詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブレイクを読む

2006-03-17 21:50:44 | 詩集
 ブレイクのことばは、あたりまえだが町田康のことばとは違う。違うけれども、やはり私は魅了される。

 ブレイク全著作集(名古屋大学出版会)のなかの「次に彼女は青白い欲望を生んだ」の次の行。

如何に美しくとも私の顔に霊感を与えるのは妬みなのだ、

 「妬み」ということばには不思議な肉体感覚がある。私たちは、それを肉体をとおして知っている。そのために、そのことばがこころに響く。
 しかし、このことばの運動は、ちょっと複雑である。なにかしら肉体の中にある矛盾をくぐりぬけてきている。たとえていえば善と悪が拮抗している、美と醜が拮抗している。
 その激しい対立運動としての「詩」である。



知識のくらい獄舎の中で汚されるまではかつて光より美しかった理性だ。

 「知識」と「理性」は普通は対立しない。しかしブレイクは対立するものとして描き出す。
 こうしたことばを読むと、ブレイクはひとつひとつのことばを他者として見ていた、という感じがする。
 ことばを、私は、自分と一体のものと感じている。
 ところがブレイクはそんなふうに感じていないのではないか。
 ことばは自分とは違うところにある。たとえブレイクがことばを書いても、それはブレイク自身の支配を超えている。
 他人(他者)についていえば、どんなに理解しているつもりでも「私」にはわからないものがある。他者の「肉体」が隠している何かがある。ふいに出現してきて「私」の想像を裏切るものがある。
 ブレイクは、ことばをそんなふうに見ていないか。
 「知識の……」という行は、そんなことを考えさせる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町田康詩集

2006-03-17 21:34:47 | 詩集
 町田康詩集(ハルキ文庫)を手にして、偶然開いたページの詩は「ロビンの盛り塩」。これがおもしろい。

 米が無い。米が無いので水ばかり飲んでおった。起きていても腹ががぶがぶするばかりでせつないので寝てしまった。夕方、ふと目をさますと妻はどこかに小遣いを隠し持っておったのか、鰻を誂えて食っているではないか。「おい、ちょっと呉れ」「ちょっと呉れ」呉れやがらぬ。口をきかぬのだ。返事をせんのだ。ああ、嫌になってしまった。空の丼を見つめているとからだ中に寂寥感が広がってきて涙が溢れてきた。どうしようもなくなって家を出てどこをどう歩いたか、我にかえるとロビンというの喫茶店の前に立っていた。この家の娘は気が狂っていて、店先に切り花を挿して日がな水をやっている。ここの盛り塩はいつも水で流れてぐしゃぐしゃになっている。

 リズムがとてもいい。特に「おい、ちっと呉れ」から「ああ、嫌になってしまった。」までがすばらしい。男女のいがみあい(?)の呼吸が、そのままリズムになっている。

 こうした作品を読むと、詩にかぎらず文学というのは肉体のリズムをことばにしたものだという気がしてくる。誰もがもっている肉体のリズム、感情のリズム。町田は、ことばを肉体をくぐらせて動かす。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする