小紋章子『明日への想い』(私家版)を読む。
「明日への想い 一」の第2連。とても美しい。
なぜ父の顔(父に似た部分)を探すのか。理由は書いていない。書いていないから私は勝手に想像する。小紋は母の子であると同時に父の子である。二人がであってはじめて小紋が誕生した。そのことを母に思い出させてやりたいのだろう。いわば幸せな青春時代を、母に思い出させてやりたいのだろう。
そしてそれは同時に小紋自身にとっても、何か楽しい記憶に重なることなのだ。父を思い出すこと。父の思い出を生きること。その思い出を母と共有すること。
この作品の4連目には不思議な行がある。
スペードは普通黒である。赤いのはハートかダイヤである。赤いスペードを見たとき、人は形からスペードと判断するだろうか。赤い色からスペードではないと思うだろうか。そしてハートやダイヤを想像するだろうか。
この行は、不思議と、先に引用した2連目を思い起こさせる。
小紋の顔。小紋自身は「母によく似てる」と書いているが、同時にそのなかに「父の顔」もあると判断している。赤いスペードのなかにはスペードとスペードではありえないものが共存している。スペードが母で赤が父だとすれば、小紋は赤いスペードである。スペードが父であり赤が母だとしても、小紋は赤いスペードである。
人は人と出会って生きていく。「私」はそうした出会いのなかで形作られる。「スペード」もあれば「赤」もある。私のなかには、そうしたものが共存している。そしてそれは表に出てきたとき「赤いスペード」となる。それは奇妙な存在かもしれない。しかし、それを奇妙と思うのは、よほど融通性のない人間である。頭で論理を追いかけることだけに時間をついやしている人間である。
「赤いスペード」を見たとき、人はそれを「赤いスペード」だと思うだけである。あ、この人はスペードを赤くぬりたかったのだと思うだけである。そうしたいならそうするしかない。そう思うだけである。だれにだって、スペードを赤くぬってみたいときがあるだろう。あるいは、青に、緑に、黄色に、白に。なんだかわからないけれど、人間には、そうしたあいまいな気分というものがある。
小紋の詩集には、そうした人間のあいまいな気分というものを平然と受け入れている広がりがある。
窮屈なところがない。
私は不勉強でまったく知らないのだが、小紋は画家でもあるらしい。詩集の表紙は彼女自身の描いた絵である。この絵が詩と同じようにおもしろい。余白がある。描きたい形と色が、描きたい部分だけ描かれている。あとは余白である。余白の方が絵全体で占める割合が多い。
先に引用した「母に似た顔」の連のように、見るものが勝手に想像すればいい、と思っているのだ。小紋がかきたいのは十分にかいた。あとは見るものが自分の感性のなかで形を描き、色を塗る。そうすることでひとつの作品が共有されるのだ。
自分自身を開いた状態にし、そこへ読者(鑑賞者)を受け入れ、遊ばせてくるレ広がりをもった詩集である。
「明日への想い 一」の第2連。とても美しい。
鏡をみた
母によく似てる
ますます似てくる
明後日は母に
会いにいくのだから
鏡の中に
父の顔をさがそう
なぜ父の顔(父に似た部分)を探すのか。理由は書いていない。書いていないから私は勝手に想像する。小紋は母の子であると同時に父の子である。二人がであってはじめて小紋が誕生した。そのことを母に思い出させてやりたいのだろう。いわば幸せな青春時代を、母に思い出させてやりたいのだろう。
そしてそれは同時に小紋自身にとっても、何か楽しい記憶に重なることなのだ。父を思い出すこと。父の思い出を生きること。その思い出を母と共有すること。
この作品の4連目には不思議な行がある。
画面にトランプ
の絵をかいた
スペードに赤を
ぬった
ただそれだけ
スペードは普通黒である。赤いのはハートかダイヤである。赤いスペードを見たとき、人は形からスペードと判断するだろうか。赤い色からスペードではないと思うだろうか。そしてハートやダイヤを想像するだろうか。
この行は、不思議と、先に引用した2連目を思い起こさせる。
小紋の顔。小紋自身は「母によく似てる」と書いているが、同時にそのなかに「父の顔」もあると判断している。赤いスペードのなかにはスペードとスペードではありえないものが共存している。スペードが母で赤が父だとすれば、小紋は赤いスペードである。スペードが父であり赤が母だとしても、小紋は赤いスペードである。
人は人と出会って生きていく。「私」はそうした出会いのなかで形作られる。「スペード」もあれば「赤」もある。私のなかには、そうしたものが共存している。そしてそれは表に出てきたとき「赤いスペード」となる。それは奇妙な存在かもしれない。しかし、それを奇妙と思うのは、よほど融通性のない人間である。頭で論理を追いかけることだけに時間をついやしている人間である。
「赤いスペード」を見たとき、人はそれを「赤いスペード」だと思うだけである。あ、この人はスペードを赤くぬりたかったのだと思うだけである。そうしたいならそうするしかない。そう思うだけである。だれにだって、スペードを赤くぬってみたいときがあるだろう。あるいは、青に、緑に、黄色に、白に。なんだかわからないけれど、人間には、そうしたあいまいな気分というものがある。
小紋の詩集には、そうした人間のあいまいな気分というものを平然と受け入れている広がりがある。
窮屈なところがない。
私は不勉強でまったく知らないのだが、小紋は画家でもあるらしい。詩集の表紙は彼女自身の描いた絵である。この絵が詩と同じようにおもしろい。余白がある。描きたい形と色が、描きたい部分だけ描かれている。あとは余白である。余白の方が絵全体で占める割合が多い。
先に引用した「母に似た顔」の連のように、見るものが勝手に想像すればいい、と思っているのだ。小紋がかきたいのは十分にかいた。あとは見るものが自分の感性のなかで形を描き、色を塗る。そうすることでひとつの作品が共有されるのだ。
自分自身を開いた状態にし、そこへ読者(鑑賞者)を受け入れ、遊ばせてくるレ広がりをもった詩集である。