詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウラジミール・ナボコフ「完璧」

2006-03-15 15:09:41 | その他(音楽、小説etc)
 ナボコフ短篇全集Ⅱ(作品社)。

 ナボコフは動きの描写が繊細・精密で美しい。たとえば「完璧」。

(列車が)カーヴにさしかかると、半円状に曲がった前方の車輛と、下に降ろされた窓枠に肘をついた人たちの頭が見えた。それから列車はふたたび真っ直ぐになり、汽笛を時々鳴らし、両肘をせっせと動かしながら、ブナの森を進んでいった。(38ページ)

 「半円状に曲がった前方の車輛」がすばらしい。主人公が列車の後方の車輛に乗っていることがすぐわかる。何の描写もしていないが、主人公が、多くの乗客同様窓枠に肘をついて、同じ姿の乗客を見ている。列車という大勢の人を載せる乗り物。その乗り物のなかで主人公が主人公でありながら乗客にまぎれていく。それは主人公が、やはりひとりの人間であるにすぎないということの間接的な証明でもある。列車はしかしそんな主人公の思いなど気にしない。まわりのブナの森も気にしない。非情である。だからこそ、人間のごくありふれた姿(窓枠に肘をついて外を眺める姿)がリアルに浮き上がる。

月が手さぐりで洗面台のところまで着くと、そこで角ばったコップのある一面だけを特に選び出し、それから壁を這っていった。(39ページ)

 「手さぐりで」が「詩」である。このことばによって部屋の明かりが完全に消されていることがわかる。「コップのある一面」というのもすばらしい表現だ。「手さぐり」に呼応しているのだが、まるで月の光の動きが主人公のこころの動きに思えてしまう。「ある一面」----それが求めている一面かどうか、そして実はけっして触れ得ない一面がどこかにある、ということを暗示している。

 ストーリーはどうでもよくなる。書きながら私はすでにどんな話だったか思い出せない。しかし、今引用した2か所、さらに引用しなかった何か所かの文章は記憶に残り続ける。そして、列車の病者に出会うたびにナボコフのことを思い出すのだ。
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