詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

江代充「留め置く所」

2006-03-01 23:26:44 | 詩集
 江代充「留め置く所」(「現代詩手帖」3月号)を読む。

 江代のことば運びには「行き止まり」という感じがある。ことばが1行目から2行目へつづいているのか、すんなりとは読めないところがある。それは1行のなかに、何かことばを先へ先へとは進めるのとは違った動きがあるからだ。

夜遅くテアトルの館外から路上近くへでて
その日主立った話の筋を家族とめぐり
徒歩で早目に歩きはじめた道の先には

 この書き出しの3行、とりわけ1行目の不思議さ。テアトルとは劇場だろう。劇場は「館」だろう(ビルかもしれないが)。「館外」から「路上近く」へ「でる」とはどいうことだろうか。なぜ、テアトルから路上へ出て、ではないのだろうか。
なぜ、「テアトル」「館外」「路上近く」とひとつのことばを少し逆戻りするようにして、あるいは重複するようにして、ことばが進むだろう。
 2行目も「主立った話の筋」が奇妙である。芝居をみて話し合うとしたら「主立った話の筋」だろうか。私には、どうも話の細部こそ人が話し合うにふさわしいものに思える。主立った筋など話さなくても了解済みのものだろう。なぜ江代のことばは、ことばを逆にたどるように動くのだろう。
 3行目。「徒歩で早目に歩きはじめた」も普通つかうことばではないだろう。「徒歩で」がまったく余分だろう。「徒歩で」と言ったあと、なぜ「歩きはじめた」と言わなければならないのか。

 ことばで先へ先へと進むのではなく、進んだ先で、その一歩を行き止まりにしてしまう。立ち止まって、「今」をみつめなおす。さらに「今」の奥の、人間のいのちのうごめきをさぐりだす----そうしたことをするためではないだろうか。


夜遅くテアトルの館外から路上近くへでて
その日主立った話の筋を家族とめぐり
徒歩で早目に歩きはじめた道の先には
家からとおく
坂の上の橋の途上から
向こう岸に立つ川端の赤いポストが見えた
図柄をおおう山のなかに
もとからほそい木木の列がうかび
ちかくの道に家族を知らぬ一組の男女もいて
口と口の間に
五月雨の柄の付いた
サクランボの熟れた木の実を挟んでいる
ねむりにつく前に
一方の口のなかへそれが差し込まれると
あのほそい柄のとれた果実の窪みが
相手の舌先にもまだ感じ取れた
そのあと崖の下の民家の夢をみるが
そこはそこで行き止まりで
低い単独の真木にしか見えない
夫婦(めおと)槇というのもあった

 ことばの重複、後戻りする形、重複することで時間を立ち止まらせる具合の反復。たとえば「サクランボの熟れた木の実」というのは、やはり異常である。「サクランボの熟れた実」あるいは「熟れたサクランボ」が普通の言い方だろう。江代はなぜこうしたごつごつしたことば運びをするのか。
 繰り返しになるが、立ち止まるためである。行を「行き止まり」にしておいて、その行全体をじっくりながめまわすためである。
 そのとき「主立った話の筋」とはまったく違ったもの、けっして「話の筋」にならなかった細部がよみがえる。(主立った話の筋をめぐって話すのは、その筋が隠している細部を発見するためかもしれない。)

 この作品で一番不思議な行は「相手の舌先にもまだ感じ取れた」ということばである。
 「冬の日」(「現代詩手帖」1月号)について触れたとき、江代の作品では人称があいまいになると指摘した。ここでも同じことがいえる。「相手の舌先」が感じているかどうかは、本当は、「私」にはわからない。けれど、私たちの肉体は不思議なもので、わからないはずの相手の肉体が感じていることを感じてしまう。不思議な融合がある。感覚の共有がある。
 そして、この感覚の共有は、不思議なことに江代の場合、人間を孤独から解放するのではなく、逆に孤独を深めるような感じである。感覚の共有が、私と誰かが同じ人間であるという印象を呼び起こすのではなく、同じ感覚をもっていてもけっして人間は重なり合わないという印象を深める。

 そして、またややこしいことに、この孤独が、人を(読者を)ひきつける力となっている。

コメント
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