「一篇の詩を書いてしまうと」で山本は大きな変化を見せる。「バニシング・ポイント」では「ひらいてゆく距離」は新しい展開を見せる。
「ひらいてゆく距離」は存在しない。向こう側は存在しない。ただ空白がある。しかも、それは足先にまで近づいている。「線」は山本のすぐそばにある。
「ひらいてゆく距離」というとき、彼方が想定されていた。行くつくさき、たとえば革命(という理想)が想定されていた。しかし、いま、そうしたものはない。彼方は存在せず、山本の「外」は単なる空白である。
「静かな家」の旅が山本自身の内部への旅だと私は仮定して読んだが、そのつづきで言うなら、実は内部などないのだ、というのがこの詩集の「思想」である。
人間をささえる「暗いちから」、仕事を「くだらない」と思うこころ、「くだらない」と思いながらも「心をこめてやるしかなかった」と思うこころ、精神、あるいは感情、抒情といえばいいだろうか、そんなものなどない。そんなものは「こわれて」しまったのである。内部をなくしてニンゲン(と山本はカタカナで書く)は「こわれていく」だけである。こわれていくことだけが人間の仕事である。
というより、こわしていく、自己を破壊していくことが人間の仕事である、と言い換えた方が「思想」のことばらしくなるだろうか。
山本がここで試みていることは、それまでの山本の「詩」の破壊である。「抒情」の否定である。「抒情」では世界とわたりあえない、という認識が山本をそうした破壊行動へ駆り立てるのだろう。
「現代詩文庫」の解説を読むと、北川透も「こわれていくニンゲン」ということばに注目して山本の作品を読んでいる。私もその行(ことば)は重要だと思うが、もうひとつ見逃してならないのは1行目の「線」だと思う。
線とは、内部と外部の区切りであり、それぞれの「表層」である。
山本は「線」に向けて、自己をこわしていく。表層であることによって、自己をこわしていく。内部などない。外部もない。抒情もない。いま、自己を囲む「線」そのものになる。それも「死体」を囲む「線」になる。もっと丁寧にいえば「死体のあった場所」を示す「線」になる。(「死体」とは内部が存在しない、内部に「暗いちから」も明るい力も内包していないからっぽのことである)。人間が、どんな形で死んだか、いのちをこわしてしまったか、それを「線」として描くのが、人間をこわしていくという行為であり、「詩」の仕事だと山本は感じている。
山本はこの詩集で再出発したのだと思う。ただこの詩集は、そういう意味では「出発宣言」のようなものでもある。私は、これから山本がどんなふうに線をひきつづけるのか、それをこそ読みたいと思う。
いきなり線をひかれた
死体のあった場所をチョークで囲むように
巨大な空白に線がひかれた
降りていく階段は足のさきから消えている
階段が消え
虫喰状に破れた天蓋がめくられ
こわれていくニンゲンは
こわれていくニンゲンとして
みまもっていかなければならなかった
青空は 雨を吸ったくろい地面をはらみながら
べつべつの欲望をそだて
細部まで空白をみたそうとする
「ひらいてゆく距離」は存在しない。向こう側は存在しない。ただ空白がある。しかも、それは足先にまで近づいている。「線」は山本のすぐそばにある。
「ひらいてゆく距離」というとき、彼方が想定されていた。行くつくさき、たとえば革命(という理想)が想定されていた。しかし、いま、そうしたものはない。彼方は存在せず、山本の「外」は単なる空白である。
「静かな家」の旅が山本自身の内部への旅だと私は仮定して読んだが、そのつづきで言うなら、実は内部などないのだ、というのがこの詩集の「思想」である。
人間をささえる「暗いちから」、仕事を「くだらない」と思うこころ、「くだらない」と思いながらも「心をこめてやるしかなかった」と思うこころ、精神、あるいは感情、抒情といえばいいだろうか、そんなものなどない。そんなものは「こわれて」しまったのである。内部をなくしてニンゲン(と山本はカタカナで書く)は「こわれていく」だけである。こわれていくことだけが人間の仕事である。
というより、こわしていく、自己を破壊していくことが人間の仕事である、と言い換えた方が「思想」のことばらしくなるだろうか。
山本がここで試みていることは、それまでの山本の「詩」の破壊である。「抒情」の否定である。「抒情」では世界とわたりあえない、という認識が山本をそうした破壊行動へ駆り立てるのだろう。
「現代詩文庫」の解説を読むと、北川透も「こわれていくニンゲン」ということばに注目して山本の作品を読んでいる。私もその行(ことば)は重要だと思うが、もうひとつ見逃してならないのは1行目の「線」だと思う。
線とは、内部と外部の区切りであり、それぞれの「表層」である。
山本は「線」に向けて、自己をこわしていく。表層であることによって、自己をこわしていく。内部などない。外部もない。抒情もない。いま、自己を囲む「線」そのものになる。それも「死体」を囲む「線」になる。もっと丁寧にいえば「死体のあった場所」を示す「線」になる。(「死体」とは内部が存在しない、内部に「暗いちから」も明るい力も内包していないからっぽのことである)。人間が、どんな形で死んだか、いのちをこわしてしまったか、それを「線」として描くのが、人間をこわしていくという行為であり、「詩」の仕事だと山本は感じている。
山本はこの詩集で再出発したのだと思う。ただこの詩集は、そういう意味では「出発宣言」のようなものでもある。私は、これから山本がどんなふうに線をひきつづけるのか、それをこそ読みたいと思う。