詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本哲也詩集を読む(1)

2006-03-22 22:42:44 | 詩集
 山本哲也詩集(現代詩文庫180)を読む。

 「風景」は埋め立て地と埋め立て地によって漁を奪われた人間との関係を描いている。

港に繋留される船のように
豪華船の窓に似たビルが
もうすぐそこにたつだろう
そうやって
風景はこわれてゆく
上陸(あが)りをよびもどされるとき
船乗りと海のあいだで
かっきりとはりつめるあの緊張は
もうずっと遠くの方だ
漁夫たちは
ひらいてゆく距離を
テグスのようにたぐりよせようとするが
かれらの風景は
けっしてあらわれない

 「ひらいてゆく距離」が山本の「詩」の源風景かもしれない。「私」が生きてきたのはここではない場所。そして故郷はどんどん遠くなってゆく。しかし、故郷はなくなるのではなく、必ずどこかにある。それは現実の世界から消えてしまっても、たとえば「総天然色の外国映画」(第3連)のなかにある。虚構、あるいは創作物のなかにある。そして、それが虚構や創作であれば、彼と故郷との距離はさらにさらにひらいてゆくものとしてしか存在し得ない。
 山本のことばに悲しみが潜んでいるとすれば、それはひらいてゆく距離のために生じる悲しみである。

 これは逆のことばでいえば、人は何かを手にしてしまうとけっして失うことはできない。うしなったつもりで、ただひらいてゆくばかりの距離をしっかりと握りしめている、ということだ。

 しかし、この悲しみは「虚構」かもしれない。山本の詩はたしかに「風景」からはじまっているが、最近の詩はそうした世界とは違ったものである。(これは後日書くことになると思う。)
コメント
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