「風景」を含む『労働、ぼくらの幻影』と『連禱騒々』のあいだには大きな隔たりがある。
『労働』には「きみ」がいた。つまり「きみ」を認識する「ぼく」がいた。その「きみ」は「風景」では漁夫であった。漁夫を仮の主語として「ひらいてゆく距離」を山本は描いていた。
ところが『連禱騒々』では「きみ」はいなくなる。つまり「ぼく」がいなくなる。主語は「ことば」にとってかわる。
世界と山本の関係は相変わらず「ひらいてゆく距離」のままである。しかし、今、山本はその「ひらいてゆく距離」を比喩でたぐりよせようとはしない。逆に、ひらいてゆく距離をひらいた距離のままに存在させ、そのひろがりのなかで「ことば」を屹立させる。そしてそのことばには「どのような理由も弁証もな」い。
「どのような理由も弁証もな」い「ことば」、それが山本にとっての「詩」である。理由や弁証があるとき、それは「詩」ではなく「散文」にすぎない。
「連禱騒々」の書き出しに、この詩集の特徴のすべてがあらわれている。
この5行の「主語」は何か。「かがやき」がテキスト上の「主語」とみなされるかもしれない。しかし、それは「照りかえし」「燈明」というふうに、前のことばをひきずりながら姿をかえていく。このとき読者が(私が)見ているのは「光のようなもの」であり、いまだ名付けられていない存在である。
そうした存在(もの)をどのような理由も弁証もなく、山本は屹立させる。ことばをことばの運動そのものにまかせる。自立したことばの運動。自律といいかえたほうがいいかもしれない。ことばの自律運動。それが「詩」である。
「ひらいてゆく距離」にあらがうように、ことばの自律運動がはじまる。山本はそれを目撃する。そしてそれをただ書き留める。祈るように。たしかに、これは山本の祈りなのだろう。
『労働』には「きみ」がいた。つまり「きみ」を認識する「ぼく」がいた。その「きみ」は「風景」では漁夫であった。漁夫を仮の主語として「ひらいてゆく距離」を山本は描いていた。
ところが『連禱騒々』では「きみ」はいなくなる。つまり「ぼく」がいなくなる。主語は「ことば」にとってかわる。
どのような理由も弁証もなく
屹立する断崖の痛いかがやき (「連禱騒々」)
世界と山本の関係は相変わらず「ひらいてゆく距離」のままである。しかし、今、山本はその「ひらいてゆく距離」を比喩でたぐりよせようとはしない。逆に、ひらいてゆく距離をひらいた距離のままに存在させ、そのひろがりのなかで「ことば」を屹立させる。そしてそのことばには「どのような理由も弁証もな」い。
「どのような理由も弁証もな」い「ことば」、それが山本にとっての「詩」である。理由や弁証があるとき、それは「詩」ではなく「散文」にすぎない。
どのような理由も弁証もなく
屹立する断崖の痛いかがやき
まだとどかない破滅の照りかえし
その中心でみずすましのようにますますちいさい燈明となり
ついには棒立ちになってぶっ倒れること
「連禱騒々」の書き出しに、この詩集の特徴のすべてがあらわれている。
この5行の「主語」は何か。「かがやき」がテキスト上の「主語」とみなされるかもしれない。しかし、それは「照りかえし」「燈明」というふうに、前のことばをひきずりながら姿をかえていく。このとき読者が(私が)見ているのは「光のようなもの」であり、いまだ名付けられていない存在である。
そうした存在(もの)をどのような理由も弁証もなく、山本は屹立させる。ことばをことばの運動そのものにまかせる。自立したことばの運動。自律といいかえたほうがいいかもしれない。ことばの自律運動。それが「詩」である。
「ひらいてゆく距離」にあらがうように、ことばの自律運動がはじまる。山本はそれを目撃する。そしてそれをただ書き留める。祈るように。たしかに、これは山本の祈りなのだろう。