詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大澤武『N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に』

2006-03-19 22:38:28 | 詩集
 大澤武『N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に』(七月堂)は振幅の大きい詩集だ。

綴じ代 そこに次を生き抜く者たちの
ひそかな小経路があったとは   (「綴じ代」)


ただ都心の高層ビルと
その外壁にしか感情を持たなかった  (「イルカの走る海」)


何もすることはないし 高層だったので
陽が当たって 木守りの柿って こんな気分かと  (「木守りの柿」)

というような魅力的な行がある。そうした行が持続しないのが残念だ。ことばを動かしているリズムが乱れるので持続の印象が消える。つぎはぎ、という印象になってしまう。

 私が気に入ったのは「昔日の花、落ちて」と「わすれてる」の2篇。ともにリズムが一貫している。

ポカンとあいた くつろぎの
まどから つもった ちりが
はやくちで おしゃべりしながら
しらないそらへ のぼってく
わたくしが うんうんうんと わかったぶんだけ
めをさましてあがってく
たよりない あの あきのひにむかって

にびょうしのリズムを
ながしてる たかぶった すいろ
アンテナは あしたを ゆびさして
コピーげんこうを まぁたよんでいる
ひなたにきざんだ きのうのにっきが すこしまぶしい
なにかがよぎり みねのすすきが
つめたいかぜに ふっと ふかいいきをした

 「わたくしが うんうんうんと わかったぶんだけ/めをさましてあがってく」の「うんうんうん」という肉感的な美しさ。この美しさがあるから、「みねのすすきが/つめたいかぜに ふっと ふかいいきをした」の「いき」が効いてくる。
 大澤の肉体が自然(すすき)が一体になり、同時に互いに分離している(絶対に一体になれない)という感じが気持ちがいい。「いき」をするという動作のなかで大澤と自然は一体になるけれど、それは互いが独立しているからこそ「一体」という感覚をもたらすということが、それこそ「つめたいかぜ」のように私のこころを洗っていく。



 こう書きながら、私がおもしろいと感じたものは、実は大澤が書きたいと思っているものと違うかもしれないという印象が残る。
 詩集のタイトルの「N極とS極をムササビが移り飛ぶ夜に」から想像するのだが、大澤が書きたいのは分離不能のものなのだ。「N極とS極」の距離----それは大きくとることもできるが小さくとることもできる。というか、どれだけ小さくしても常に「N極とS極」は存在してしまう。その内部へどれだけ侵入していけるか、その内部をいかに耕していけるか、つまりどれだけ広く豊かな距離、複雑な構造を持ち込めるか、ということが大澤のやりたいことだと思う。
 こうした意欲はすばらしい。
 「駆り立てるもの」のように感想を書きたいなあと気をそそられる作品もある。
 しかし、あまりに作品それぞれの振幅が大きいので詩集としての印象が分散してしまう。

コメント
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