入沢康夫「山あひのプラットホームの思ひ出」(「現代詩手帖」3月号)を読む。
「連載詩・偽記憶」の4回目。「偽記憶」とは何だろうか。「偽」とは何だろうか。入沢の連作は、そのことを問題にしている。そして、この「偽」という問題は、入沢にとって、ことばの運動と事実の差異のことのように思われる。ある事実がある。それを描写することばがある。ことばは事実を描写しているうちに事実を離れてしまうことがある。ことばが事実を通り越してしまう。そのことばがたどりついた先から「事実」を振り返ると、それまで「事実」と思い込んでいたものと違うものが見えてしまう。
「歩く」とは「書く」(ことばを動かす)ということに似ている。歩くとき、目的地が歩くこともあれば、歩くことそのものが目的となる場合がある。書くも同じ。目的地があって、それに向かってことばを動かしていくこともあれば、書くこと(ことばを動かすこと)自体が目的となる場合もある。面倒なのは、歩くにしろ、書くにしろ、目的地がありながら目的地を忘れ、歩く、書くに熱中してしまうことがある。そして、どの場合も、ふと現実に引き返す瞬間がある。歩く、書くという行為を永遠につづけることはできない。その瞬間。
「振り返れば」。
思いもかけなかったものが「見える」。見てしまう。
この瞬間を楽しいと感じるか。なんとも感じないか。そこに「詩」の分かれ目がある。入沢は、ことばの運動に身を任せる。ことばが行く先をどこまでも追いかけていく。ことばが「現実」(事実)をはなれ、ことば自体の世界を獲得するまで追いかけていく。あるいは、ことばが向こうからやってくるまでことばを追いかける。入沢にとっては(そして多くの詩人にとってもそうだろうと思うが)、新しいことばが自分へ向かって、特定できないどこからかやってくる瞬間が「詩」に出会う瞬間だ。
この作品の場合、「もう帰らうと振り返れば」に先行する「をかしい」がそれだ。
「をかしい」。それは自分の想像していたことと違う。何かが、自分の知らない何かが向こうから立ち現れてくる。その瞬間が「詩」である。そういう意味では、「詩」は恐怖につながる。自分の知らないものに、自分ひとりで立ち向かわなければならない。どこからともなく立ち現れてきた「ことば」に対して、それまでのことばは、どう運動することができるか。
この作品では「振り返れば」「思ふ」「気付いた」ということばが働いている。ことばの運動、予想外のことばを招き寄せてしまったあと、この作品では入沢のことばは「振り返れば」「思ふ」「気付いた」と、先へ進むのではなく、後戻りする。元いた場所へ戻る。
「記憶」とは、ある場所から見つめなおした過去である。入沢のことばは、いわば元いた場所へ戻って、彼が体験したものを振り返っているから、それを総称して「記憶」と言うのだろう。
そして、それには「偽」ということばが付いている。
なぜ「偽」なのか。
それは、実は、ことばがそれ自体で動いて行って、その運動が招き寄せたもの、それこそが「本物」であるべきだという思いがあるからではないのか。
この作品に限らず、この連作の詩には、何か「記憶」を遠くから描写するような印象がある。「偽」と判断して、ゆっくりと身構えているような印象がある。それは、本当は、ここに書かれている「記憶」の向こう側、ことばがもっともっと自分自身の運動に身を任せて突き進んだ先にこそ「本物」があるという意識があるからではないだろうか。
ことばはどこまで自由に突き進むことができるか。ことばは、いったい何を招き寄せることができるか。そうした「恐怖」としての「詩」。それをどこかで、なつかしがっている、あるいは取り戻そうとしている、そのもがき、苦悩のようなものを、最近の入沢の作品に感じる。
「連載詩・偽記憶」の4回目。「偽記憶」とは何だろうか。「偽」とは何だろうか。入沢の連作は、そのことを問題にしている。そして、この「偽」という問題は、入沢にとって、ことばの運動と事実の差異のことのように思われる。ある事実がある。それを描写することばがある。ことばは事実を描写しているうちに事実を離れてしまうことがある。ことばが事実を通り越してしまう。そのことばがたどりついた先から「事実」を振り返ると、それまで「事実」と思い込んでいたものと違うものが見えてしまう。
列車が来るまでには あと三十分あまり 待ちくたびれた私は コスモスが一むら揺れるプラットホームの端に向かつて 歩いて行つた
ところが どうだらう 行つても行つても 端まで行き着けないのだつた 歩くにつれてプラットホームもぐんぐん伸びて行く もうその先端は見えないほど
をかしい もう帰らうと振り返れば なんとそこは田舎の宵祭の参道で ゆかた掛けの大人や子どもでいつぱい 石畳の両側にはアセチレン燈を灯した夜店の屋台がぎつしり 下駄や木履の音 人々のざわめき そして私はその群衆の中に同級生の少女の顔を見かけたやうに思ふ
その少女が去年死んだあの子だと気付いたとき 巨きな巨きな蟷螂の赤茶けた鎌のやうなものが人閃きし すべてのざわめきがたちまち遠ざかり 私は佇(た)つてゐる 元のプラットホームの端の近くに 向うで手を振ってゐる姉「もうすぐ来るよ汽車が」
「歩く」とは「書く」(ことばを動かす)ということに似ている。歩くとき、目的地が歩くこともあれば、歩くことそのものが目的となる場合がある。書くも同じ。目的地があって、それに向かってことばを動かしていくこともあれば、書くこと(ことばを動かすこと)自体が目的となる場合もある。面倒なのは、歩くにしろ、書くにしろ、目的地がありながら目的地を忘れ、歩く、書くに熱中してしまうことがある。そして、どの場合も、ふと現実に引き返す瞬間がある。歩く、書くという行為を永遠につづけることはできない。その瞬間。
「振り返れば」。
思いもかけなかったものが「見える」。見てしまう。
この瞬間を楽しいと感じるか。なんとも感じないか。そこに「詩」の分かれ目がある。入沢は、ことばの運動に身を任せる。ことばが行く先をどこまでも追いかけていく。ことばが「現実」(事実)をはなれ、ことば自体の世界を獲得するまで追いかけていく。あるいは、ことばが向こうからやってくるまでことばを追いかける。入沢にとっては(そして多くの詩人にとってもそうだろうと思うが)、新しいことばが自分へ向かって、特定できないどこからかやってくる瞬間が「詩」に出会う瞬間だ。
この作品の場合、「もう帰らうと振り返れば」に先行する「をかしい」がそれだ。
「をかしい」。それは自分の想像していたことと違う。何かが、自分の知らない何かが向こうから立ち現れてくる。その瞬間が「詩」である。そういう意味では、「詩」は恐怖につながる。自分の知らないものに、自分ひとりで立ち向かわなければならない。どこからともなく立ち現れてきた「ことば」に対して、それまでのことばは、どう運動することができるか。
この作品では「振り返れば」「思ふ」「気付いた」ということばが働いている。ことばの運動、予想外のことばを招き寄せてしまったあと、この作品では入沢のことばは「振り返れば」「思ふ」「気付いた」と、先へ進むのではなく、後戻りする。元いた場所へ戻る。
「記憶」とは、ある場所から見つめなおした過去である。入沢のことばは、いわば元いた場所へ戻って、彼が体験したものを振り返っているから、それを総称して「記憶」と言うのだろう。
そして、それには「偽」ということばが付いている。
なぜ「偽」なのか。
それは、実は、ことばがそれ自体で動いて行って、その運動が招き寄せたもの、それこそが「本物」であるべきだという思いがあるからではないのか。
この作品に限らず、この連作の詩には、何か「記憶」を遠くから描写するような印象がある。「偽」と判断して、ゆっくりと身構えているような印象がある。それは、本当は、ここに書かれている「記憶」の向こう側、ことばがもっともっと自分自身の運動に身を任せて突き進んだ先にこそ「本物」があるという意識があるからではないだろうか。
ことばはどこまで自由に突き進むことができるか。ことばは、いったい何を招き寄せることができるか。そうした「恐怖」としての「詩」。それをどこかで、なつかしがっている、あるいは取り戻そうとしている、そのもがき、苦悩のようなものを、最近の入沢の作品に感じる。