詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウラジミール・ナボコフ「音楽」

2006-03-11 23:39:52 | その他(音楽、小説etc)
 ウラジミール・ナボコフ「音楽」(「短篇全集Ⅱ」作品社)の書き出しに部分におもしろい文章が出てくる。

 鏡に映ったヴィクトル・イヴァノヴィチの姿が、ネクタイの結び目を直した。

 鏡のなかの像がかってにネクタイの結び目を直すということはありえない。ヴィクトル・イヴァノヴィチが鏡を見ながらネクタイを直すのである。
 これだけならきどった文章というべきかもしれない。
 しかし、この、一種の鏡を見ているような錯覚に読者を引き込む文章は、その後の作品に呼応している。
 ヴィクトル・イヴァノヴィチは常に作品のなかで、まるで鏡に映った自分をみつめるように、そして鏡のなかの像が動いて、それが彼自身を支配しているかのように、つまり、ある「像」が先行し、その像にあわせて彼が動いているかのような印象をあたえる。

 短篇の文章の醍醐味を味わった。
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橋場仁奈「ボール」

2006-03-11 23:26:47 | 詩集
 橋場仁奈「ボール」(「まどえふ」第6号)を読む。
 草むらに転がっているボールについて書いた作品。2連目がおもしろい。

黒と黄色の
小さい、まるい、縞々の、
ひろうと掌のなかで
ふむふむと蠢く(息、息をする、
草むらの、草むらで(ふむふむ、
ゆうこ、と書かれている(黒いマジックで、
ゆうこ、とゆうこが書いたのかゆうこの母が
ゆうこ、と書いたのかいえいえ母はそんなことをするはずもなく
ゆうこはゆうこ、とじぶんでじぶんに書いて
転がっている
草むら、の

 リズム、文章の息の長さの伸び縮みが楽しい。2連目以降の、ボールを探す少女とボールの想いのやりとりもリズムと息の伸び縮みにひかれて、ぐいぐい読まされる。とても気持ちがいい。
 最後の方の「ゆうこ、は」で始まる8行はとてもすばらしい。「ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ」では、読者自身も「ゆうこ」(私)になってしまう。
 ところが、この詩はそこで終わらない。

そうして
かすかな希望をとどけたい
私たちの(さびしい、
影を映して

 余韻をもたせるために書いたのかもしれない。しかし、これでは余韻が死んでしまう。「ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ」で終わっていたら、とてもいい作品になったと思う。

 詩は、書いたあと、前半と後半を叩ききった方が印象がくっきりすることかある。
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