多和田葉子「傘の死体とわたしの妻」を読む。(「現代詩手帖」3月号)連作の9回目。「手作り人工受精」。
書き出しの、このリズムがおもしろい。「べたべた」と「たべたい」のゆきつもどりつ、ことば遊びが、遊びながら、きちんと散文の論理をつくっていく。散文の論理の上に立って、その散文をゆるくゆるくほぐし、隙間に猥雑なものまぎれこませる。セックスをまぎれこませていく。
こうした詩を読むと、つくづくセックス(肉体)というものには個性がない。というか、セックスに関することは、どんなささいなほのめかし、はぐらかしであっても、全部、意識にとどくという不思議さに出会う。いや、ほんとうはセックスには個人差があるのだが、実際に肉体が動く動きには限界があって、どんなに個性的な動きであっても、他人の肉体と重なり合う。重なり合ってしまい、そんなセックスなんて知らない、というようなものには出会えない。たとえば次のような行は、どうしたってフンガー・セックス以外の何ものをも想像させない。
わかりきったもの、知っている世界をたどるだけなのだが、知っているからこそ、引きずられるように読んでしまう。
多和田の作品の特徴はここにあると思う。
多くの詩人は読者の知らない世界、詩人自身の真実世界を描こうとする。読者の知らない世界を描こうとする。ところが多和田はそうではなく、誰もが知っている世界を描こうとする。知っていることだけを描く。誰もが知っていることだけが、知っていることばだけが読者に(相手に)届くということを熟知している。セックスについて、それがどんな行為か、誰もが知っている。性器を、たとえばどんなふうに呼ぶか、たとえば「月の部屋」は月経に通じること、「われ(め)」「ひび」「われもの」が女性性器に通じることは、誰もが知っている。ただし、そうしたことばを多和田のように組み合わせてセックスを描くという方法は誰もが知っているわけではない。多和田だけが知っている。
「詩」とは表現の仕方なのである。書き方なのである。書かれた事実や存在ではないのだ。
すでに人間の行為は書きつくされている。ギリシャ悲劇の時代から作家たちは「書くものはもう何もない」と訴えている。しかし、延々と文学はつづく。なぜか。書き方はひとつではないからだ。
多和田は「書く」ということを強く意識している。その意識のなかに「詩」がある。書かれた内容ではなく、書き方に個性がある。書き方というのは空気のようなものであって、これがと指し示すことができない。しかし、その文体を読めば、作者の署名がなくても、あ、これは誰それの作品だとわかる。
多和田は、そうした強靱な文体をもった詩人である。
文体の特徴をあげれば、先に書いたことと重複するが、誰もが知っていることばをつかう。誰もが知っている「秘密」「ほのめかし」つまり「俗な隠語」をするりとすり抜けるようにしてつかうことで、人間の肉体の曖昧さを利用する。あくまで肉体にそってことばを動かすということだろうか。
これはきのう触れた河津聖恵のことばの動きと対比すればわかりやすいかもしれない。
河津は「裸体」ということばをつかっているが、そのことばに触発されて、具体的な裸体を想像できる人間がどれだけいるだろうか。河津の「裸体」は抽象的であり、頭の中にのみ存在するものにすぎない。河津は肉体ではなく、精神の動きを「共有」する人にのみ向けて、ことばを発している。
多和田のことば、たとえば「月の部屋」「ひび」「われもの」などは、それが裸体とは書いていないが、そう書けば読者は女の体を思い浮かべるということを熟知している。人間は肉体をいろいろな呼び方で呼ぶことを知っている。肉体は人間にとっては「キーワード」のように、意識しないまま、自分になじませているものだということを熟知している。
ただし、人間は基本的に自分の体しか実感できない。だからほんの少しずつほんとうは違っているかもしれない。私と他人との間には微妙なずれがあるかもしれない。そうしたずれを刺激するようにして、多和田はことばを動かす。駄洒落、隠語、俗語……そうしたうごめきに身をまかせ、うごめきそのものになってみせる。それが多和田の文体だと思う。
よく洗われてないんで べたべた
べた い
た べたい
いちごも たい
へんね
書き出しの、このリズムがおもしろい。「べたべた」と「たべたい」のゆきつもどりつ、ことば遊びが、遊びながら、きちんと散文の論理をつくっていく。散文の論理の上に立って、その散文をゆるくゆるくほぐし、隙間に猥雑なものまぎれこませる。セックスをまぎれこませていく。
こうした詩を読むと、つくづくセックス(肉体)というものには個性がない。というか、セックスに関することは、どんなささいなほのめかし、はぐらかしであっても、全部、意識にとどくという不思議さに出会う。いや、ほんとうはセックスには個人差があるのだが、実際に肉体が動く動きには限界があって、どんなに個性的な動きであっても、他人の肉体と重なり合う。重なり合ってしまい、そんなセックスなんて知らない、というようなものには出会えない。たとえば次のような行は、どうしたってフンガー・セックス以外の何ものをも想像させない。
どこまでがイチゴでどこまでが人間
腕の枝先ふるえ
あせると とろとろ落ちるばかりの ジャム
きつく くつき
ぬり指で
が
うまく月の部屋に入ってくれな
子宮の家主をワレと呼ぶなら
ひび
を おのずから望む
われもの が われ
わかりきったもの、知っている世界をたどるだけなのだが、知っているからこそ、引きずられるように読んでしまう。
多和田の作品の特徴はここにあると思う。
多くの詩人は読者の知らない世界、詩人自身の真実世界を描こうとする。読者の知らない世界を描こうとする。ところが多和田はそうではなく、誰もが知っている世界を描こうとする。知っていることだけを描く。誰もが知っていることだけが、知っていることばだけが読者に(相手に)届くということを熟知している。セックスについて、それがどんな行為か、誰もが知っている。性器を、たとえばどんなふうに呼ぶか、たとえば「月の部屋」は月経に通じること、「われ(め)」「ひび」「われもの」が女性性器に通じることは、誰もが知っている。ただし、そうしたことばを多和田のように組み合わせてセックスを描くという方法は誰もが知っているわけではない。多和田だけが知っている。
「詩」とは表現の仕方なのである。書き方なのである。書かれた事実や存在ではないのだ。
すでに人間の行為は書きつくされている。ギリシャ悲劇の時代から作家たちは「書くものはもう何もない」と訴えている。しかし、延々と文学はつづく。なぜか。書き方はひとつではないからだ。
多和田は「書く」ということを強く意識している。その意識のなかに「詩」がある。書かれた内容ではなく、書き方に個性がある。書き方というのは空気のようなものであって、これがと指し示すことができない。しかし、その文体を読めば、作者の署名がなくても、あ、これは誰それの作品だとわかる。
多和田は、そうした強靱な文体をもった詩人である。
文体の特徴をあげれば、先に書いたことと重複するが、誰もが知っていることばをつかう。誰もが知っている「秘密」「ほのめかし」つまり「俗な隠語」をするりとすり抜けるようにしてつかうことで、人間の肉体の曖昧さを利用する。あくまで肉体にそってことばを動かすということだろうか。
これはきのう触れた河津聖恵のことばの動きと対比すればわかりやすいかもしれない。
みられない ききとれない かぞえられない 世界の曖昧な裸体を
覆うようにさらけだしていくのだ。
(河津聖恵「雪」)
河津は「裸体」ということばをつかっているが、そのことばに触発されて、具体的な裸体を想像できる人間がどれだけいるだろうか。河津の「裸体」は抽象的であり、頭の中にのみ存在するものにすぎない。河津は肉体ではなく、精神の動きを「共有」する人にのみ向けて、ことばを発している。
多和田のことば、たとえば「月の部屋」「ひび」「われもの」などは、それが裸体とは書いていないが、そう書けば読者は女の体を思い浮かべるということを熟知している。人間は肉体をいろいろな呼び方で呼ぶことを知っている。肉体は人間にとっては「キーワード」のように、意識しないまま、自分になじませているものだということを熟知している。
ただし、人間は基本的に自分の体しか実感できない。だからほんの少しずつほんとうは違っているかもしれない。私と他人との間には微妙なずれがあるかもしれない。そうしたずれを刺激するようにして、多和田はことばを動かす。駄洒落、隠語、俗語……そうしたうごめきに身をまかせ、うごめきそのものになってみせる。それが多和田の文体だと思う。