詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河津聖恵「雪」

2006-03-05 15:44:07 | 詩集
 河津聖恵「雪」(「現代詩手帖」3月号)を読む。河津のことばの動きには、何か長い長い遠回りをするようなものがある。遠回りすることが河津の「詩」なのかもしれない。遠回りとは、そして、想像し、想像を、ことばで検証することである。

庭で手のひらは天候をかんじている。
やがて雪が
灰白の空から翼のある時刻のように舞い降りてくるだろう。
目をとじてごらん、目にみえないものがみえるから----
誰だろう、背中から私を長い爪でつつむ者がいる。
まるで冬そのもののように。

 庭に出ている。寒い。手のひらが雪でも降りそうな寒さを感じている。そこへ声が聞こえてくる。「やがて雪が/灰白の空から翼のある時刻のように舞い降りてくるだろう。/目をとじてごらん、目にみえないものがみえるから----」。目をつむれば、そして想像すれば、その想像世界へ、現実には見えない雪が降ってくる、とその声は告げる。
 そのあとの行が複雑である。

誰だろう、背中から私を長い爪でつつむ者がいる。

 この「長い爪をもつ者」は想像のなかへ降ってくる雪よりももっと想像力を必要とする。誰なのか、何なのか、おそらく河津以外の誰にもわからないだろう。しかし、河津には説明不要なくらいそれが何であるかはわかっている。わかりすぎているから説明できない。手のひらが感じる寒さ、それが雪が近いと感じさせる寒さであるということを、ほかのことばで言い換えることができないのと同じように言い換え不能な何かがここにある。こうした言い換え不能なことばこそ、詩人にとっての「キーワード」である。
 わからないものはわからないままにして、先を読む。
 河津はこの声にしたがって河津は瞼を閉じて、幻の雪を見つめる。

その声はひさしぶりに瞼をとじさせる
(ほのおのようなものを見過ぎてしまったか)
ひとひら、ひとひら、いまだ降ってはいないものが
不思議な光りとともにほどかれてくる。
いくひら、私のたましいは受け止められたか。
あるいは通過させられるか。
一から十数えると、いつもふいにわからなくなる。
それでもうろたえなくていい。
私の背後にいる者が、数えられなかった端数を、数えているから。
それらは私の知らないあおさをまとっている。

 前半は目をとじて雪を想像している描写。とてもわかりやすい。しかし、

私の背後にいる者が、数えられなかった端数を、数えているから。

が再びわからない。だが、この「私の背後にいる者」こそ「背中から私を長い爪でつつむ者」である。彼(彼女)は、降ってくる雪のすべての数を数えることができる存在である。そうしたものがある(いる)ことによって、河津の想像はささえられている。河津は安心して雪について想像することができる。

 第3連で、その存在は、別のことばで描写される。ようやく、河津によって説明される。

長い爪を持つ者は
永遠の氷と擦れてきらめくありえない数を知っている。
雪は私のなかで大小の鳥となって滑空をはじめる。
胸の孤独の白さから冷たいはばたきが誕生し、また誕生する。
長い爪をもつ者の耳で
それらは誕生のよろこびと
消滅の恐怖に
甲高く鳴き うちふるえているのだ。

 しかし説明といっても、これでは何も説明していることにはならない。いや、もっとわかりにくくなるといった方がいいかもしれない。

長い爪をもつ者の耳で

と、ふいに「耳」が出てくる。目をつむって幻の雪を見る。幻の雪は鳥となって空を滑空する。感性の融合(視覚、聴覚の融合)は肉体にひそむいのちを奥深くから
つかみだし、何かを有無を言わせずに納得させるのが普通だが、ここでは逆に働く。「耳」の登場によって、世界が肉体から「頭脳」のなかへ引き返してしまう感じがする。(たぶん、この「頭脳」のなかへ引き返していく感じが河津の詩をわかりにくく、あるいは繊細すぎるもののように感じさせるのだと思う。)
 河津がこの連で明らかにしているのは「長い爪をもつ者」が雪を視覚、聴覚を統合した形で知っているということと、河津はそうしたことを知っているというふたつのことがらである。
 「長い爪をもつ者」は想像の産物かもしれない。しかし、それを河津は想像の産物、想像力の世界にのみ存在するということも知っている。想像したものを、想像したものであると知っている。この、何でもないような、しかし、冷徹な「頭脳」が河津のことばの動きをいつも制御しているように感じられる。
 想像したものを単に想像世界として提出するのではなく、それが想像世界手あるということを意識する河津自身も、その場に立ち会わせる。そのために遠回りが生じるのかもしれない。

頬に雪粒があたり
目をゆっくりとひらく。
長い爪のある者はふいに背中から離れていく。
雪の数の端数の彼方へみずからもともに梳られて。
だから数えきれない現実の雪を
恐れることはない。
木の株は少し橙に染まり、土は黒く濡れて。
長い爪のような枝々は陰翳の凄みをまし
みられない ききとれない かぞえきれこない 世界の曖昧な裸体を
覆うようにさらけだしていくのだ。

 ふいに「現実」が登場する。「長い爪のような枝々」が突然あらわれる。このことばに注意して、過去の行を読み返せば、「長い爪をもつ者」とは木々になるだろう。裸の木々。それは河津の知らない天候、自然を知っている。(雪を大小の鳥の滑空と河津が表現するのも、鳥と木々が縁続きにあるからだろう。)だが、ほんとうに、「長い爪をもつ者」は木々だろうか。河津が庭にたたずみ手のひらで雪が降るかもしれないと感じているときに背後に揺れていた木々だろうか。
 違う。あるいは、ほんとうだ。どちらでもある。
 「長い爪のある者はふいに背中から離れていく」一方、「長い爪のような枝々は陰翳の凄みをま」す。

みられない ききとれない かぞえきれこない 世界の曖昧な裸体を
覆うようにさらけだしていくのだ。

 「覆うようにさらけだしていく」とは矛盾である。そして、この矛盾こそが「詩」である。
 それは想像力の世界を描きながら、同時にそれが想像力の世界であると告げるやり方である。
 これは逆の言い方をした方がいいかもしれない。現実を描きながら、それが現実であると意識することは、その現実と信じているものが実は想像力に汚染されている危険があると意識しなければならないと告げることと同義である、と。

 河津は想像力の世界も現実の世界も信じてはいない。というか、そうしたものがことばでとらえられるとは信じていないのだろう。信じることができるとしたら、ことばは想像を描きながらそれを想像にすぎないと意識する運動をことばで検証することができるし、また現実を描きながらそれが想像力に汚染されたものであるかどうかを意識する運動をことばで検証することもできるということだろう。

 河津の詩は、ときにとても複雑な姿をとる。





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