳永孝「カーテン」

2021-10-16 17:25:17 | 現代詩講座

青柳俊哉「石」、池田清子「ピカソ」、徳永孝「カーテン」(2021年10月04日、朝日カルチャーセンター福岡)

 カルチャー講座受講生の作品。

ピカソ       池田清子

「本作品は 実在する人物も登場するが
すべては自由に脚色されたフィクションである
アーティストや遺族及び関係団体と本作品は無関係である」と
映画「モディリアーニ 真実の愛」
の タイトルの後にテロップが流れる

しかし 私は
映画の中の真実を信じてしまうのだ
すでに成功し富も名声もあるピカソが
まだ売れないモディリアーニの才能をうらやみ、やっかみ
彼を挑発して落としめプライドを傷つけるのだ

ピカソが嫌いになってしまった

老いた 神 ルノワールの所へ連れて行くのは
ピカソなりの叱咤だったかもしれない
モディリアーニが亡くなった後には
人間らしい表情も見せる

しかし、
ヒールのピカソ役があまりにもうまくて
フィクションだとわかっていても
私は、やっぱり今でも ピカソが嫌いだ

 書き出しの「本作品は……」というのは、映画の最初に流れるテロップ。こういう「他人のことば」が詩のなかに必要か。意見が分かれるかもしれない。池田のこの作品の場合は、必要だろう。二連目に書いてあるように、池田は「映画の中の真実を信じてしまうのだ」。
 この「真実」ということばのつかい方は、かなり微妙である。映画に描かれていることが、池田にとって「真実」になった、ということだ。
 ひとはどんな「事実」も「事実」そのものとして客観的に受け止めるわけではない。「事実」を「真実」として受け止めるか、「虚偽」として排除するかは、ひとそれぞれによって違う。だからこそ、映画にしてもさまざまな描き方が可能ということだろう。
 池田は、私が「虚偽」と呼んだものを「フィクション」ということばで語っている。最初のテロップにも登場することばだ。「事実」を真実にかえる力が「フィクション」である。
 そうであるなら、その「フィクション」の力を詩に活用する工夫もしてみるのも、ことばの世界を広げることになるかもしれない。

カーテン  徳永孝

カーテンのくまさん
ダンスダンスダンス
1ぴき 2ひき
3・4 5ひき
6ぴき 7ひき
8ぴき 9ひき

10ぴきのくまさん
みんなでダンス
ダンスダンスダンス

えーっと次は何びき目だっけ?
そう!
11 ひき 12 ひき
13ぴき 14ひき
15 16 17ひき
18ひき 19 ひき
もう数えるのあきた

たくさんのくまさん
みんなでダンス
ダンスダンスダンス

 徳永の詩では「事実」と「フィクション」はどういう関係にある。クマの描かれたカーテン。何匹もいる。それを子どもたちが数えている。数えることを覚え始めたころの子どもである。十まではわりと簡単。しかし、その先は? すこしむずかしく感じる子どももいる。そういう子は、どうするか。必死になってついていくということがある。また「もうあきた」と数えることをやめてしまう子もいる。もちろんほんとうにあきた子もいる。その「事実」をどうやって「フィクション」で整理し、わかりやすくするか。同時に楽しい感じにことばを動かすか。
 単純に「1ぴき 2ひき」とつづけていくだけではなく「3・4 5ひき」と「ひき」を省略したり、「11 ひき 12 ひき」のように数字と「ひき」のあいだに「あき」をつけることで読み方(数え方)のリズムに変化を出している。これは「事実」かもしれないし、「脚色(フィクション)」かもしれない。しかし、「フィクション」であることが気にならない「フィクション」である。
 「脚色」によって、現実がより鮮やかになっている。「脚色」することで楽しさが倍増していると言える。

石  青柳俊哉

冬ざれの野に隕石がふる
かくされた世界の符号のように
石の階段がうねるように上り 最上部の塔のうえの
時計がとまる 針先は円形の文字盤の上方 
水のように朱色がながれる空を指す
ひそかにひらく雲間の月かげから 
枯葉や蝶の羽が石の頬や手にふりかかる 
それらを身に敷く石にとって 生はすべてが
落下するこの世界で 凍てついていくいとしいものの 
たえまなく上昇を強いるものへの
円的な運動である 氷結する針先の
肌触り 閉じていく石の温もり

 青柳の作品は、ことばによる「フィクション」のなかにこそ、「事実の動き=真実」があるということを目指して書かれている。「かくされた世界」ということばが出てくるが、ことばは「かくされた」ものを明らかにする。そのかくされたものというのは、ことばにしないかぎり「見えない」(存在しない)もののことである。たとえば意識。精神。だれにでも意識、精神はあるが、それは「ことば」にして語られないかぎり、他人には存在しているかどうかわからない。他人には伝わらない。
 高みから落ちてきた隕石。それは落ちてきたことを知らない人間には石にしかすぎない。しかし、隕石に「意識」があるとすれば、たとえばどんな「意識」だろう。「落下してきた」ものは再び「飛翔する」ことを夢見ているかもしれない。落下し、上昇する。それを繰り返すと「往復」ではなく「円環」になるときがあるかもしれない。時計のように、何もかもが「円環」する。そういう思想を「フィクション」を利用しながら語っていると読んでみるのはどうだろうか。

 

 

 

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田原編『百代の俳句』

2021-10-16 11:18:44 | 詩集

 

田原編『百代の俳句』(ポエムピース、2021年10月25日発行)

 田原編『百代の俳句』は、400年の歴史のなかから131人、131句を選んでいる。私は俳句をほとんど読まない。田原は、どんなふうに俳句を読んでいるのか。その句を選んだ理由は何なのか、ということを期待して本を開いたが、ずらりと句が並んでいるだけである。個々の句に対する個々の感想がない。うーん、これは困った。
 私の好きな句が選ばれているかな、ということをちらちらとページをめくって確かめる感じで読んでしまう。こんな読み方でいいかどうか、わからない。
 たとえば、寺山修司では「わが夏帽どこまで転べども故郷」。あ、あってよかった、という感じ。でも、この句が寺山の句の代表作といえるかどうか、私にはわからない。ただ帰省したときの青年の(青春時代の)「故郷」に対する思い入れの過剰さが、私は好きなのだ。青春を生きている人間にとって「故郷」はまだ「故郷」になりきれていない。「故郷」と書きながら「故郷」を夢見ている。それが「どこまで転べども」に暗示されている。単に風に飛ばされた帽子がころころころ転がっていく、ということを描写しているのだが「転ぶ」という動詞の選択、「どこまで」という永遠につながることばの選択に、私は寺山の「虚構の力」を感じるのである。
 田中裕明の「みづうみのみなとのなつのみじかけれ」。山の湖。夏休みだけボートがにぎわう。そういう「港」。この港は、いわば比喩である。それが「み」の頭韻の繰り返しのなかでさっと描かれる。それはまるで、思い出が消えながらあらわれてくるという不思議な印象を引き起こす。
 石牟礼道子の句が131人のなにか選ばれているのもうれしかった。「死におくれ死におくれして彼岸花」。「死におくれ」のくりかえしが、人間のいのちの強さと怨念をつたえている。人は死にたいわけではない。生きていたい。「死におくれる」ということは、言いなおせば、人間にとっていいこと(長寿)を意味するはずである。しかし、ここでの「死におくれ」は単なる長寿をあらわすわけではない。他の人は死んでしまった。ひとり死に、またひとり死ぬ。それも苦しみながら死んでいく。それを見送る無念さ。「彼岸花」は私が子どものころは「死の花」と忌み嫌われた。さて、この彼岸花は、そういう「不吉」の象徴なのか。それとも生きている人間の怨念の象徴なのか。たぶん「不吉な花」という意味を懸命に転換しようとする「意図」がこの句のなかを貫いている。そういうことを、私は感じた。

 田原は「世界と心を凝縮する芸術」という「解説」のような文章を最後に書いている。そこに、こういうことばがある。

言語学では、各単語が自立して構成されるタイプの「孤立型」に分類される中国語にたいして、日本語は、助詞や語形変化によって各単語が結びつき合う「膠着語」に分類されている。日本語には、情緒が心にまとわりついて離れがたいさまをさす「情緒纏綿」という趣深い熟語があるが、まさしく「纏綿」すなわちまとわりつく表現は、その膠着語特有の融通無碍な性質に通じ、俳句が他言語に向けてひらかれる要因になっているのではないか、というのが私の持論である。

 うーむ。そういうことを私は考えたことがなかったなあ。私の考えでは、どの国のことばでもある程度、コンビネーションが決まっている。「わが夏帽どこまで転べども故郷」。これは帽子は風に飛ばされる。地面に落ちる。そして転がる、ということを描いているが、それは「帽子とは被るものだが、ときには落ちる」という意味が含まれる。「帽子=落ちる」は「意味の定型(決まりきったコンビネーション)」である。「被る」ではなく「落ちる」方に目を向けて寺山が句をつくっているのは、青春の敗北(落ちるに通じる)がそのまま「情緒」を呼び寄せるからである。帽子を被り直して赤門から入る、ではまったく違う「味」になる。寺山は「落ちる」方を好む。そして、「帽子が落ちる」のはたいていの場合「風に飛ばされる」のである。その風が「落ちた帽子をさらに遠くへ転がす」。「転ぶ/転がる」には「風」が含まれているので、その帽子がわざと転がしたものではなく、風にとばされたもの、一瞬のスキをつかれるようにして発生したできごとだとわかる。さらに風には、どこまでも吹いていくというようなイメージがある。はてしなさ。「故郷」は小さな場所である。しかし、それは「思い出す」とき「はてしない」ものにかわる。転がる帽子を追いかけることで、「故郷」をはてしないものに寺山は変えている。このコンビネーションの巧みさ(組み合わせの妙)が寺山の句の持ち味だと私は思う。こういうことが可能なのは「膠着語の融通無碍な性質」だからなのか。田原の定義の仕方には独特のものがあり、それがとてもおもしろい、と感じた。
 私はどこの国のことばでも「動詞」を基本に読んでいけば(理解していけば)、それぞれの国の人の考え方に通じると思っている。「孤立語」「膠着語」の区別を考えたことがなかった。

 

 

 

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ESPEJISMO

2021-10-15 19:16:44 | 

ESPEJISMO

 

"TU" …. que aparece en tu poema

¿Quién es ese hermoso " TU "?

 

¿Yo conozco a “TU”?

¿O no le conozco?

 

¿Es la persona que creaste en tu imaginación?

Al contrario, ¿ tu eres la persona que creó por la imaginación de “TU”?

 

Creo que conozco a "TU"

Sé dónde vive, su número de teléfono, y su hotel

 

Sus ojos se abren cuando tocas el secreto

Sus labios temblorosos sin encontrar palabras

 

La forma de sus orejas que escucha la voz del deseo

Su estilo de pensar, como elegir sus palabras

 

"TU" siempre está mirando de su amante

Demasiado y "TU" solo puede verle a su amante

 

Estás idealizado en la imaginación de "TU"

Hasta insustituible y absoluto

 

Completamente conozco a "TU"

"TU" te ama más de lo que tú amas "TU"

 

Tengo miedo cuando leo tu poema

Mi corazón está gritando que SOY "TU"

yachishuso

 

 

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松下育男「ブロッコリー」

2021-10-14 11:03:33 | 詩(雑誌・同人誌)

松下育男「ブロッコリー」(「生き事」16、2021年秋発行)

 松下育男「ブロッコリー」を読む。

人を茹でたことはないけれども
ブロッコリーならある

 さて。
 この書き出しの「茹でる」は、具体的に鍋に水を入れて、湯を沸かして、煮るということなら、「人を茹でる」ということをしたことがあるひとなど、いるはずがない。だから、この「茹でる」はわざと書かれたことばである。最初から、日常語とは違った形で書かれている。それなのに、つづけて「ブロッコリーなら(茹でたことは)ある」とつづける。作為に満ちたことばの動きである。最初から、これから書くことは「日常のことばではない/詩である」と宣言している。
 そんな「宣言」は、まあ、聞きたくないなあ、と私は思ったりする。
 こう思ってしまうと、あとはことばが「悪口」へ向けて動いていってしまう。まあ、しょうがないね。書かずに、私のなかで止めておいてもいいのだけれど、それは私の一番苦手なこと。だから、思いつくままに、悪口を暴走させてみる。

雨の日は窓を閉めて
ガスレンジのスイッチを
入れる

 なぜ「雨の日」と断ったのか。この「雨の日」というのは事実ではないだろう。「人を茹でる」と同じように、単なる仮定、次のことばを動かすための「踏み台」なのである。ことばのイメージ、意味が優先している。「雨の日」と書くだけで、(読むだけで)、人はたいてい「陰気」になる。気持ちが内に閉じこもる。それが「窓を閉める」の「閉める」ということばにも反映している。私の好きなことばで言えば「呼応している」。ことばが自然に動くように仕向けている。動いているように見せかけている。松下は技巧派なのである。技巧優先の詩人なのである。
 一方で「陰気」というか「内にこもる」を描き出し、他方で「ガスレンジのスイッチを/入れる」。ガスの青い炎の花が開くのが目に見えるようだ。外を見ないで、目の前に視線を集めていくわけだからね。「ガスレンジのスイッチを/入れる」ことで、気持ちを転換させるわけである。

ブロッコリーが茹であがるまでには
一分半

 いかにも、いつでもブロッコリーを茹でたり、ほかの家事(料理)をしている感じだなあ。「一分半」の「半」というこだわりに、そういうものが見え隠れする。

一分半あれば
さみしげな詩だって
ひとつできる

 ほんとうかなあ。よくわからないが、ほんとうだと仮定して、私は「さみしげな詩」、その「さみしげな」ということばに、なんともいえずいやな気持ちになる。二連目の「雨の日」と同じである。「楽しい詩」「ふざけた詩」ではなく、「さみしげな」詩。
 最初から、この「さびしげ」を中心にことばを動かそうとする「意図」が見えている。ブロッコリーを茹でていて、松下が変わってしまったのではなく、最初からこの「さびしげ」を書くために松下はことばを動かしてきたのだ。
 発見しているふりをしているが、最初から、それが狙いだった。もっとも発見は発明と違って、そこに隠れているものを見つけ出すことだから、何の矛盾もないけれど。でも、そういう矛盾のなさが詩を小さくする。えっ、いま何が起きた?ということが、あらわれてこない。
 この「さみしげ」を松下は、こう言いなおす。

人なら茹でたことはないけれども
詩なら
ある

 人のかわりに、詩を「茹でる」。この「茹でる」は、比喩であるが、同じ「茹でる」をつかいながら「人を茹でる」とは、まったく意味が違う。一連目、そしてこの連での人を「茹でる」は、どうしたって「罰を加える」たぐいのものである。極端な話、「茹で殺す」のである。
 もし、「茹で殺す」(殺したい)くらいのさみしい気持ちで詩に向き合い、その詩を「湯で殺す」というのなら、それはとてもおもしろいと思い、私はちょっと興奮するが、そんなことを松下は書くはずがない。
 そこが、とても、つまらない。

なんでもない言葉が
いい香りに 茹で上がる

 ブロッコリーを茹でて、いい香りにするように、ことばを茹でていい香りの詩にする。ことばの加工、それも「茹でる」という単純な加工で、ことばは詩に生まれ変わる。それも「一分半」、それも「さびしげな」感じの。
 「いい香り」とは「さみしさ」(感傷)につうじる何か。きっと「感傷」をつうじて、私はまだ生きている、と感じるということなんだろうなあ。ブロッコリーを茹でるというような些細な日常。そこにあるさみしさと、喜び。強いさみしさでも、強い喜びでもない、静かな感じ。
 「茹でる」が、少しの加工、ありふれた加工(手仕事)を「意味」するのなら、人をこそ「茹でる」ということをすればいいだろう。「人を茹でたことはない」というとき、人を徹底的に痛めつけるというような意味につかっておいて、ブロッコリーを茹でる、ことば(詩)を茹でるというときには、「いい香り」を出すための手順というのでは、なんだかなあ。
 私は書き出しの「人を茹でたことはないけれども」ということばが、とても「いい香り」に「茹で上がっている」とは思えないのである。
 メインディッシュは、先に書いてきたけれど

一分半あれば
さみしげな詩だって
ひとつできる

 である。この「さみしげな詩」ということばのために、ほかのことばがみんな奉仕させられている。
 こういう詩は、私は、大嫌いだ。

 

 

 

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椿美砂子『青売り』

2021-10-13 10:04:15 | 詩集

 

椿美砂子『青売り』(土曜美術社出版販売、2021年6月11日発行)

 椿美砂子『青売り』の「森へ行く約束」。

森へ行く約束
あの人と
指切りをする

 なんでもないように見える三行だが、「指切り」がみょうに私の肉体に迫ってくる。「切る」が比喩ではなく、実際に「指を切る」という感じで迫ってくる。たぶん、この詩の前に書かれている幾篇かのなかのことばが影響している。
 「青売り」には「あなたの青を売ってほしい」と言われて、

いいですよとその人の前で
わたしの青を切り刻んでいく
金色の華奢な糸切鋏でなるべく痛くないように丁寧に切る

 やはり「切る」が出てくる。そのとき、その「切る」には複雑に思いが絡んでいる。「金色の華奢な糸切鋏」には「切る道具」に対する思いがある。「なるべく痛くないように」には自分の肉体への思いがある。ふたつをつなぐものに「丁寧」という抑制がある。
 さて。
 「指切り」。「指切り」は「約束」の比喩だから、そして「約束」ということばは既に出ているのだから、ことばの経済学からいうと(散文精神からいうと)、ほんらいは不要な表現である。「金色の華奢な糸切鋏でなるべく痛くないように丁寧に切る」と同じである。つまり、そんな個人的な思いなんか、他人にとってはどうでもいいのだが、椿はこだわらずにはいられない。「約束」とは「指を切る」覚悟をすることなのだ。
 この「指切り」は二連目で、こう変わる。

森でわたしは迷子になるだろう
あの人と繋いだはずの手をほどいてしまうから

 「指切り」は、ふつうは小指と小指を絡ませる。実際に「切る」わけではない。「切らない」という願いをこめて、指をからませる。椿のつかっていることばで言いなおせば、「繋ぐ」である。「指を繋ぐ」、その「繋ぐ」を維持するが「約束する」である。
 しかし、椿は「指をほどく」。「繋ぐ」をやめてしまう。これは「切る」を別の形でいいなおしたものだ。
 「ほどいた」のは誰? 「あの人」か「わたし(椿)」か。「わたし」である。
 その結果、どうなる?

たぶんわたしは
地獄へ堕ちると思う
でも
地獄はわたしを退屈させない
わたしにしかみえない花が咲き乱れているから
咲く花を瞳に閉じながら観てみよう

 「地獄」とは、どこか。私はこういうことばを信じないが、椿は「地獄はわたしを退屈させない」と定義する。さらに「わたしにしかみえない花が咲き乱れている」と言いなおす。大事なのは「わたしにしかみえない」という意識である。世界には、誰にでも見えるものがある。椿には見えないものがある。椿にしか見えないものもある。
 それは「指切り」の「切る」という動詞であったりする。
 この「見えないもの」は「青売り」の最後には、

わたしのつくった闇でこれからわたしのひかりを生むために

 という矛盾に満ちた強いことばがある。このことばのなかに「見えないもの」「切る」につながるものがあるのだが、この詩集では、それが書き切れているとは言えない。方向性が暗示されているだけだ。しかし、だからこそいいのかもしれない。書き切ってしまうと、それはふつうに私たちがつかう「指切り=約束」という定型としての比喩になってしまう。「定型的比喩(慣用句)」をどうやって自分の肉体で壊して(いったん闇にして)、新しいことば(ひかり)にするか。

咲く花を瞳に閉じながら観てみよう

 椿は「閉じる」と書いているが、やはり、「開いて」いかないと、何も生まれないと、私は思う。「森へ行く約束」は椿が設定した「課題」として読みたい。

 

 

 

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金野孝子「待ちながら」

2021-10-12 10:15:15 | 詩(雑誌・同人誌)

金野孝子「待ちながら」(「ミて」156、2021年9月30日発行)

 読み始めてすぐにそこに書かれていることばに引きつけられ、一回読んだだけで意味は完全にわかる(わかったつもりになる)のに、繰り返し繰り返し読んでしまう詩がある。金野孝子「待ちながら」が、そういう作品。一読して、こういう世界を知っていると思う。ここには知らないことではなく知っていることが書かれている。しかし、その知っていることを何度も何度も確かめたいのだ。ほんとうは何も知らない、ということを確かめるために。知っているといえることなど、この世界にはないのだと確かめるために。

〈帰る〉
この言葉をわすれたのだろうか
三・一一に まっ黒い波と
行ったままのKちゃん
もう 十年が経った

あの日の幾日か前
その洋品店は
いつものように平和だった
「このブラウス着てみで」
「派手だよ もう傘寿だもの」
「大丈夫だぁふたりィ百歳(ひゃぐ))で
生でるべし」

袖を通しながら
姿見に歳をわすれたひととき
ふたりの弾む話に
遠くはないけれど未来があった

ああ 会いたい
そうだ あの日のお店を覗こう
それは 洋服ダンスから
俄かに 私を招くブラウスたち
彼女の笑顔で 彼女の声で

〈Kちゃーん どごさいるのォー
はやぐ帰ってきてェー
これがらさァ
あんだァ着せでけだ服ばり着て
待ってるがらねァー〉

彼女につつまれながら
〈帰る〉日を
今日も わたしは待つ

 「待つ」は金野に限らず、震災で被害を受けた多くのひとに共通する動詞だろう。わすれたわけではない。でも、わすれたように過ごしてしまうときがある。そして、ふたたび思い出す。ああ、十年もたったのだ、という別の「感情」とともに。
 この書き出しで、私は、私の「帰る」という動詞、「わすれる」という動詞が微妙に違っていることに気づかされたのだ。私は東北大震災を「帰るという言葉をわすれる」という形で受け止めたことがなかった、その二つのことばのつながりにむけて想像力を働かせたことがなかった。しかし、それは存在する。まず、それを知らされる。
 私は傍観者にすぎない。だかち、ここでは「ああ」というような嘆息が漏れる。でも、それだけなら何度も何度も繰り返し読まないだろう。
 私をほんとうにとらえているのは、どのことばだろう。「帰る」「わすれる」よりも、もっと強烈に響いてくる「ことば」があるのだ。

遠くはないけれど未来があった

 この「未来」とは「百歳」のことである。傘寿のふたりが「百歳」のことを語っている。他人から見れば、八十八歳の老人が百歳を話題にして「未来」があるというなんて、こっけいなことかもしれない。そして、それがこっけいであることを、やはりふたりは知っている。知っているけれど、それを「未来」と呼ぶ。そのとき「未来」には、何か、いままで私がつかってきたことなのない「独自の意味」が含まれる。その「独自性」に私はひきつけられる。ここに書かれている「未来」、しかも「遠くはない/未来」というものがある。この「遠くはない」がまた複雑である。二人にとって百歳まで生きたとしても、その十二年間は「短い」。「長い=遠い」ではない。それでも、「未来」なのだ。そして、それは誰にでもあるのだ。
 「未来」とは「遠い彼方」ではない。
 「未来」とは「あす」でもあるのだ。「いま」とつづいている。その感覚。大震災によって「未来」が奪われたのではなく「いま」が奪われた。それは十二年先ではなく、あすが奪われることだったのだ。そしてそれは「つづいている時間」の「つづいている」が奪われることだったのだ。「つづいている」が「未来」なのだ。
 別のことばで言いなおしてみる。この「未来」の前に「わすれる」ということばがある。「歳をわすれたひととき」。「歳をわすれる」は「いまをわすれる」である。「いま」が無意識の内に「あす」へとつながっている。「いま」の自然な充実が、そのまま「あす」になつがる。この楽しい気持ちの「つづき」。
 この「つづき」の感覚。
 それは「未来」とだけつながるのではない。
 金野は友人と派手なブラウスでつづいている。つながっている。それはある日とつながっている。つながっているからこそ、そのブラウスを着れば、またつながれるという思いがあふれてくる。
 「待つ」という動詞が後半に繰り返される。「待つ」は「わすれない」でもある。このとき、「未来」のように自然にあふれている金野の充実。悲しみを充実といってしまうのはいけないのかもしれないけれど、ここには、ああ、生きているというのはいいなあという感じがある。感じがつづいている。
 「待つ」は「つづける」ことでもあるのだ、と書き続けると、おわりがなくなる。

 

 


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Estoy loco por espana(番外篇107)Joaquín Llorens

2021-10-11 23:49:01 | estoy loco por espana

Joaquín es un escultor de hierro.
Esta obra está compuesta de madera y hierro.
Los diferentes materiales se encuentran y crean una fuerte tensión.
La tensión, sin embargo, es muy hermosa. Y solitario. Pero es sensual.
Quiero escribir una poema de esta impresión.
Sin embargo, mis palabras no se mueven.
Mis palabras son más nerviosas frente a su nuevo trabajo.
Escribí una pequeña nota.
Quiero hacer un poema algún día.

Arbol y pajaro

Hay un árbol
Recto en posición vertical
Apuntando a un punto que no se puede alcanzar.
Hermosa pero solitaria

Viene un pájaro
Quiere ser uno
Viniendo de un lugar lejano
Hermosa pero solitaria

El árbol no le dice al pájaro
Mi imaginación vuela más alto que tú
El pájaro no le dice al árbol
Mi imaginacion está más callada y recto que tú

El silencio que envuelve el árbol y el pájaro
Se vuelve cada vez más transparente
Encontrando el árbol y el pájaro
Se convirten en un universo

 

 

ホアキンは鉄の彫刻家である。
この作品は木を含めてひとつの作品になっている。
異質なものが出会い、強い緊張を生み出している。
その緊張はしかし、とても美しい。そして寂しい。けれど官能的である。
この印象を詩にしたい。
しかし、ことばが動かない。
はじめてみる作品の前で私のことばの方が緊張している。
小さなメモを書いた。
いつか詩にしたい。

 

木と鳥

一本の木がある
まっすぐに立っている
届かない一点を目指している
美しいけれど寂しい

一羽の鳥がやってくる
一羽になることを求めて
遠いところからやって来た
美しいけれど寂しい

木は鳥に言わない
私の想像力は君より高く飛んで行く
鳥は木に言わない
私の想像力は君より静かに立っている

木と鳥を包む沈黙が
どんどん透明になる
木と鳥は出会うことで
ひとつの宇宙になった

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