風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

言葉がわからない、その2

2004年05月12日 | チンゲル亭過去日記

母の介護中は、自分自身の衰えや老いを感じる前のことでした。
老眼になって、初めて見えにくいということはこういうことなんだと感じ始めたころから、すこしずつ少しずつ、母の状態の理解が始まりました。

母が高齢出産(41才)だったおかげで、わたしは、若い体力のあるうちに介護が始まりました。
それは、私にとっては好都合なことだったのです。
体を崩すことなく介護を続けられたのはそのおかげもあったと思うのです。
けれど、母の側にたってみると、ちょっとした理解があるだけで、母にも私にも心理的には楽なことがあったろうと想像できます。

母は、いろんな思いがあったのだと思うのです。
しかし、今私が、感じたように、相手に伝えられる情報としての言葉と表現ができなかっただけで、母の頭の中にはたくさんの映像としての情報はあふれていたのだろうと思うのです。

あれ、それ、あのひと、あそこ、ほら、さっき・・・・・
今の私は、知り人の名前が出てこなくて、でも、頭の中にはその人の顔を思い浮かべたり、出会ったときの様子など、はたまた、その人にまつわる思い出などまで、一杯頭の中にめぐりめぐっているのです。
何とか、名前が無いまま会話を続けることができるのですが。。。

あの時、母の頭の中に在る映像を、映し出すことができていたら、いいえ、そこまでではなくても、母の頭の中が空っぽになったのではなくて、そこに何かあるということにさえ思い至っていたら、少しでも、母の歯がゆい思いをなくしてあげられたかもしれない。

そのときは、ちっともわかっていなかったんだなぁ。
そう言えば、父も、半身不随になって、言葉が出にくい常態になった時、私の目を見つめて、唇を震わせていたことがあった。

父は、私に、伝えたいことがあったのだ。
そのときは、なぜ、答えてくれないのと腹を立ててしまったのだった。

年を重ねなければわからないことが一杯あるなぁ。
これは、知識として知っていても、実感しなければわからないなぁ。

ゆっくりした時間の流れの中で、いろいろ思うことが出てくる。
その人がいなくなってから、自然に誤解が解け、理解が進むということもあるのだな。
今までには、思い至らなかったことがわかってきて、静かに悲しんだり、静かに後悔したり、しずかに安堵したりしています。

年を重ねたせいか、今おかれた環境のせいなのか、わかりません。
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ことばがわからない!

2004年05月12日 | チンゲル亭過去日記

テレビのチャンネルを回しているとき、素晴らしいモンゴルの絵が写された。
どうやら、近代作家のものらしい。
心惹かれ、実物を見たいと思ったのですが、あっという間のことで、ビデオを回す暇も無く、言葉も文字も読めない私には、誰にも説明のできない映像だけの情報を得てしまったのです。

あれは、どこで展示しているのか、国内にあるのか、展覧会の案内だったのか皆目分かりません。

誰か、美術の先生を知り合いの伝から伝で探して、教えてもらうのが今の私に考えられる方法です。

あの絵に、到達できるでしょうか?

話がとても飛んでしまうのですが、母の状態はこういうことだったのかと改めて思うのです。

その2へ続きます。
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