高橋睦郎「旅にて 田原に」(「現代詩手帖」1月号)を読む。
「現代詩手帖」3月号をめくっていたら谷川俊太郎、田原、和合亮一が鼎談している。その三人の名前を見て、私は「あっ」と叫んだ。ふいに高橋睦郎の詩を思い出したのだ。「田原に」とは場所ではなく人の名前だったのだ。田原の作品に対する感想はすでに書いたが、高橋の作品を読んだときは「田原に」がその人とは思い浮かばなかったのである。田原に中国人で日本語でも詩を書いている。「ああ、そうか」と私自身の中で納得のいくものがあった。田原の詩には何か巨大な空間(強靱な視力)があって、それは日本の風土ではなく、中国の広大な風土に根ざしているのだった。
高橋の「旅にて」を読んだときも広大な大地がまず目に浮かんだ。
遠近感を拒絶した(遠近感をつかむことができない)大地。土だけ。その荒々しい空間が印象的で、私は「田原」を地名だと錯覚したのだが、実際は人だった。
田原の作品は広大な大地、日本にはない遠近感をもった空間か描かれているが、高橋も、田原の作品に、まずそうしたものを感じたのかもしれない。だから「大地」から書き始めたのだろう。
ところで、作品のなかの「男」は田原だろうか。この詩は田原のことを描いた作品だろうか。
田原なのだろうが、その存在の描き方が興味深い。「2」は次の8行で構成されている。(「地名」と思って読んでいた「田原」が人を指していることがわかり、まったく新しい世界が見えてきた。)
「私」とはだれだろうか。高橋だろうか。田だろうか。田にかさねあわせた高橋、あるいは高橋にかさねあわせた田だろうか。どちらにしろ、もし高橋と田がであわなかったら存在し得なかった人間である。二人が出会うことで立ち上がってきた存在である。
そして、その存在、あるいは出会いは「死」を、つまり生きているとは何かということを考えろ、と迫る。ふいにやってきた「蠅」は、「詩」であり、ことばである。
田原の新しい詩は高橋のそれまでの作品に死をもたらす。何か違ったことばの運動があること、その運動を高橋は知らなかったということを強く感じさせる。そして、そうした印象は高橋の作品のことばを、その根っこを墓掘り人のようにあばくのだ。(「墓は 暴(あば)かれなければならない」という行が「5」にでてくる。)高橋のことばの再点検迫るのだ。その刺激が高橋のことばの運動のスピードを加速させる。この作品のなかの高橋のことばは、最近の詩のなかでは、とりわけ若々しい印象がある。
これは、残酷なことだろうか。冷酷なことだろうか。残酷でも冷酷でもない。とても美しい理想である。残酷も冷酷も通り越して、ただ事実を事実として語ることばの若さ、ことばの自身がみなぎっている。それは輝きをはなちながら、「死」を踏み台にして華麗に飛び立つ。
「蠅」(詩人のことば、詩)は命がむき出しになった状態、生々しい死とのみ一緒に生きる。瀕死の命、その絶叫とのみ共存する。
生と死、その矛盾した生存のありようが一瞬だけ融合する瞬間がある。そこに「詩」がある。ことばの飛翔、「詩」だけに許された絶唱がある。
高橋は、田原のことばによって、そのことをあらためて認識したのだろう。認識させられたのだろう。
生と死の融合。それは性と死の融合でもある。高橋が「4」以降、性を描き、「墓」を描き、性と生が「死」(生の絶頂)で「生存の恥ずかしさ」(「7」)という抒情に融合することを描くのは、そう証左である。「いのちの絶唱」などというのは、かなり恥ずかしい。恥ずかしいけれど、そのなかにしか愉悦はない。
ああ、すごい。
何か猛烈なラブレターを読まされた気持ちになるが、こんな強烈なラブレターをもらったら、とまどってしまうだろうなあ。こんなすごいラブレターをぬけぬけと(?)書いてしまうのはすごいものだなあ。
そして、このラブレターの最後「12」は、とても美しい。
はじめてあった詩人(田原)との融合(性交)を夢見ながら、それが実現してしまったらどうしようと、高橋はひとりで困惑しているのである。まるで初々しい少年、初恋にとまどう思春期の少年のようだ。
「現代詩手帖」3月号をめくっていたら谷川俊太郎、田原、和合亮一が鼎談している。その三人の名前を見て、私は「あっ」と叫んだ。ふいに高橋睦郎の詩を思い出したのだ。「田原に」とは場所ではなく人の名前だったのだ。田原の作品に対する感想はすでに書いたが、高橋の作品を読んだときは「田原に」がその人とは思い浮かばなかったのである。田原に中国人で日本語でも詩を書いている。「ああ、そうか」と私自身の中で納得のいくものがあった。田原の詩には何か巨大な空間(強靱な視力)があって、それは日本の風土ではなく、中国の広大な風土に根ざしているのだった。
高橋の「旅にて」を読んだときも広大な大地がまず目に浮かんだ。
大地が土だけで出来ていることを
ここに来て あらためて知った
土だけの大地の上に 土だけの道
男が 大きな麻袋を肩に 歩いていく
彼の後ろにも 前にも 土の大地だけ
家らしいものは 何も見えないから
とりあえず 男はただ歩いているだけ
(「1」の書き出し)
遠近感を拒絶した(遠近感をつかむことができない)大地。土だけ。その荒々しい空間が印象的で、私は「田原」を地名だと錯覚したのだが、実際は人だった。
田原の作品は広大な大地、日本にはない遠近感をもった空間か描かれているが、高橋も、田原の作品に、まずそうしたものを感じたのかもしれない。だから「大地」から書き始めたのだろう。
ところで、作品のなかの「男」は田原だろうか。この詩は田原のことを描いた作品だろうか。
田原なのだろうが、その存在の描き方が興味深い。「2」は次の8行で構成されている。(「地名」と思って読んでいた「田原」が人を指していることがわかり、まったく新しい世界が見えてきた。)
小蠅が来る
私が死ぬものだということを 嗅ぎつけて
私が生きていることは 刻刻に死に近づいていること
私が息をしなくなっても しばらくは離れないだろう
だが じゅうぶんに死んで 解体して
死ですらなくなったら 彼は もうそこにはいない
新しい死の みずみずしい匂いのほうへ翔(と)びたって
人間のもっとも親しい友 透明な 優雅な翅(つばさ)を持つ者よ
「私」とはだれだろうか。高橋だろうか。田だろうか。田にかさねあわせた高橋、あるいは高橋にかさねあわせた田だろうか。どちらにしろ、もし高橋と田がであわなかったら存在し得なかった人間である。二人が出会うことで立ち上がってきた存在である。
そして、その存在、あるいは出会いは「死」を、つまり生きているとは何かということを考えろ、と迫る。ふいにやってきた「蠅」は、「詩」であり、ことばである。
田原の新しい詩は高橋のそれまでの作品に死をもたらす。何か違ったことばの運動があること、その運動を高橋は知らなかったということを強く感じさせる。そして、そうした印象は高橋の作品のことばを、その根っこを墓掘り人のようにあばくのだ。(「墓は 暴(あば)かれなければならない」という行が「5」にでてくる。)高橋のことばの再点検迫るのだ。その刺激が高橋のことばの運動のスピードを加速させる。この作品のなかの高橋のことばは、最近の詩のなかでは、とりわけ若々しい印象がある。
だが じゅうぶんに死んで 解体して
死ですらなくなったら 彼は もうそこにはいない
これは、残酷なことだろうか。冷酷なことだろうか。残酷でも冷酷でもない。とても美しい理想である。残酷も冷酷も通り越して、ただ事実を事実として語ることばの若さ、ことばの自身がみなぎっている。それは輝きをはなちながら、「死」を踏み台にして華麗に飛び立つ。
新しい死の みずみずしい匂いのほうへ翔(と)びたって
人間のもっとも親しい友 透明な 優雅な翅(つばさ)を持つ者よ
「蠅」(詩人のことば、詩)は命がむき出しになった状態、生々しい死とのみ一緒に生きる。瀕死の命、その絶叫とのみ共存する。
生と死、その矛盾した生存のありようが一瞬だけ融合する瞬間がある。そこに「詩」がある。ことばの飛翔、「詩」だけに許された絶唱がある。
高橋は、田原のことばによって、そのことをあらためて認識したのだろう。認識させられたのだろう。
生と死の融合。それは性と死の融合でもある。高橋が「4」以降、性を描き、「墓」を描き、性と生が「死」(生の絶頂)で「生存の恥ずかしさ」(「7」)という抒情に融合することを描くのは、そう証左である。「いのちの絶唱」などというのは、かなり恥ずかしい。恥ずかしいけれど、そのなかにしか愉悦はない。
ああ、すごい。
何か猛烈なラブレターを読まされた気持ちになるが、こんな強烈なラブレターをもらったら、とまどってしまうだろうなあ。こんなすごいラブレターをぬけぬけと(?)書いてしまうのはすごいものだなあ。
そして、このラブレターの最後「12」は、とても美しい。
ナン造りは小麦粉を捏ね
肉屋は肉塊に鉞(まさかり)を揮(ふる)い
陶工は轆轤(ろくろ)を蹴り
織師(おりし)は杼(ひ)を走らせ
さて 詩人は何をする?
彼はだんまりを決め込む
言葉に そう簡単に来られても
困るので
はじめてあった詩人(田原)との融合(性交)を夢見ながら、それが実現してしまったらどうしようと、高橋はひとりで困惑しているのである。まるで初々しい少年、初恋にとまどう思春期の少年のようだ。