詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『童子』(その3)

2006-08-12 23:45:56 | 詩集
池井昌樹『童子』その3

 「いのちのつながり」は「産む」「生まれる」という形でつづく。基本的には父母-子-孫(過去-現在-未来)という姿をとる。しかし、池井はそうした過去から未来へ動いていく時間系列とは別の次元でも「産む、生まれる」をつかっている。
 「厩」という作品。

なあ
妻よ
このごろ夫(つま)はかんがえる
おまえからうまれたんだな
むすこらだけじゃない
おれも
おまえがうんでくれたんだな
としはもゆかぬこむすめが
とおもはなれたうまのほね
わけのわからぬおやじをひとり
このよのくらいうまやのすみで
こっそりうみおとしたんだな
夫として
また父として
やまありたにあり
やままたありて
みえないつぼみがひらくよう
いつしか夫もいたにつき
いつしか父のかおをして
いばりくさっているけれど
けれども妻よ
夫はこのごろかんがえる
おまえからうまれたんだな
このよろこびもくるしみも
ささやかなこのいのちまで
難産どころじゃありませんわよ
かぼそいうなじをのぞかせながら
となりでねいきをもうたてている
妻よ
なあ

 ここに書かれている「生まれる」は比喩として読むことができる。池井がひとりの女性と出会い、生まれ変わる。それ以前の池井とは違った池井になる。ありていに言えば、詩だけしか眼中になかった池井が、家庭を持ち、家族を持ち、それまで気がつかなかったもの、家族という形でえんえんとつづいてきたいのちのあり方に気がつく。池井を産み、育ててくれた家族への感謝に目覚め、彼が受け取ってきたものを家族にかえすとこでいのちのつながりを広げていくことの大切さに目覚める、ということになるかもしれない。
 それはそうなのだが、私は、少し違ったものを感じる。
 ここでは池井は「妻」に対して「おまえがうんでくれたんだなあ」ということばをもらしているが、これは「妻」だけに対してのことばではないように感じられてしようがない。
 池井は「りんさんの月」で石垣りんとの出会い、交流を描いているが、他人と出会うこと、交流すること、そうした「一期一会」すべてに対して「おまえがうんでくれたんだなあ」と感じているのだと思う。石垣りんに対しては「おまえがうんでくれたんだなあ」というような表現はできない。対等な感覚で、そういうことばをいうことはできないし、また、石垣りんにしても、妻がもらすように「難産どころじゃありませんわよ」というような軽口でこたえる具合にはいかないだろう。だが、(たぶん)、池井は妻の軽口のような温かい励ましを受け止めているはずである。山本太郎に対しても、会田綱雄に対しも、その他の多くの人に対しても、同じだと思う。多くの人が「難産」のすえに池井を産んでくれた、池井は多くの人から生まれた。そのことを妻を描くことで代弁させている。
 いのちのつながりは「過去-現在-未来」という縦軸だけではなく、横軸にも広がっている。(山本太郎、会田綱雄、石垣りんを描くだけでは、彼らが池井より先輩であるだけに、そのつながりは「縦軸」と誤解されるかもしれないからこそ、妻を登場させることで「横」、同時代ということを強調したいのだと思う。)横のつながりは、現在という時間の広がりを豊かにする。池井は人間だけではなく、鳥や木からも生まれたのである。「だれもしらない」の鳥や木はそうしたことを語っている。
 今という時間は縦軸の中でとらえれば、父母-池井-息子。横軸でとらえれば、池井-妻(山本太郎ら)-鳥-木。そして、妻には妻の縦軸の時間があり、鳥には鳥の縦軸の時間があり、木には木の縦軸の時間がある。池井がこころの一番深いところで感じているのは、そうしたさまざまな縦軸の時間を、今、ここに、並列させるなにかがある、何者かが並列させているということに対する「畏れ」である。だれかがそうした複数の時間を並列させ、池井の目の前に差し出している。池井は、それを放心して眺めている。どう受け止めていいかわからず、それでも受け止めているということをなんとかことばにしようとしている。
 あるいは、何者かが、池井が、今、ここにあるさまざまな時間をちゃんと受け止めるかどうかを見つめている。巨大な眼差しによって、いつも池井はみつめられている。そのまなざしは過去からの視線であり、未来からの視線であり、同時代からの視線である。それらが一緒に融合したもの、つまり永遠の視線である。
 その厳しい、あるいは温かい視線の中で池井は真っ裸になる。無防備になる。放心するしかない。池井を真っ裸にし、無防備にし、放心させる力を持った視線。
 それを強烈に感じ、ふるえ、一種の「畏れ」のなか、池井は同意を求める。「なあ」と声をもらす。巨大な視線に対しては「なあ」とは言えない。巨大なものが、どこかにある。それを妻に知ってもらいたい。だから「なあ」と言う。これは妻に対してだけではなく、読者のすべてに対して投げかけられた「なあ」でもある。

 「なあ」の中にある実感--それは「なあ」とだれかに呼びかけたことのある人間にしかわからないものかもしれない。知ってもらいたい。知ってもらえるかどうかわからないけれど、感じていることを伝えたい。
 そこにはなにかことばにならないものがある。
 そして、それを受け止める人、たとえばとても親密な関係にある妻にしろ、たぶん「はいはい」と受け答えをするだけしかできない。「難産どころじゃありませんわよ」というような軽口でしか受けことえすることができないものである。このとき、つまり、妻の側にもなにかことばにできないものがあるのだ。
 ことばにできないもの、ことばにならないものが、出会い、触れ合い、感じ合う。そのときの強いつながり、ことばにならないがゆえにことばを超えた強いつながりが「なあ」のなかにある。

 この詩は、たぶん多くの人にとって、池井が妻に感謝をこめてささげた詩として受け止められるだろう。それはそれでいいことだし、多くの人に、そういうふうにして受け入れられ、愛される詩であって欲しいと私は願うけれど、同時に、その池井詩への愛が、ことばをこえて、いつの日か、この世にあるすべてのもの、この世に生きるすべてのもの、鳥や木へも、知らないうちに広がって行ってほしいと思わずにはいられない。
 鳥や木に対して「なあ」と呼びかける人が、池井の詩を読んだ人の中から生まれてくることを願わずにはいられない。


コメント
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