「静かな家」は大好きな詩集だ。「桃」の第一連がとてもいい。
4行目の「男はビールを飲んでいる」がすばらしい。第一行目の繰り返しのようだが、単なる繰り返しではない。自己を見つめなおし、見つめなおすことで山本は真に山本になる。
そこから思想が始まる。
4行目の「男はビールを飲んでいる」に先立つ「くだらない仕事でも/心をこめてやるしかなかった」は多くのひとが体験することだ。ここまでなら誰でも思う。多くの人に共有される感慨である。そこには個性はない。あらゆる感慨は個性をもってはじめて「思想」になる。個性的であるがゆえに、深く共有されるものになる。
「男はビールを飲んでいる」と自己自身を見つめなおしたとき、世界はどんなふうに立ち上がってくるか。
「遠く」。山本はまず「遠く」を感じる。「遠く」は山本と世界の「ひらいてゆく距離」をあらわしている。100メートルとか35メートルとか具体的に言えない「距離」。「遠く」としかいえないぼんやりした距離。そのなかにいるから生の実感がない。
では「近く」はどうか。
近くも「遠く」と同様に「たよりない」。目に見えない不安。このとき「遠く」と「たよりない」はどこかで通い合った感覚である。
また「たよりない色」の「色」は山本が「視覚」を動員して世界をとらえなおそうとしていることをあらわしている。
前の行の「鳴っている」はぼんやりとした聴覚がとらえた世界ということもできる。
これは「遠くで鉄橋が鳴っている」の繰り返しのようだが、4行目の「男はビールを飲んでいる」同様、単なる繰り返しではない。
視覚で「色」をみつめた山本は、今度は意識的に聴覚を動員して世界をもう一度見つめなおそうとしている。肉体を、感覚を動員して世界と山本の関係をみつめなおそうとしている。
私たちは誰でも感覚を総動員して世界と向き合っているが、その感覚が融合し、世界をとらえるとき、五感ではとらえられない世界、五感を超えた世界が姿をあらわす。
思想が立ち上がる。
「暗いちから」。
これは視覚でも聴覚でもとらえられない存在、ことばだけがたどりつくことのできる「思想」である。
「暗いちから」と呼ばれたものは具体的には何だろうか。電車が鉄橋を渡る音。たしかにその音は鉄橋の仕事(その上を渡るものを支える)とも電車の仕事(何かを運ぶ)とも関係がない。なければなくてもかまわない。不必要なものだ。しかし、それを山本は「必要」と呼ぶ。
それは「くだらない仕事」に似ているか。鉄橋の音は鉄橋の安全、電車の安全の目印であるという「くだらない仕事」のようなものか。「うるさい」と否定的に呼ばれるような「くだらない仕事」か。
そうではない。
「暗いちから」とはある仕事を「くだらない」と思ったり、思いながらも「心をこめてやるしかなかった」と思ってしまう、そのこころの動き、思いそのものだ。人間は誰でも口に出すのをはばかるような思いを内にもっている。「暗い」思いを抱いている。そしてそれこそが「ちから」なのである。
遠くで鉄橋を渡る電車は、山本の自己の内部旅する電車であるかもしれない。
男がビールを飲んでいる
くだらない仕事でも
心をこめてやるしかなかった
男はビールを飲んでいる
遠くで鉄橋が鳴っている
枝豆の頼りない色をみている
電車が通過しているあいだ
鉄橋が鳴る
そんな暗いちからが必要だった
4行目の「男はビールを飲んでいる」がすばらしい。第一行目の繰り返しのようだが、単なる繰り返しではない。自己を見つめなおし、見つめなおすことで山本は真に山本になる。
そこから思想が始まる。
4行目の「男はビールを飲んでいる」に先立つ「くだらない仕事でも/心をこめてやるしかなかった」は多くのひとが体験することだ。ここまでなら誰でも思う。多くの人に共有される感慨である。そこには個性はない。あらゆる感慨は個性をもってはじめて「思想」になる。個性的であるがゆえに、深く共有されるものになる。
「男はビールを飲んでいる」と自己自身を見つめなおしたとき、世界はどんなふうに立ち上がってくるか。
遠くで鉄橋が鳴っている
「遠く」。山本はまず「遠く」を感じる。「遠く」は山本と世界の「ひらいてゆく距離」をあらわしている。100メートルとか35メートルとか具体的に言えない「距離」。「遠く」としかいえないぼんやりした距離。そのなかにいるから生の実感がない。
では「近く」はどうか。
枝豆のたよりない色をみている
近くも「遠く」と同様に「たよりない」。目に見えない不安。このとき「遠く」と「たよりない」はどこかで通い合った感覚である。
また「たよりない色」の「色」は山本が「視覚」を動員して世界をとらえなおそうとしていることをあらわしている。
前の行の「鳴っている」はぼんやりとした聴覚がとらえた世界ということもできる。
電車が通過しているあいだ
鉄橋が鳴る
これは「遠くで鉄橋が鳴っている」の繰り返しのようだが、4行目の「男はビールを飲んでいる」同様、単なる繰り返しではない。
視覚で「色」をみつめた山本は、今度は意識的に聴覚を動員して世界をもう一度見つめなおそうとしている。肉体を、感覚を動員して世界と山本の関係をみつめなおそうとしている。
私たちは誰でも感覚を総動員して世界と向き合っているが、その感覚が融合し、世界をとらえるとき、五感ではとらえられない世界、五感を超えた世界が姿をあらわす。
思想が立ち上がる。
そんな暗い力が必要だった
「暗いちから」。
これは視覚でも聴覚でもとらえられない存在、ことばだけがたどりつくことのできる「思想」である。
「暗いちから」と呼ばれたものは具体的には何だろうか。電車が鉄橋を渡る音。たしかにその音は鉄橋の仕事(その上を渡るものを支える)とも電車の仕事(何かを運ぶ)とも関係がない。なければなくてもかまわない。不必要なものだ。しかし、それを山本は「必要」と呼ぶ。
それは「くだらない仕事」に似ているか。鉄橋の音は鉄橋の安全、電車の安全の目印であるという「くだらない仕事」のようなものか。「うるさい」と否定的に呼ばれるような「くだらない仕事」か。
そうではない。
「暗いちから」とはある仕事を「くだらない」と思ったり、思いながらも「心をこめてやるしかなかった」と思ってしまう、そのこころの動き、思いそのものだ。人間は誰でも口に出すのをはばかるような思いを内にもっている。「暗い」思いを抱いている。そしてそれこそが「ちから」なのである。
遠くで鉄橋を渡る電車は、山本の自己の内部旅する電車であるかもしれない。