詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

倉橋健一『化身』(その2)

2006-08-02 12:25:01 | 詩集
 わたしを隠して、もしわたしが何かになるとしたら、と仮定し、その仮定のなかへ「化身」として登場する「わたし」。
 そこから強い構造と、その構造に拮抗する抒情が生まれてくる。抒情の不可能性にあらがいながら、抒情を確立するために、倉橋は「化身」という強い構造、寓話、あるいは神話とさえ呼べるものを作品に導入し、ことばの運動、抒情の復活を追求している。
 「溜まり色」。その1連目。

風が吹いている
止(や)んでも縹色(はなだいろ)のこうもり傘がいっぽん
白い高層ビルの天辺(てっぺん)にひっかかって
余韻のせいで揺れている

 美しい。縹色と白の対比、こうもり傘と高層ビルという小さいもの、巨大なものの対比、「ひっかかって」という不安定な存在のありようが、その対比のなかに揺れる。
 「余韻のせいで」と倉橋は書いているが……。
 「余韻」とは何だろうか。「風」は私の外部にある。「余韻」は精神の動きのなごりである。高層ビルの天辺にひっかかり揺れているこうもり傘を見たとき精神が動く。たとえば、その傘の色は縹色と認識し、たとえば高層ビルは白いと認識する。その精神の動き、動きとは意識されないような動きの、その微妙なこころの変化が、こうもり傘を揺らすのである。
 倉橋はここではこうもり傘が揺れると描写しているのではない。現実のこうもり傘は揺れない。それは倉橋の精神のなかでのみ揺れると言っているのである。抒情は精神のなかに動く。そのことを倉橋は強く意識しながらことばを書いている。だから、そこには「酩酊」がない。厳しく醒めた感覚だけがある。この厳しさが、倉橋のことばを清潔なものにしている。抒情を描いて、抒情まみれという感じがしないのは、抒情が精神のなかに存在する世界だという冷徹な意識があるからだろう。

 2連目に、とても不思議なことばが登場する。

見上げる人たちが騒(ざわ)めいている
化身したアゲハチョウだという人がいる
燠(おき)がこうもり傘の形をしているんだという人がいる
まだ時間はたっぷりあるのに
どうしてあんなところに舞い上がってしまったんだろう
と 泪ぐむ人がいる
おさげ髪のおさなごがひとり
だまって両手をかざしひらひらさせた
くるくる、くるくる、こうもり傘は応えたようだ

 「まだ時間はたっぷりあるのに」。どういう意味だろう。誰の、何をするための時間だろう。何の説明もない。
 こういうとき、私のこころは勝手に動く。勝手にさまざまなことを考える。そして、思い出すのは「もしもわたしが生まれ変わるとしたら」という行である。「もしもわたしが何かになるとしたら」という意識である。この作品でも倉橋は何かに「化身」しているのである。「こうもり傘」に「化身」しているのである。こうもり傘は倉橋なのである。ただし、倉橋であると言っても倉橋その人ではなく、ある物語り(寓話、寓意)のなかの主人公としての、という意味である。
 この作品は高層ビルから投身自殺する人間を描いたものである。
 ビルの天辺に揺れるもの。「こうもり傘」に見えるもの。それはひとりの男(あるいは女かもしれないが)。その人間を、ある人は「こうもり傘」と見る。(倉橋自身も「こうもり傘」と見立てたいのだ。)ある人は「アゲハチョウ」だと見る。いずれにしろ、それが人間であり、飛び下りれば死ぬという現実から少しでも遠ざかりたいのかもしれない。だが、天辺では死を覚悟して、人影が揺れる。こうもり傘となって、アゲハチョウとなって……。
 「まだ時間はたっぷりあるのに」とは、飛び下り自殺をこころみようとしている人に対してのことばだろう。「まだ(あなたには)時間はたっぷりあるだろうに」とそれを目撃した普通の人は思うのである。
 ところが普通の人ではない人間、つまりまだ普通の「大人の意識を持ち得ていない人間」である「おさなご」はどうだろう。

おさげ髪のおさなごがひとり
だまって両手をかざしひらひらさせた
くるくる、くるくる、こうもり傘は応えたようだ

 おさなごは「まだ時間はたっぷりあるのに」などとは思わない。ビルの天辺の人が自殺しようとしているなどとは想像しない。遠くに人がいる、人が遠くなるのは別れるときである。別れるときには手を振る。「バイバイ」。それはこどもの肉体の自然な反応である。それにあわせるようにこうもり傘である人間も手を振る。「くるくる、くるくる」まわって見せる。もし倉橋が「こうもり傘」になったのだとしたら、そこでは「くるくる、くるくる」まわって見せたということだろう。

3連目。

さよなら、時間はまだたっぷりあるのに
さようなら、
と見ていた人たちがあいさつを交わしている
あつまったから去っている人たち
こうもり傘は高層ビルの天辺で
まだ熱心に揺れている
おさなごも一心に手をかざしている
まもなく昏れなずむ時刻にくるまれるだろう
風は止んだままだ
こうもり傘は縹色のままだ
かざしたもみじばの手もそのままだ
そこに溜まり色はできあがる

 ここでは「時間はまだたっぷりあるのに」は意味が少し変わっている。「自殺者」が地上の人を見て、思っている。「わたしが飛び下りるまでには時間はまだたっぷりあるのに」人は、「さよなら」と去っていく。人が去っていくので、自殺者は自殺を決行しようかどうしようか、まだ「揺れている」(「熱心に揺れている」とは懸命に思いを巡らし、その思いが揺れている、ということだろう。)
 これは自殺者が最後に見る風景である。
 自分を「こうもり傘」に「化身」した存在、あるいは「アゲハチョウ」に化身した存在だと思ってもらいたいのは、そこに、もしかすると開いたこうもり傘ならふわりと着地できる、アゲハチョウなら風に乗って飛んで行くことができるというはかない願望が隠されているかもしれない。倉橋は、自殺者の「抒情」をそんなふうに思い描いているかもしれない。

 どんな悲劇に直面しても、人間のこころ、精神はただ打ちのめされるだけではない。何らかの「化身」をとおして、打ちのめされ、傷つけられるだけの状況から脱出する。精神を救い出す。
 もちろん、そうした「脱出」はもしかすると「逃走」かもしれないが、そこには精神が生き延びるひとつの道がある。現代において、抒情に必要性があるとしたら、それは精神をながらえさせる方法としての抒情かもしれない。
 「自殺者」が自殺を思い止まったか、ほんとうに自殺してしまったか、ということは文学では問題ではない。そうした状況でも、こころは動く。いや、そうした状況だからこそ、こころは動く。その動くということのなかに、人間の「可能性」がある。そしてその「可能性」のなかには、もちろん「抒情」も含まれている。
 そんなことを考えた。
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