詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ナボコフ「フィアルタの春」

2006-03-31 22:46:09 | その他(音楽、小説etc)
 ナボコフ「フィアルタの春」(「ナボコフ短篇全集Ⅱ」作品社)に少し変わった文章がある。

安っぽく形式ばった親しい「きみ(トゥイ)」という呼びかけを、表現力豊かで心のこもった敬称の「あなた(ヴイ)」に替えて

この文章には沼野充義の訳注がついている。

ロシア語の「トゥイ」は親しい間柄で使う二人称代名詞。ここで「トゥイ」から「ヴイ」に切り替えるのは唐突で異様

 この注釈を読みながら、あ、形式的な判断だなあと思った。
 私はロシア語は知らないが、類似の二人称代名詞はフランス語にもスペイン語にもある。そしてフランス語もスペイン語も「チュ」「トゥ」は「ヴゥ」「ヴゥ」よりも親しく気の置けない間柄でつかう二人称代名詞と「定義」されている。たぶんロシア語も同じだろう。
 ただ、ナボコフ(あるいは、この小説の主人公)が同じふうに感じているかどうかは別問題だろう。
 原文はわからないが沼野の訳に従えば「トゥイ」には「親しい」のほかに「安っぽく形式ばった」という修飾語がついている。親しい間柄、親しみをこめた呼称と定義される「トゥイ」、その定義をナボコフは「安っぽく」かつ「形式的」と感じたのではないのか。本当の親しさは「トゥイ」という表現をつかうかどうかでは決められない。そう言いたいのではないだろうか。
 「ヴイ」も同じ。それは親しくない関係、隔たりのある二人称呼称であるように定義されているが、そうではなく「心のこもった」呼称であるとナボコフは感じていたのだろう。

 ことばは「辞書」の定義どおりではない。辞書になる定義とは違った印象、思いを、それぞれの作家が持っている。ことばにこだわるナボコフならなおさらそうかもしれない。そうした作家の文章を辞書の定義どおりにとらえてしまったのでは作家が表現したものを見落としてしまうだろう。

 なぜ「安っぽく形式ばった」という修飾語をナボコフはつかったのか。
 「トゥイ」を親しい呼称ととらえて、表面的に人間関係を判断するということをナボコフは嫌ったということだろう。そして、その嫌悪感のなかにこそ「詩」がある。ナボコフの個性がある。

 安直な注釈であるように思った。



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白鳥信也「血はダンスしている」

2006-03-31 18:23:58 | 詩集
 白鳥信也「血はダンスしている」(「フットスタンプ」12号)はなかほどにおもしろい部分がある。蚊に血を吸われる。そのことを書いているだけだが……。

私の血液を吸った蚊は新聞配達の青年の血液も吸い宅配便の中年男の血液も吸い
隣の池上さんの血液も吸い
我が家の門前で小便を毎日垂らす茶色の小型犬の血液を吸い
放尿を漫然と待っているどこか近所に住まう中年女性の血液も吸い
家族より愛してやまない私の自動車のボンネットに脱糞する野良猫の血液も吸っているはずだいやいや吸わずにいられないはず

 「血液を吸い」(吸う)ということばの繰り返しが世界を広げていく。ただ、白鳥の試みは私の感覚では「詩」になりきれていない。リズムが重たい。スピード感に欠ける。軽みが足りない。たぶん「脚韻」形式の繰り返しがことばを重くさせるのだと思う。日本語の詩歌は(その伝統は)たいてい脚韻ではなく頭韻をそろえる。

もっと広い湖
もっとお得の湖が必要だ
無数の水面のダンス
無数の水面のキス
無数の血液の交じり合い

 これは先に引用した行のあとに登場することばだが、こちらの方が素早い動きがある。行の短さというより「頭韻」と「脚韻」の違いだろう。「もっと」の繰り返し、「複数の水面の」の繰り返しのなかには、水が動くときの色の動きのようなものがある。これを大切にしてもらいたかったと思う。
 この脚韻と頭韻の処理と同じように、白鳥の作品には複数の要素がまじっている。そのため「生きている水はかゆいな」という最後の行のゆかいなことばが立ち上がりきれていない。それが残念だ。
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