詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫「駐車場で」

2006-03-14 11:55:30 | 詩集
 林嗣夫「駐車場で」(「兆」129)は「小詩集 花ものがたり」の「23」。

駐車場のふちに
金木犀の若木が並んでいて
いまちょうど花盛りだ

その中の一本をめがけて
車をまっすぐに進め
木の手前でちょっとブレーキを踏み
踏み込んだ足をすこしゆるめるようにしながら
ぐい、ぐい、と接近し
金木犀に触れるか触れないかの位置に停車した
その時である
目前の金木犀がとつぜん
ふるえるようになまめき
満身の花を輝かせるのを見た
ただの金木犀が
ほんとうの金木犀に変身した不思議な一瞬だった

花をつけた金木犀、といったが
金木犀でなくてもよかったかもしれない
花でなくても
たとえば
駐車場のふちに並べられた木箱、
でもよかったのではないか
それをめがけてまっすぐに近づき
触れるか触れないかの位置にぐい、ぐいと接近して止める
その迫り方によっては
木箱は一瞬
花となってにおいたつのではないか

 本当に花が変身したのか。
 私には林自身が変身した、という風に感じられる。金木犀への接近の仕方を林は丁寧に描写している。

その中の一本をめがけて
車をまっすぐに進め
木の手前でちょっとブレーキを踏み
踏み込んだ足をすこしゆるめるようにしながら
ぐい、ぐい、と接近し
金木犀に触れるか触れないかの位置に停車した

 「めがけ(る)」「まっすぐ」「手前」「ちょっとブレーキを踏む」「すこしゆるめる」「ぐい、ぐい」。このなにげない動きのなかで、林は一個の肉体になる。「踏み込んだ足」という肉体の意識。「接近」を深く意識して、「接近」を確実なものにする。そして、その「接近」に対する反応をまつ。
 まるでセックスである。
 「停車した/その時」とは「接近」をやめた瞬間にほかならない。
 今度は金木犀が動きだす。「なまめく」。
 これは確かに金木犀の「変身」であるが、その「なまめき」は静かで確実な「接近」をした林の肉体がとらえた「なまめき」である。「なまめき」は林自身の肉体のなかで起きている。「めがけ(る)」「まっすぐ」「手前」「ちょっとブレーキを踏む」「すこしゆるめる」「ぐい、ぐい」という一連の動きこそ「なまめき」そのものだろう。

 あらゆる存在は、接近の仕方次第でかわる。すべての存在は接近の仕方次第で、「なまめき」「花となってにおいたつ」。そうであるなら「変身」すべきは「私」であろう。接近の仕方を間違えばにおいたっている花さえもしぼむだろう。

おもむろにドアを開け
車から降りる
花の香りがしっかりとわたしをつつむ

 この一体感。一体感のしあわせ。このとき林は林であって林ではない。林でありながら同時ににおいたつ金木犀である。

 ほら、セックスそのものでしょ?

コメント
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