今日の国立能楽堂の普及公演は、次のプログラム。
解説・能楽あんない 足摺する俊寛、しない俊寛 佐伯 真一(青山学院大学教授) 狂言 茶壺(ちゃつぼ) 茂山 宗彦(大蔵流)
能 俊寛(しゅんかん) 宇髙 通成(金剛流)
これまで、歌舞伎や文楽の近松門左衛門の「平家女護島」や能の「俊寛/鬼界島」などを何度か観ており、このブログでも書き続けていたので、今回は、ちょっと視点を変えて、平家物語を中心にして、「俊寛」を考えたい。
今日、解説で、佐伯教授が語っていた菊池寛や芥川龍之介の「俊寛」にも、既にふれており、結構周辺情報は記述済みである。
「日本古典文学摘集」を借用して、ところどころ、「平家物語」を引用しながら進めたい。
まず、俊寛たちの島流しに合った原因は、「鹿ケ谷」での平家追討の談合
「平家にあらずんば人にあらず」とおごり高ぶる平家に対する反平氏勢力が、後白河法皇を担ぎ上げて、平家打倒のクーデター構想を画策した「鹿ヶ谷の陰謀」である。
「鹿谷」では、
東山の鹿が谷というところは、背後は近江国・三井寺に続く見事な要害である `法勝寺執行・俊寛僧都の山荘がある `そこにいつも寄り合い、平家を滅ぼそうと謀略を巡らしていた `・・・
新大納言は、・・・御前にあった瓶子を狩衣の袖に引っかけて倒してしまったのを法皇がご覧になり `どうしたのだ `と仰せられると、大納言は立ち返り `へいじが倒れましてございます `と答えられた `法皇は笑壺に入られ `皆の者、猿楽を舞え `と仰せられると、平判官康頼がさっと参り `ああ、あまりにへいじが多くて、酔っぱらってしまいました `と言った `俊寛僧都は `さて、それではどうしたらよいものか `と言うと、西光法師が `首を取るのが一番 `と、瓶子の首をもぎ取って奥に入った。
まだ、重盛も健在であり、安徳天皇さえ生まれていない、上り調子の平家の絶頂期に、このような会合を持つなど正気の沙汰とは思えないのだが、当然、仲間の中に内通者が居てすぐに露見したのである。
次の「鵜川合戦」で、
もそもこの俊寛僧都というのは京極の源大納言雅俊卿の孫で、法勝寺法印・寛雅の子である `祖父大納言は武家の出ではないが、実に短気な人で、三条坊門京極の屋敷の前をめったに通らせない `普段は中門に佇み、歯を食いしばり、睨んでおられた `そんな恐ろしい人の孫だからか、この俊寛僧都も僧ながら気が荒く傲慢なので、つまらない謀反に加担したに違いない
と、俊寛のキャラクターを紹介している。
次の「足摺」は、藤原成経及び平康頼の赦免と俊寛の鬼界が島残留の章で、この能の舞台のシーンが活写されている。
あまりにも有名であり、かなり、この能と一致しているので説明を省略する。
「赦文」は、中宮徳子の懐妊と鬼界が島の流人に対する恩赦のところだが、
(成経の赦免は当然として)、それで、俊寛と康頼法師はどうするのだ `と言われるので `彼らも同様にお戻しください `一人でも残されたのでは却って罪業となりましょう `と(重盛が)言われると、清盛入道は `康頼法師はともかく、俊寛はわしがずいぶん世話を焼いて一人前になった者だ `なのに、他に場所などいくらでもあろうに、東山鹿が谷の山荘に寄り合い、妙な真似をしたというから、俊寛のことは考えてもいない `と言われた
すなわち、ハッキリと、俊寛は許せないと、清盛は断言しているのである。
「少将都帰」で、藤原成経、帰京し、家族と再会が記されているが、島を去る直前に俊寛に約束した清盛への嘆願は空手形であったようである。
その後、単身で、俊寛の召使の有王が島に渡って俊寛を探し出して、最期を看取る物語が、次の2つの章である。
「有王」 俊寛の召使、有王、鬼界が島に主人を訪ねる
「僧都死去」 俊寛、断食により自決
ここで、俊寛が、自殺をしようと思ったが、二人に頼んだ赦免の沙汰を信じて生き永らえてきたが、食料が尽き三十七歳で自決をせざる得なくなった苦衷を吐露して悲しい。
有王が、父を慕って鬼界島へ連れて行けと泣き叫んでいた幼い子が天然痘で亡くなり、夫のことを思い煩い子の死去の悲しみに憔悴し切って北の方は隠れ住んでいた鞍馬で衰弱死したことを語って、残っている姫の手紙を渡すと、俊寛は顔に押し頂いてそのたどたどしさに涙に暮れて絶句。
有王が帰京すると、この娘は、十二歳の尼になり、奈良の法華寺で修行をし、父母の後世を弔い、有王は俊寛僧都の遺骨を首に掛け、高野山へ上り、奥院に納めると、蓮華谷で法師になり、諸国七道を修行して歩き、俊寛僧都の後世を弔った と言う。
先に、「平家物語」は、「俊寛は、僧ながら気が荒く傲慢なので、つまらない謀反に加担した」と非難しているが、「有王」と「僧都死去」では、人間俊寛を、しみじみと愛情をこめて語っていて、感動的であり、下手な小説よりはるかに面白い。
「平家物語」は、「俊寛死去」の結文で、「このように人の思い嘆きが積もり積もった平家の末期が恐ろしい。」と語っている。
「平家物語」で、他に、俊寛の描写があるのかどうかは知らないが、これらの関連した数章を通して俊寛のキャラクターなりイメージを掴まないと、正しい俊寛像は描けないと思う。(尤も、平家物語が一応、真実を語っているであろうと考えての話であるが。)
佐伯教授は、「足摺する俊寛、しない俊寛」と言う話で、足摺は、地団駄踏むと言う意味ではないと言って、能舞台に寝転がって「足摺」を実演し、子供のようにもがいたのだろうと言う。
銕仙会の解説では、「最果ての地で起こった悲劇。運命に翻弄される、ある非力な人間の物語。」と書かれていた。
銕仙会の柴田稔師は、「平家物語」は虚構だとして、
能の作者がテーマにしたのは、清盛と俊寛の人間関係ではなく、不信仰ゆえに平家物語の作者から嫌われた俊寛でもなく、俊寛が経験することになった生きながらの地獄、「人間の孤独」を私たちと同じ等身大の姿で描くことだったのではないかと思います。と言っている。
私は、俊寛が弱いとか悲しい人間だと言う前に、ロビンソンクルーソーではないのであるから、あのシチュエーションに追い詰められれば、恐らく、誰もが、そうせざるを得なかった姿ではないかと思う。
いずれにしろ、その後は、成経や康頼の執成しを信じて、「体力があった頃は、山に登って硫黄というものを掘って、九州とを行き交う商人に会って食べ物と交換して」生き永らえて来たのである。
したがって、今回の能で、シテの俊寛は、最後の留めで、諸手でしおって、そのままの姿で橋掛かりから揚幕に消えて行ったのは、万感の思いの凝縮であって、今も余韻を引いている。
解説・能楽あんない 足摺する俊寛、しない俊寛 佐伯 真一(青山学院大学教授) 狂言 茶壺(ちゃつぼ) 茂山 宗彦(大蔵流)
能 俊寛(しゅんかん) 宇髙 通成(金剛流)
これまで、歌舞伎や文楽の近松門左衛門の「平家女護島」や能の「俊寛/鬼界島」などを何度か観ており、このブログでも書き続けていたので、今回は、ちょっと視点を変えて、平家物語を中心にして、「俊寛」を考えたい。
今日、解説で、佐伯教授が語っていた菊池寛や芥川龍之介の「俊寛」にも、既にふれており、結構周辺情報は記述済みである。
「日本古典文学摘集」を借用して、ところどころ、「平家物語」を引用しながら進めたい。
まず、俊寛たちの島流しに合った原因は、「鹿ケ谷」での平家追討の談合
「平家にあらずんば人にあらず」とおごり高ぶる平家に対する反平氏勢力が、後白河法皇を担ぎ上げて、平家打倒のクーデター構想を画策した「鹿ヶ谷の陰謀」である。
「鹿谷」では、
東山の鹿が谷というところは、背後は近江国・三井寺に続く見事な要害である `法勝寺執行・俊寛僧都の山荘がある `そこにいつも寄り合い、平家を滅ぼそうと謀略を巡らしていた `・・・
新大納言は、・・・御前にあった瓶子を狩衣の袖に引っかけて倒してしまったのを法皇がご覧になり `どうしたのだ `と仰せられると、大納言は立ち返り `へいじが倒れましてございます `と答えられた `法皇は笑壺に入られ `皆の者、猿楽を舞え `と仰せられると、平判官康頼がさっと参り `ああ、あまりにへいじが多くて、酔っぱらってしまいました `と言った `俊寛僧都は `さて、それではどうしたらよいものか `と言うと、西光法師が `首を取るのが一番 `と、瓶子の首をもぎ取って奥に入った。
まだ、重盛も健在であり、安徳天皇さえ生まれていない、上り調子の平家の絶頂期に、このような会合を持つなど正気の沙汰とは思えないのだが、当然、仲間の中に内通者が居てすぐに露見したのである。
次の「鵜川合戦」で、
もそもこの俊寛僧都というのは京極の源大納言雅俊卿の孫で、法勝寺法印・寛雅の子である `祖父大納言は武家の出ではないが、実に短気な人で、三条坊門京極の屋敷の前をめったに通らせない `普段は中門に佇み、歯を食いしばり、睨んでおられた `そんな恐ろしい人の孫だからか、この俊寛僧都も僧ながら気が荒く傲慢なので、つまらない謀反に加担したに違いない
と、俊寛のキャラクターを紹介している。
次の「足摺」は、藤原成経及び平康頼の赦免と俊寛の鬼界が島残留の章で、この能の舞台のシーンが活写されている。
あまりにも有名であり、かなり、この能と一致しているので説明を省略する。
「赦文」は、中宮徳子の懐妊と鬼界が島の流人に対する恩赦のところだが、
(成経の赦免は当然として)、それで、俊寛と康頼法師はどうするのだ `と言われるので `彼らも同様にお戻しください `一人でも残されたのでは却って罪業となりましょう `と(重盛が)言われると、清盛入道は `康頼法師はともかく、俊寛はわしがずいぶん世話を焼いて一人前になった者だ `なのに、他に場所などいくらでもあろうに、東山鹿が谷の山荘に寄り合い、妙な真似をしたというから、俊寛のことは考えてもいない `と言われた
すなわち、ハッキリと、俊寛は許せないと、清盛は断言しているのである。
「少将都帰」で、藤原成経、帰京し、家族と再会が記されているが、島を去る直前に俊寛に約束した清盛への嘆願は空手形であったようである。
その後、単身で、俊寛の召使の有王が島に渡って俊寛を探し出して、最期を看取る物語が、次の2つの章である。
「有王」 俊寛の召使、有王、鬼界が島に主人を訪ねる
「僧都死去」 俊寛、断食により自決
ここで、俊寛が、自殺をしようと思ったが、二人に頼んだ赦免の沙汰を信じて生き永らえてきたが、食料が尽き三十七歳で自決をせざる得なくなった苦衷を吐露して悲しい。
有王が、父を慕って鬼界島へ連れて行けと泣き叫んでいた幼い子が天然痘で亡くなり、夫のことを思い煩い子の死去の悲しみに憔悴し切って北の方は隠れ住んでいた鞍馬で衰弱死したことを語って、残っている姫の手紙を渡すと、俊寛は顔に押し頂いてそのたどたどしさに涙に暮れて絶句。
有王が帰京すると、この娘は、十二歳の尼になり、奈良の法華寺で修行をし、父母の後世を弔い、有王は俊寛僧都の遺骨を首に掛け、高野山へ上り、奥院に納めると、蓮華谷で法師になり、諸国七道を修行して歩き、俊寛僧都の後世を弔った と言う。
先に、「平家物語」は、「俊寛は、僧ながら気が荒く傲慢なので、つまらない謀反に加担した」と非難しているが、「有王」と「僧都死去」では、人間俊寛を、しみじみと愛情をこめて語っていて、感動的であり、下手な小説よりはるかに面白い。
「平家物語」は、「俊寛死去」の結文で、「このように人の思い嘆きが積もり積もった平家の末期が恐ろしい。」と語っている。
「平家物語」で、他に、俊寛の描写があるのかどうかは知らないが、これらの関連した数章を通して俊寛のキャラクターなりイメージを掴まないと、正しい俊寛像は描けないと思う。(尤も、平家物語が一応、真実を語っているであろうと考えての話であるが。)
佐伯教授は、「足摺する俊寛、しない俊寛」と言う話で、足摺は、地団駄踏むと言う意味ではないと言って、能舞台に寝転がって「足摺」を実演し、子供のようにもがいたのだろうと言う。
銕仙会の解説では、「最果ての地で起こった悲劇。運命に翻弄される、ある非力な人間の物語。」と書かれていた。
銕仙会の柴田稔師は、「平家物語」は虚構だとして、
能の作者がテーマにしたのは、清盛と俊寛の人間関係ではなく、不信仰ゆえに平家物語の作者から嫌われた俊寛でもなく、俊寛が経験することになった生きながらの地獄、「人間の孤独」を私たちと同じ等身大の姿で描くことだったのではないかと思います。と言っている。
私は、俊寛が弱いとか悲しい人間だと言う前に、ロビンソンクルーソーではないのであるから、あのシチュエーションに追い詰められれば、恐らく、誰もが、そうせざるを得なかった姿ではないかと思う。
いずれにしろ、その後は、成経や康頼の執成しを信じて、「体力があった頃は、山に登って硫黄というものを掘って、九州とを行き交う商人に会って食べ物と交換して」生き永らえて来たのである。
したがって、今回の能で、シテの俊寛は、最後の留めで、諸手でしおって、そのままの姿で橋掛かりから揚幕に消えて行ったのは、万感の思いの凝縮であって、今も余韻を引いている。