詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

梅田智江「外を見るひと」

2006-03-20 12:59:35 | 詩(雑誌・同人誌)
 梅田智江が「赤玉」というサイトで作品を発表している。(http://www.h6.dion.ne.jp/~karibu/index.html)
 そのなかの1篇。

  外を見るひと

外を見るひと
窓の外を見るひと
立って
外を見続けるひと

外を見るひとの背中越しに空が見える

曇った空が色を変えていく
木犀の蕾が見える
枝の先にいくつもの黒い蕾
家々の屋根の下
窓はぴったりと閉じられている
無音の町

外を見るひと
窓の外を見るひと
いつもの風景を
立って
いつまでも
見続けるひと

その背中はうつろな「永遠」のようだ

私は怖い
そのひとが
振り返るのが

そのひとの顔がすっぽり抜け落ちているようで

外を見るひとを見ている

 3連目が非常に印象に残る。
 窓の外の風景、その時間の動きを空の色の変化、木犀の蕾の色の変化(黒への変化)で描く。当然、その時間の変化は、「外を見るひと」がいる部屋の内部の時間の変化もあらわす。
 その部屋の内部の時間の変化、濃密な空気が他人の家々へとつながっていく。どの窓も閉じられ、無音である。
 もしかすると、梅田が見ている「外を見るひと」はそれぞれの家にいるかもしれない。そしてそこにはやはり音もなく、じっとその背中を見ているひとがいるかもしれない。

 外部と内部が交錯する。そしてそこに「永遠」が姿をあらわす。そのとき「外を見ているひと」の背中のうつろな「永遠」は梅田自身の背中のうつろな「永遠」でもある。私の外部と内部が交錯し、融合し、一瞬にして「場」を濃密なものにする。
 さりげなく書かれているようだが、そこに梅田自身の自己を見つめる視線があるだけに、深く、怖い。
 一度書き始めたら、もう書き始めた瞬間には戻ることはできない。書くことをとおして、書くまでは認識していなかった自己にたどりつく。(あるいは書かれなかった自己に「変身」してしうまというべきか。)
 「詩」の恐怖が、ここにある。

*

 「赤玉」を「紅玉」と表記していました。ごめんなさい。梅田さんの指摘で訂正しました。(21日)



コメント (2)
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